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{{記事名の制約|title=毛玠}} '''毛 玠'''(もう かい、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末期の政治家。[[字]]は'''孝先'''。[[兗州]]陳留郡平丘県([[河南省]][[新郷市]][[長垣県]])の人。子は毛機。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書に独立した伝がある。 == 経歴 == === 人事担当 === 若い頃は県の役人となり、公正さで評判となった。戦乱を避けて[[荊州]]へ避難する事を考えたが、[[刺史]]である[[劉表]]の政治がいい加減なものであるという噂を聞き、丁度兗州に進軍してきた[[曹操]]から治中従事として招かれたため、これに応じた。[[献帝 (漢)|献帝]]が[[長安]]を脱出し流浪していた時、これを保護する事を進言し、また帝の権威と農業で富ませた財力により、[[袁紹]]や劉表に対抗すべきと主張した。この進言が曹操に受け入れられ、毛玠は軍府の功曹に採り立てられた。 曹操が[[司空]]・[[丞相]]になると、東曹の掾となって[[崔エン|崔琰]]と共に官吏の人事担当を任された。毛玠は清廉潔白を重んじ、官吏に清廉な人物しか登用しなかったため、高官にあるものでさえ自ずと自身の行動を節制するようになった。曹操はこの状況を良しとした。 一方で毛玠は、他人からの要請を全く受け付けなかったという。曹操の子[[曹丕]]に身内の者の登用を頼まれた時、毛玠はこれですら拒絶した。このため周囲の人々から毛玠に対して不満が噴出し、東曹を廃止して西曹に一本化すべきという意見が出た。しかしこの時、曹操は毛玠を庇い、逆に西曹を廃止した。 後に右軍師へ昇進し、曹操が魏公となると[[尚書省|尚書]][[僕射]]となり、引き続き人事を担当した。[[曹植]]を可愛がる曹操を諌め、長幼の序をはっきりさせるべきだと進言した。曹操は毛玠を古人に準えて称えた。 なお時系列は不明だが、西曹掾の[[丁儀]]は東曹掾の毛玠とともに[[徐奕]]を誹謗・讒言した。しかし彼等は[[桓階]]が弁護したため、罰されずに安全を保つ事ができたという話がある(桓階伝)。 === 曹操との対立 === しかし[[216年]]、崔琰がちょっとした誤解から曹操の不興を買って自害に追い込まれると、それを不満に思った毛玠と曹操の関係も冷え込んだ。やがて毛玠も讒言を受け、それを信じて激怒した曹操に投獄されてしまった。[[鍾ヨウ|鍾繇]]に厳しく尋問されたが、屈しなかったという。[[和洽]]は毛玠の人事政策にかねてから不満を持っていたが、毛玠が投獄されると曹操に対し、毛玠に非があるか否かの確認のため、讒言の事実関係を明らかにする事を要請した(和洽伝)。結局、毛玠は免職だけで助命されたが、家に戻り不遇の内に亡くなった。その性格の清廉潔白さは、毛玠伝に引かれた『先賢行状』にも記されている。 子は不遇をかこっていたが、[[魏 (三国)|魏]]王朝が成立した[[220年]]の詔勅により、郎中となった(文帝紀)。 ==三国志演義== 小説『[[三国志演義]]』では、兗州で挙兵した曹操に[[満寵]]と[[呂虔]]から推挙され仕えた事にされており、[[赤壁の戦い]]では[[于禁]]と共に水軍[[都督]]を拝命している。 {{DEFAULTSORT:もう かい}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:毛氏|かい]]
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