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武田百合子
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'''武田 百合子'''('''たけだ ゆりこ'''、[[1925年]][[9月25日]] - [[1993年]][[5月27日]])は随筆家。 作家[[武田泰淳]]の妻で、武田泰淳の死後に、泰淳と過ごした富士山荘での日記『[[富士日記]]』を出版し、処女作にして高い評価を受ける。その後、寡作ながら、結晶度の高い[[随筆]]作品を発表して多くの熱狂的なファンを得る。娘は[[写真家]]の[[武田花]]。 各界に親交が多く、[[埴谷雄高]]、[[深沢七郎]]、[[村松友視]]、[[大岡昇平]]、[[色川武大]]、[[吉行淳之介]]、[[辻邦生]]、[[いいだもも]]、女優[[加藤治子]]などと親しかった。 == 略歴 == 1925年(大正14年)9月25日、[[神奈川県]][[横浜市]]で代々の富豪、鈴木家の三女として生まれる。1932年母、あさの死去。以後、大叔母みつが母代わりになる。小さい頃から琴や三味線を習っていた。 1943(昭和18)年 横浜第二高等女学校(現・[[神奈川県立横浜立野高等学校]])を卒業。在学中に同級生たちと同人誌『かひがら』に参加し、詩や文章を投稿する。当時の文章は、既に後の「武田百合子」の片鱗を感じさせる、独特の感性のものだった。また、[[室生犀星]]が選者の新聞の詩歌欄に投稿して、入選。 また、兄の同級生であった、後の劇作家[[八木柊一郎]]と親しい関係になる。(八木が1946年に執筆した短編小説放心の手帖」にも、百合子をモデルとしたキャラクターが登場している。) 卒業後は、図書館に勤務。1944年に父、精次死去。1945年5月、横浜大空襲により自宅は全焼。 戦後は長兄・信太郎のもとに同居。鈴木家は「不在地主」であったため、1947年の[[農地改革]]で没落する。百合子は行商や[[海音寺潮五郎]]の秘書などを転々とする。この頃、同人誌「世代の会」に参加。会員には、[[遠藤麟一郎]]、[[矢牧一宏]]、[[小川徹]]、[[吉行淳之介]]、[[中村真一郎]]、八木柊一郎、[[中村稔 (詩人)|中村稔]]、[[いいだもも]]等がいた。彼等との親交は晩年まで続き、小川徹の本の刊行に協力するなどしている。 出版関係の仕事をしたいと、出版社・昭森社に就職するが、社長森谷均が経営していた喫茶店兼酒場「ランボオ」の女給にされる。ランボオ([[アルチュール・ランボー]]に由来)は作家達が数多く集まる場であった。ここで百合子は武田泰淳と出会う。 1948年鈴木家を出て泰淳と同棲する。妊娠、堕胎を繰り返し、4回目の堕胎の際は気絶した。これ以上繰り返せば命が危ないといわれたため泰淳も結婚を決意し、1951年10月31日長女・花子を出産。同11月、出生届と共に結婚。 1953年、泰淳の実家、[[長泉院 (目黒区)|長泉院]]に転居し、泰淳の母と同居。卒塔婆書きなどを手伝う。 1956年、自動車運転免許を取得。ただし、泰淳にだまって教習所で出かけていたので、泰淳は「浮気でもしているのか」と心配したという。 なお、この頃から「かひがら」が復刊されたため、百合子も書簡体の文章を発表。 1960年、港区赤坂に転居。自動車を購入し、泰淳の送り迎えを務める。1964年8月、[[山梨県]]富士桜高原の山荘「武田山荘」が完成。この家を購入する際も泰淳と相談せず、百合子一人で決めた。以後、週の半分をここで過ごす。 1969年、6月10日から7月4日まで泰淳、[[竹内好]]と共に[[ロシア]]諸国と[[北ヨーロッパ|北欧]]を旅行。この旅の日記が後年『犬が星見た-ロシア旅行』として出版される。この旅行の同乗者銭高老人は[[錢高組]]の会長である。 1971年11月27日、泰淳が脳血栓で入院。右手に障害が残ったため、これより百合子が原稿清書や口述筆記を務め、『めまいのする散歩』『上海の蛍』などを刊行させる。1976年10月5日泰淳が[[胃癌]]及び肝臓がんで死去。 1977年、『富士日記』を出版。富士日記は雑誌『海』の「武田泰淳追悼号」で発表された作品で、泰淳の通夜の日に[[塙嘉彦]]編集長が頼むと快諾し、寄稿された。この作品は山荘完成から泰淳の死までの日記を清書しなおしたもので、日常の出来事から泰淳とのやり取りにいたるまでストレートに書かれている。日常茶飯時を淡々と描きながら、独特の視点と文体を持つ作品であり、大きな反響を呼び、[[田村俊子賞]]を受賞する。 1979年、『犬が星見た-ロシア旅行』を出版。本書では、タイトルは、近所の犬が[[ニッパー (犬)|ビクターの犬]]のように座り星を見上げていたのを見て、名付けたとしている。だが、村松友視の『百合子さんは何色』によると、[[ゴールデン街]]の酒場のトイレで、 建付けが悪い扉を片手で押さえながら用を足す際に、扉のすきまから星が見えたことを、ヒントにしたという。 