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'''母衣'''(ほろ)とは、[[日本]]の[[武具]]の一種。「'''幌'''」、「'''保侶'''」とも書く。 == 解説 == [[ファイル:Kumagai Naozane,Ichinotani.jpg|thumb|right|[[平敦盛]]を呼び止める[[熊谷直実]]。その背中に大きな赤い母衣を負う。永青文庫蔵「一の谷合戦図屏風」より。]] 母衣は武士の「七つ道具」の一つとされている<ref>『広辞苑』(第六版 岩波書店)、「七つ道具」の項。</ref>。戦場における[[甲冑]]着用の際に、縦に縫い合わせた長い布を背中につけたもので、馬で駆けると風をはらんでふくらみ、背後に長く引いて背面からの流れ矢を防ぐ役割を果たし、[[大鎧]]とともに馬を駆り[[弓 (武器)|弓]]を主武器とする当時の武士の戦闘法に適していた。騎馬戦闘が廃れた[[室町時代]]の頃からは、内部に鯨のひげなどで作った骨を入れ常にふくらんだ形状を維持して背負う装飾具に変化し、差物(さしもの)の一種となった。「母衣」という表記はその形状と用途から妊婦の[[胞衣]]になぞらえたものという説もあるが、確かなことは不明である。 === 歴史 === 『[[日本三代実録]]』の[[貞観]]12年([[870年]])3月16日の条には、[[小野春風]]が大量の「保侶」を[[朝廷]]に乞うたという記事が見られ、このころから用いられていたことが確認される。この時代はまだ武士の大鎧は形成されていない。 『[[中右記]]』には[[永久 (元号)|永久]]元年([[1113年]])、[[源重時]]の[[郎党|郎従]]が甲冑の上に流れ矢を防ぐための保侶という布をまとい、これを一族の風として習い、[[源重武]]の郎従達も[[久安]]3年([[1147年]])の合戦で身にまとい、人目を驚かせたという<ref>笹山晴生 『古代国家と軍隊 皇軍と私兵の系譜』 『[[中公新書]]』、1975年 p.188 - 189</ref>。[[12世紀]]中頃では、武士甲冑による集団(一門)が揃って保侶を身にまとうという行為は、まだ珍しかった。 [[文永の役]]の際、紅の母衣をかけた[[肥後国]]の大将[[菊池武房|菊池二郎武房]]が蒙古人の首ふたつを太刀と長刀(なぎなた)の先に刺して持っていたという記録がある<ref>筧雅博 『日本の歴史10 蒙古襲来と徳政令』 [[講談社]]、2001年 p.103 ISBN 4-06-268910-3 </ref>。武房は仲間の死体の中から起きあがってかろうじて生き延びた<ref>同書 p.103</ref>とあることから、かなりの混戦だったとみられるが、紅の母衣が確認できるあたり、ちぎられなかったとわかる。 [[15世紀]]末前後成立の『[[鴉鷺合戦物語]]』の「第八 母衣次第、正素嫡子七郎折檻、鵠越後守上洛之事」の条には母衣について詳しい記述があり、それによれば本式は[[紅]]であり、[[赤]][[白]]の色もあり、これは[[陰陽]]の2色であるとし、白は老武者がかけるものと説明している。大きさについては「五[[幅]]<!-- 「幅」は和服の単位 -->五尺」、すなわち5[[尺]]の長さで約36cm幅の布を<!--横に-->5枚縫合わせたもので「五大五仏」を表し、他に「八幅八尺」や「十幅一丈」(一丈は10尺)のものもあると記し、縫う糸についても口伝ありとする。その色から大きさ、製作まで信仰と密接に繋がっていたことがわかる。また陣中でかける母衣、合戦時にかける母衣、勝戦(かちいくさ)にかける母衣、歩立(かちだち)のかける母衣、討死が確定した状況でかける母衣と、状況によって使用する母衣は異なるとしている。『鴉鷺物語』が記述された15世紀時点では、紅・赤・白以外の色の記述は見られない。 [[上泉信綱]]伝の『[[訓閲集]]』([[大江氏]]の兵法書を改良したもの<!-- 同名だが内容は異なる為、信綱伝としている -->)の巻十「実検」には、母衣をかけた武者の首は[[獄門]]にかけては<!--(首をさらすこと)-->ならず、仏法で母衣武者の首を何の配慮もなしに獄門にすれば、その首は成仏できないとの理由から扱いに気をつけるようにといった内容の記述があり、あえて討死にする際は母衣をつけたともあり、母衣で首を包むのが決まりとなっていた。つまり母衣を身に付けているのといないのでは、首の扱いに待遇差があった。 [[File:Wakansansaizue Horo.jpg|thumb|right|120px|母衣の図。『[[和漢三才図会]]』より。]] === 母衣衆 === [[武士]]の組織化が進んだ[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、母衣は[[赤]]や[[黄]]など目立つ色で着色されており、敵味方からも識別しやすい母衣は[[大名]]の精鋭の武士や、本陣と前線部隊の間を行き来する[[使番]]に着用が許される名誉の軍装として使われることがあり、それら使番の集団を「母衣衆」と称した。 [[織田信長]]の軍には[[馬廻]]から選抜して使番として用いた「黒母衣衆」や「赤母衣衆」があり、これはそれぞれ黒と赤に染め分けた母衣を背負わせたもので、[[小瀬甫庵]]著の『[[信長記]]』によればそれらは以下の人物で構成されていた(第二「母衣之衆事」)。 * 黒母衣衆 **[[佐々成政|佐々内蔵助]] **[[毛利良勝|毛利新左衛門尉]] **[[河尻秀隆|河尻肥前守]] **生駒勝介 **[[水野忠光|水野帯刀左衛門尉]] **[[津田盛月|津田左馬允]] **[[蜂屋頼隆|蜂屋兵庫頭]] **[[中川重政|中河八郎右衛門尉]] **中島主水正 **[[松岡高光|松岡九郎次郎]] * 赤母衣衆 **織田越前守 **[[前田利家|前田又左衛門尉]] **[[飯尾尚清|飯尾隠岐守]] **[[福富秀勝|福富平左衛門尉]] **[[塙直政|原田備中守]] **黒田次右衛門尉 **[[毛利秀頼|毛利河内守]] **[[野々村正成|野々村三十郎]] **[[猪子一時|猪子内匠助]] ただし[[美濃国]][[高木氏]]が伝えた古文書「高木文書」には以上のほかに、黒母衣衆に「[[平井久右衛門]]」と「[[伊東武兵衛]]」、赤母衣衆に「[[浅井政澄|浅井新八郎]]」、「[[木下雅楽助]]」、「[[伊東長久|伊東清蔵]]」、「[[岩室重休|岩室長門守]]」、「山口飛騨守」、「[[佐脇良之|佐脇藤八郎]]」、「長谷川橋介」、「渥美刑部丞」、「[[金森長近|金森五郎八]]」、「加藤弥三郎」が任じられていたと記している<ref>ただしこの記述は「渥美刑部丞」の証言がソースとされており、故に渥美刑部丞の自己宣伝つまり虚言である可能性が指摘されている。</ref>。 信長の母衣衆は地位としては黒母衣衆と赤母衣衆に格差はないものの、『[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771449 菅利家卿語話]』には母衣衆ではなかった[[戸田勝成]]が[[前田利家]]に対し、「赤母衣衆は、少し人の覚えも薄き様に申候」つまり黒母衣衆のほうが格上だったと話しており、メンバー的にも黒母衣衆がやや年上であったと考えられる。両母衣衆の構成員の知行はばらばらであり、各個が動員できる軍事力には差があったはずだが、同じ母衣衆として扱われている。 このほかには織田氏の職制を参考にしたと思われる[[豊臣秀吉]]の[[黄母衣衆]]などが有名であり、[[江戸時代]]の[[藩|諸藩]]の中にも[[藤堂氏|藤堂家]]や[[仙台藩|仙台]][[伊達氏|伊達家]]などに、軍事上の、という位置づけからは形骸化しているが母衣衆を置く藩があった。 <!-- == 防御性能 == 和弓の威力は13 - 14メートルの距離から射た場合(弓弦の強度にもよるが)、3枚並べた厚さ10ミリ(計3センチ)の[[ヒノキ]]材を容易に貫通することが可能であり<参考・『新訂総合 国語便覧』 [[第一学習者]] (27版)1998年 ISBN 4-8040-3301-7 p.36>、少なくとも置き盾3枚分以上、または3センチ厚のヒノキ製盾(複合素材でない盾)の防御性を上回るものだが、その材質上、重量のある[[鉄鏃]]を使用した場合、切り裂かれる<ヒストリーチャンネル内で行われた番組実験の結果による>(重量から絡み取り切れず)。また一定の風圧を受けなければ、防御性を発揮できないという難点もある。そのため、あくまで馬上鎧の補助的防具という役割を脱するものではない。それでも環境が整えば、厚さ数ミリもする鉄製フライパンをも射抜く和弓の矢<2008年 NHKBShi 『アインシュタインの眼』番組内実験の結果>を無効化することが可能である。 * 母衣と同様の原理で矢や[[投石]]を絡めとる防具としては、「野中の幕」がある。武術流派の巻物で説かれる対飛道具用の手盾で、鞘など棒(長いとって)となるものの先に[[陣羽織]]など防ぎようになるものをぶら下げ、左手で持ち、防ぎながら近づき、斬りつける。これは危急の際の対応であり、風圧の必要性はない。--> == 脚注 == <references /> == 参考文献 == *石村貞吉 『有職故実 下』〈『講談社学術文庫』〉 講談社、1987年 ※「甲冑・武具」 *市古貞次ほか校注 『室町物語集 上』〈『新日本古典文学大系』54〉 岩波書店、1989年 ※『鴉鷺物語』所収 *『古事類苑』(43) 吉川弘文館、1998年 ※兵事部四十二・甲冑四 *谷口克広 『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』〈『中公新書』1453〉 中央公論社、1998年 ※第Ⅰ部 旗本のエリート、母衣衆 == 関連項目 == * [[甲冑]] <!--* [[前田利家]](織田信長の赤母衣衆の筆頭)--> <!--* [[河尻秀隆]](織田信長の黒母衣衆の筆頭)--> {{DEFAULTSORT:ほろ}} [[Category:防具]] [[Category:武具]]
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