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{{記事名の制約|title=歩騭}} {{三国志の人物 |名前 = 歩騭 |画像 = |サイズ = |説明 = |王朝 = [[呉 (三国)|呉]] |称号・役職 = [[丞相]]・[[驃騎将軍]]・西陵都督・</BR>[[冀州]]牧・臨湘侯 |出生 = 不詳 |出身地 = [[徐州]]臨淮郡淮陰県 |死去 = [[赤烏]]十年([[247年]]) |死没地 = |ピン音 = Bù Zhì |字 = 子山 |諡号 = |廟号 = |別名 = |主君 = [[孫権]] |特記事項 = }} '''歩 騭'''(ほ しつ、? - [[247年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の武将、政治家。[[字]]は'''子山'''。子は[[歩協]]・[[歩闡]]。孫は歩璣・歩璿。同族は歩夫人([[孫魯班]]・孫魯育の母)。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の呉志に伝がある。[[徐州]]臨淮郡淮陰県([[江蘇省]][[淮安市]])の人。『呉書』によると、歩氏は[[晋 (春秋)|晋]]の[[大夫]]である楊氏に遡る一族で、歩の地に所領を持ったことから歩姓を称したという。先祖には[[孔子]]に師事したという歩叔という人物がいる。[[秦]]末[[前漢|漢]]初の動乱期に将軍となった一族が淮陰侯に封じられたため、以降は淮陰を本籍地としたという。 == 生涯 == [[File:A Fragment of Biography of Bu Zhi History Books of Three Kingdoms 01 2012-12.JPG|thumb|right|240px|三国志の歩隲傳]] 中央の戦乱を逃れて[[江東]]に移った。貧しかったため、若い頃に昼は瓜を売って生計を成し、夜は勉学に励んでいたという。このときに行動を共にしたのが[[広陵区|広陵]]の衛旌という人物であった。あるとき生計を図るために、[[会稽]]の焦征羌(焦矯、『呉録』による)という豪族に取り入りざるを得なくなった。焦征羌が歩騭達を見下してぞんざいに扱ったため、衛旌が屈辱に憤慨したものの、歩騭は平然と応対したという。 官に就いた後、1年ほどして病気で免職となったが、親友である[[諸葛瑾]]や[[厳シュン|厳畯]]とともに呉郡に出て来たという(『呉書』)。 [[孫権]]が討虜将軍となり将軍府を開府すると、歩騭は召し出され主記・[[海塩県|海塩]][[県長]]となった。孫権は[[車騎将軍]]になると彼を召し返し、東曹掾とした。『呉書』によると、孫権が徐州[[牧]]となった時、治中従事となり[[茂才]]に推挙されたという。また時期は不明だが、[[鄱陽県|鄱陽]]の不服住民であった彭虎討伐に[[董襲]]・[[凌統|淩統]]・[[蒋欽]]と共に出陣している(「董襲伝」)。 [[210年]]には新設された鄱陽[[太守]]に任命されたが、まもなく[[交州]][[刺史]]に抜擢され、立武[[中郎将]]となり武装した役人を千人ほど引き連れて任地に向かった。翌年には使持節・征南中郎将となっている。 当時の交州は、[[呉巨]]と[[士燮 (交阯太守)|士燮]]の一族が割拠していた。呉巨は[[劉表]]が任命していた[[頼恭]]を追放し、孫権を後ろ盾として自立しようとしていた。しかし歩騭は呉巨を信頼せず、表面的には友好的な接し方をした上で、会見の場で謀殺した。これにより歩騭の威名が鳴り響くようになると、士燮一族も孫権に従属するようになった。 [[220年]]、刺史の職を[[呂岱]]と交代することになり、新たな任地である[[長沙]]に向かったが、交州の人々に慕われたため随行者が一万人ほどになったという。この頃、[[蜀漢]]が[[荊州]]に遠征し([[夷陵の戦い]])、隣接する[[武陵]]の蛮族もそれに呼応して、不穏な動向を示しつつあった。歩騭は孫権の命令で、蠢動する武陵の異民族を[[益陽市|益陽]]で牽制する役目を担い、蜀が敗北し呉が勝利した後も服従しない異民族の平定に尽力した。[[223年]]、[[右将軍]]・左護軍となり、臨湘侯に封じられた。[[雍ガイ|雍闓]]が士燮を通して呉に誼を求めてくるようになると、歩騭は孫権に取り成しを約束し、その服従を受け入れた。その功績で平戎将軍を加官され、広信侯に封じられた。 [[226年]]には節を与えられ、漚口に駐屯した。 [[229年]]に孫権が即位すると、[[驃騎将軍]]・[[冀州]]牧となり、同年[[陸遜]]に代わり西陵[[都督]](西陵はかつての夷陵)も任された。直後、呉蜀の再同盟がなったため、冀州の牧は罷免されている。 