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'''武衛騒動'''(ぶえいそうどう)とは、[[寛正]]6年([[1465年]])に発生した[[室町幕府]]の内紛のことである。 将軍家[[家宰]]の[[伊勢貞親]]は8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]の信任を良いことに、[[管領]]家の一つ[[斯波氏]](武衛家)の[[お家騒動]]に介入し[[斯波義敏]]と[[斯波義廉]]の間をとりなして私腹を肥やし、幕政を混乱に陥れた。将軍家家宰の身分でありながら管領家家督に口をはさむ貞親の横暴に激怒した有力者[[細川勝元]]と[[山名宗全]]は協力して[[文正]]元年([[1466年]])に貞親を幕府から追放した([[文正の政変]])。背景に、次期将軍を予定されていた[[足利義視]]の排斥問題も絡んでいると伝えられる。 また、当時[[関東地方|関東]]で反抗していた[[古河公方]][[足利成氏]]征伐軍の組織の為に家督交代を繰り返したとも推測される。関東における幕府の出先機関の[[堀越公方]][[足利政知]]は直轄軍を持たない為、幕府は斯波軍を関東に派遣しようとしたが、義敏が命令違反をして執事の[[甲斐常治]]と合戦に及んで廃嫡されると([[長禄合戦]])、義敏の子[[斯波義寛|松王丸]]を家督とした。しかしその後、政知の執事[[渋川義鏡]]の子義廉が新たに家督になったのは、渋川義鏡が斯波軍を操れる立場にする狙いがあったとされる。 ところが、義鏡が[[扇谷上杉家]]と対立、失脚すると義廉の家督の意味はなくなり、再び義敏中心の遠征軍を作り出そうとして復権を画策したのが貞親だとされる。一方的に廃嫡された義廉や宗全一派は反撃に打って出て貞親と[[季瓊真蘂]]、義敏や[[赤松政則]]を追放、計画は失敗した。 後に勝元と宗全が対立し[[応仁の乱]]が勃発すると、義敏父子と政則は将軍義政を戴く東軍に属し、それぞれ武衛家家督・[[赤松氏]]家督及び守護職を奪還し、貞親と真蘂も赦免されて帰京するなど、それぞれ復権した。ただし貞親と真蘂に活躍の場は与えられず、真蘂は[[文明 (日本)|文明]]元年([[1469年]])に、貞親は文明5年([[1473年]])に世を去る。 {{DEFAULTSORT:ふえいそうとう}} [[category:室町時代の事件]] [[category:斯波氏]]
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