1984年、『ことばの食卓』を刊行。1986年、弟、修の元を訪ねに[[ドイツ]]訪問。 1987年、『遊覧日記』刊行(写真家になっていた、武田花の写真を掲載)。1992年、雑誌『[[マリ・クレール]]』に掲載していた『日々雑記』を刊行。この日記の中では自分の死期を悟りつつある姿が書かれている。 1993年5月7日、北里病院に入院。同27日、[[肝硬変]]で死去。[[享年]]67。百合子が残した日記、原稿、メモ、手帖などは「焼却するように」と遺言があったため、花が処分した。 翌1994年から『武田百合子全作品』全7巻が刊行された。 == 評価 == 『富士日記』が刊行された時点では、「泰淳の口述筆記をしたことが、文章修行となったのでは?」という評価が多かったが、武田夫婦と長年の交際があった埴谷雄高はそれを否定した。 さらに埴谷は、百合子のことを「全的肯定者」と呼び、元来ニヒリストだった泰淳に、百合子の方が大きな影響を与えたと述べた。また、百合子には、元々の天賦の才があったと評価している。それは色川武大も認めており、『犬が星見た-ロシア旅行』の解説に「どうしてこんな作品が書けるのか」と彼女の選択眼を評価している。 泰淳と百合子の編集者であり、後に作家になった村松友視は、百合子の死の翌年『百合子さんは何色』という本を出版し、武田百合子との思い出や百合子自身のことを追及し、「百合子さんは詩人の魂で散文を書いていた」と評した。 また、彼女の作品は女性に人気があり、女性誌『クウネル』創刊号にて武田花による母との思い出が執筆されると、さらに多くのファン層を増やした。 2004年2月、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 武田百合子』が出版され、多くの文筆家が寄稿した。またこのムックではサブタイトルとして「天衣無縫の文章家」と彼女のことを評している。 == 作品 == *富士日記([[田村俊子賞]]受賞) [[中公文庫]]全3巻、1981年、改版1997年。 *犬が星見た-ロシア旅行([[読売文学賞]]受賞) 中公文庫 *ことばの食卓 ([[ちくま文庫]]) *遊覧日記 (ちくま文庫) *日々雑記 (中公文庫) *『武田百合子全作品』 (全7巻、[[中央公論社]]、1994-95年) ==「鈴弁事件」及び「未来の淫女」について== *百合子の祖父・鈴木弁蔵は、大正期の[[米騒動]]時代に「[[鈴弁殺し事件|鈴弁事件]]」という事件で殺害された「悪名高い」人物だった。外米の輸入業者だった弁蔵は、農商務省の役人に金品を与えて情報を得ていたが、金銭トラブルで彼に殺害された。だが、殺害犯が「米価をつりあげた悪人を、義憤にかられて殺した」と裁判で証言したため、弁蔵は「悪人」として有名になってしまった。そのため、鈴木家では「鈴弁事件」はタブーとなっており、また百合子も「鈴弁の孫」と呼ばれるのを嫌っていた。 *ただし、百合子の父・精次は弁蔵の娘と結婚して婿養子になり、妻が死去したため、百合子の母・あさと再婚した。そのため、百合子と弁蔵には血縁関係はない。 *なお、百合子が武田泰淳と交際中に、「自分は鈴弁の孫だ」と伝えたところ、泰淳はそれに非常に興味を抱き、百合子をモデルとした短編「未来の淫女」「続未来の淫女」を1949年に発表した。ちなみにこの作品の中では、百合子(にあたる人物)は弁蔵と血縁関係があるように書かれている。この小説は、「鈴弁事件」をタブーとしていた鈴木家の中で大問題となり、百合子は泰淳にその旨を伝えた。また、まだ学生だった百合子の弟・修も泰淳に会い、「あなたには人民の苦労はわからない」と抗議した。そのため、この作品は泰淳の全集類等には収録されず、幻の作品となっている。 *単行本『未来の淫女』は古書値も高く、入手困難な本となっている。だが、旧版河出文庫の『異形の者』に続編とともに収録されており、この本の入手は比較的容易である。 *なお、他の武田泰淳作品「もの食う女」(1948年)「メサの使徒」(1950年)等にも、百合子をモデルとした女性が登場する。 == 参考文献 == *[[村松友視]] 『百合子さんは何色 武田百合子への旅』 [[筑摩書房]] 1994年 ISBN 4-480-81354-3/[[ちくま文庫]] 1997年、ISBN 4-480-03339-4 *『武田百合子 天衣無縫の文章家』 [[河出書房新社]]〈KAWADE夢ムック・文藝別冊〉 2004年、 ISBN 4-309-97672-7 == 関連項目 == *[[武田泰淳]] [[Category:日本の随筆家|たけたゆりこ]] [[Category:横浜市出身の人物|たけたゆりこ]] [[Category:1925年生|たけたゆりこ]] [[Category:1993年没|たけたゆりこ]]
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