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'''毛利 広義'''(もうり ひろよし、? - [[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]]))は、[[江戸時代]]初期の武士。[[本姓]]は[[源氏]]。家系は[[河内源氏]]の[[棟梁]]・[[鎮守府将軍]][[源義家]]の七男(六男とも)[[源義隆]]の長男・[[源義広 (毛利治部丞)|毛利義広]]を家祖とする(家系については[[毛利氏 (源氏)|源姓毛利氏]]を参照)。源姓毛利家14代当主。仮名は金右衛門。 広義は毛利家12代当主である[[尾張藩]]重臣、八神城主・[[毛利広盛]]の次男として生まれ、その世継ぎとなる。通称は金右衛門。諱は広義、広高ともいう。兄に[[毛利広之]]、弟に[[毛利広重]]がおり、それぞれ尾張藩士となった。子は[[毛利広豊]]。広義は八神村に住い、名古屋に出仕した。元和5年(1619年)10月12日死去。 [[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])頃、尾張藩の重臣として登用され、[[名古屋城]]へ登城するため、[[八神街道]]を開いたと伝わる。八神から名古屋城に登城する為には、八神から渡船で対岸の[[祖父江町|祖父江]]へ上り、[[清須市|清洲]]・[[西枇杷島町|枇杷島]]を経て名古屋という経路を移動する為、通り道の整備を行い、[[八神渡船]]を設けた。この通路江戸中期には、西の大須渡船とも連携する様になり、八神村など近隣の村民などにも渡船を開放されたと伝わる。この渡船は、八神渡船場として発達し、付近には、人力帳場や荷役を業とする商業が栄えたという。子孫の記録として『九十九之塵』によれば、[[毛利広賢]]なる者の名が記され、上屋敷を片端大津町、下屋敷は古渡村に構え、在所は[[美濃国]]安八郡八神村に3000石の知行地を領有したという。 == 参考文献 == *『尾藩諸家系譜』 ==関連項目== *[[毛利氏 (源氏)]] *[[毛利広盛]] {{DEFAULTSORT:もうり ひろよし}} [[Category:生年不明]] [[Category:1619年没]] [[Category:尾張藩の人物]] [[Category:毛利氏 (源姓)|ひろよし]]
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