驃騎将軍になった後、軍勢強化のため私兵を募ることを孫権に申し入れたところ、[[武昌]]において荊州の軍政を陸遜と共に預かっていた[[潘濬]]から警戒されたため、許可されなかったという(「潘濬伝」が引く「呉書」)。また、時期は不明だが[[張奮]]を推挙し軍事に携わらせたところ、[[張昭]]はこれを喜ばなかった(「張昭伝」)。 孫権の太子[[孫登]]は、陸遜達の輔佐を受けて武昌で政治に携わっていたが、あるとき歩騭に荊州の人物について意見を求めた。このため歩騭は、諸葛瑾・陸遜・[[朱然]]・[[程普]]・潘濬・裴玄・夏侯承・衛旌・[[李粛 (孫呉)|李粛]]・周条・石幹など、荊州で功績を挙げた呉の人物を11名ほど列挙した後、[[斉]]や前漢での事例を挙げて賢人を用いるよう忠告した。 張昭の死後、孫権の判断力が衰え[[呂壱]]のような奸臣を重用するようになると、歩騭は[[顧雍]]・潘濬・諸葛瑾・陸遜達の忠言に耳を傾けるよう、孫権に対して熱心に説得した。このため孫権も後に真相を悟り、呂壱を誅殺して群臣に詫びた。孫権にまた以前のような輔佐を求められると、当初は民政は担当外だとして、諸葛瑾・呂岱・朱然達とともにこの要請を黙殺したため、孫権に以前のような輔佐を嘆願されている(「呉主伝」)。 歩騭は呂壱事件の以前にも、孫権によく上奏し、日の目を見ずにいた者を救ってやったことがあったとされる。ただし、孫権に全てが聞き入れられたわけではなく、『呉録』には、降伏者からの情報で[[魏 (三国)|魏]]が大江を堰き止めて呉を討つ計画があると聞いた時、上奏した上で孫権に対処を求めたところ、孫権に非現実的だとして一笑に付された話が掲載されている<ref>実際に堰き止められたのは、[[2009年]]竣工した[[三峡ダム]]が最初である。</ref>。 [[239年]]には諸葛瑾とともに、[[周瑜]]の子周胤の赦免を孫権に嘆願した。朱然や[[全ソウ|全琮]]も同調したため、孫権もその熱意に絆され周胤を許す気になったが、周胤が既に没していたため、周家の復興を果たせなかった(「周瑜伝」)。 [[241年]]の大規模な北伐(芍陂の役)にも、[[干宝]]の『晋紀』によると参戦していたとある(魏志「三少帝紀」に引用)。諸葛瑾とともに荊州方面に出撃し、柤中を占拠したが、荊州と[[揚州]]の両戦線が膠着すると撤兵している。 [[243年]]頃から、太子の地位を巡って[[孫和]]と[[孫覇]]が争うようになると([[二宮事件]])、歩騭は全琮や呂岱らとともに孫覇を支持し、孫和を支持した陸遜達と対立したという(「呉主五子伝」が引く『通語』)。しかし、歩騭伝や他の伝において具体的な動静は何一つ書かれていない。 翌年、朱然と別々に上奏し、蜀の動静が不穏であるから、蜀の寝返りに注意するよう孫権を促したが、孫権には聞き入れられなかった(「呉主伝」)。 [[245年]]に陸遜が憤死すると、翌年その後を受けて[[丞相]]に就任した。丞相になっても質素な生活を送り、自身の勉強と子弟の教育に没頭したが、妻子には贅沢をさせていたため批判されたという。また、西陵での駐屯期間は20年にも達し、その威信は蜀からも敬意を払われたという。247年に死去した。 子の歩協が継ぎ、その後は孫の歩璣が継いだ。しかし軍事的な職務の継承は子の歩闡が務め、引き続き西陵の軍事を任された。[[272年]]、歩闡は[[孫皓]]の暴政に不安を感じ[[西晋|晋]]に降伏し、呉に対して反乱を起こした。歩闡は数ヶ月に亘って籠城したが、頼みにしていた晋の援軍が[[陸抗]]によって大敗したため、結局鎮圧された。このため人質として晋に渡っていた孫の步璿を除いて、一族皆殺しとなった。 歩騭は博学多才で知られ、性格も冷静沈着で人当たりの良い一面があった。人物眼にも優れ、孫権に多くの有能な人物を推挙した。頴川の周昭は、歩騭・諸葛瑾・厳畯・[[張承 (孫呉)|張承]]・[[顧邵]]の人物を比較し、賞賛する書物を残した。[[陳寿]]も周昭の評価を引用し、それに同意を示している。 == 三国志演義 == 小説『[[三国志演義]]』では、孫権が招いた家臣の一人として名前が挙がる。[[赤壁の戦い]]の際の降伏派の家臣の一人として登場するが、[[諸葛亮]]に論破・罵倒されている。また、夷陵の戦いのときは、陸遜の抜擢を孫権に勧める[[カン沢|闞沢]]の提案に対し、顧雍とともに陸遜の才能を過小評価し、その登用に反対している。 ==脚注== <references/> {{呉 (三国)の丞相|第4代:246年 - 247年}} {{DEFAULTSORT:ほ しつ}} [[Category:呉の人物]] [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:淮安出身の人物]] [[Category:247年没]]
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