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武隈部屋
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'''武隈部屋'''(たけくまべや)は、かつて[[日本相撲協会]]に所属していた[[立浪一門]]の[[相撲部屋]]。 ==沿革== 住ノ井甚助が部屋経営を始めたが、死去により所属力士は[[粂川部屋]](後[[雷部屋]]に名称変更)に移籍した。その後移籍組の元十両常盤嵜礒吉が部屋を再興し、第6代横綱[[阿武松緑之助]]を育てる。が、師匠の死去により所属力士は雷部屋へ移籍することになった。その後、阿武松緑之助(当時親方)が独立して[[阿武松部屋]]を興したのでそちらへ移った。その中には大関[[手柄山繁右エ門]]や大関[[小柳常吉]]らがいた。 続いて、[[天保]]14年([[1843年]])10月に阿武松部屋の大関手柄山繁右エ門が[[二枚鑑札]]で襲名。部屋を興し幕内[[鬼面山谷五郎]](後の第13代横綱)を育てるが[[安政]]5年([[1858年]])6月に死去。所属力士は鬼面山が引き取った。 明治に入り、[[明治]]18年([[1885年]])5月より[[境川部屋]]の関脇[[手柄山勝司]]が二枚鑑札で襲名し部屋を興した。その後幕内[[芳ノ山夛治郎]]、[[黒雲雷五郎]]ら(後に脱走し、大阪相撲に加入)が育つが大成するのを見ることなく明治22年([[1889年]])5月に死去。その跡を元十両[[龍門鯉之介]]が継ぎ幕内[[不知火光右エ門]]([[立川部屋]]へ移籍)を育てるが[[大正]]11年([[1922年]])5月に廃業した。 その後、[[出羽海部屋]]の元関脇[[両國勇治郎]]は大正13年([[1924年]])1月場所を最後に引退して9代目を襲名。[[昭和]]4年([[1929年]])1月独立して部屋を興すが4年後の昭和8年([[1933年]])1月部屋をたたんだ。その後昭和11年([[1936年]])1月に再度部屋を興す際、横綱[[武藏山武|武蔵山]]を伴おうとしたがかなわず師匠である[[両國梶之助 (國岩)|出羽海親方]]とも確執が生じたため[[立浪一門]]へ転属する形になった。このためか、系統別総当りの制度下において、武隈部屋の力士は出羽海部屋の力士と対戦させられた。その後[[郷錦廣次]]、[[大泉隆司]]の2人の十両力士を育てたが、幕内力士を出すことはなく、結局昭和29年([[1954年]])5月に部屋を閉じた。 平成に入り、[[平成]]11年([[1999年]])2月に[[立浪部屋]]付きの親方だった12代武隈(元関脇・[[黒姫山秀男|黒姫山]])が設立。自身の息子2人(羽黒洋、羽黒國)を連れ立浪部屋から独立したが、新弟子を一切取らなかったこともあり、次男の羽黒國が引退した段階で所属力士がいなくなったため、平成16年([[2004年]])3月場所後に部屋を閉鎖。自身は同じ立浪→伊勢ヶ濱一門の[[友綱部屋]]に移籍、友綱部屋の部屋つき年寄となったのち2013年11月場所中に停年退職した。名跡はその翌月に[[時津風部屋]]の部屋つき年寄である14代錦島(元前頭筆頭・[[蔵玉錦敏正|蔵玉錦]]、現役時は[[鏡山部屋]])が取得、13代武隈を襲名したため、武隈の名跡は、伊勢ヶ濱一門を離れている。 なお現時点で最後の武隈部屋(12代が経営)は墨田区両国に所在していた。 ==関連項目== *[[甲山部屋]]、[[熊ヶ谷部屋]]・・・親子相撲部屋 {{Sumo-stub}} {{DEFAULTSORT:たけくまへや}} [[Category:武隈部屋|*]]
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