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武田元明
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 武田元明 | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]] | 生誕 = [[永禄]]5年([[1562年]]) | 死没 = [[天正]]10年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]([[1582年]][[8月7日]]) | 改名 = | 別名 = 孫八郎(幼名) | 諡号 = | 戒名 = | 墓所 = 滋賀県高島市マキノ町海津 摩尼山宝幢院 | 官位 = | 幕府 = [[室町幕府]][[若狭国]][[守護]]職 | 主君 = | 氏族 = [[武田氏#若狭武田氏|若狭武田氏]] | 父母 = 父:[[武田義統]]、母:[[足利義晴]]の娘 | 兄弟 = | 妻 = 正室:'''[[京極竜子]]'''(後の松の丸殿) | 子 = [[佐々義勝|義勝]]、一女(竜子) | 特記事項 =武田元明と正室京極氏との間に生まれた男子を[[木下勝俊]]、[[木下利房]]として[[高台院|北政所]]が密かに保護し、素性を偽って養育したという奇説がある。 }} '''武田 元明'''(たけだ もとあき)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[大名]]。[[武田氏#若狭武田氏|若狭武田氏]]の第9代(最後)当主。 == 生涯 == [[永禄]]5年([[1562年]])、若狭武田氏の当主・[[武田義統|武田義統(義元)]]の子として生まれる。父より「元」の1字を受けて'''元明'''と名乗る。 永禄年間に父・義統と争うが、永禄10年([[1567年]])に父が死去したため、[[家督]]を継いで当主となった。しかし、[[逸見昌経]]などの家臣の謀反により、かつて[[応仁の乱]]で副将を務めた若狭武田氏も元明が継いだころには衰弱しており、領地であった[[丹後国]][[加佐郡]]も[[丹波国|丹波]][[守護代]]・[[内藤氏#内藤氏(丹波系)|内藤氏]]の侵攻を受ける事態となっていた。 永禄11年([[1568年]])、親族にあたる[[越前国]]の[[戦国大名]]・[[朝倉義景]]によって元明は身柄を拘束され、[[一乗谷]]朝倉館に強制移住されることとなった。[[朝倉氏]]は元明を傀儡として[[若狭国]]を間接支配したので、実質上若狭国は朝倉氏の支配下に入ったともいえる。武田氏の旧臣の多くは、表向き朝倉氏に臣従しながら武田家再興の機会を待ったが、それとは全く別に、早くに武田氏に謀反し独立していた逸見氏などは[[織田氏]]の勢力が[[近江国]]の湖西地域におよぶと逸早く[[織田信長]]に通じ、のちに[[若狭衆]]とよばれることとなる家臣団として織田氏に仕えた。 その後、織田信長の朝倉攻めに協力した武田氏の重臣の[[武藤氏]]・[[粟屋氏]]らにより元明は開放されたが、朝倉氏滅亡後、若狭国の支配は織田氏の重臣の[[丹羽長秀]]に任されることとなり、丹後国加佐郡の支配は[[細川幽斎|長岡藤孝]]に任されることとなった。[[天正]]8年([[1580年]])に信長の命令で[[遠敷郡]]神宮寺の桜本坊に蟄居させられるが、[[大飯郡]]の高浜城8,000石の城主・逸見昌経が死去すると遺領のうち大飯郡佐分利の[[石山城 (若狭国)|石山城]]3,000石(若狭武田氏の重臣[[武藤友益]]旧領)が与えられることとなった。3,000石の領主であったが、当初は若狭国の名目上の旗頭として信長に大いに利用され、次第に実権は丹羽長秀へと奪われていった。 天正10年([[1582年]])6月の[[本能寺の変]]の際、この期に若狭守護としての勢力の回復を計った元明は、若狭各地にいた旧臣を集め[[明智光秀]]と通じ丹羽長秀の本城・[[佐和山城]]を陥落させた。しかし[[山崎の戦い]]で光秀が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に敗死すると、元明は丹羽長秀によって近江国海津に召還され、7月19日に海津の法雲寺で謀殺された(自害ともいわれる)。享年21。 == 子孫 == 武田元明の継嗣である義勝は、武田姓をはばかり津川姓を称し、親族である[[京極高次]]に仕えた。のちに京極高次が[[関ヶ原の戦い]]の功により若狭一国の主となると大飯郡高浜城5,000石を与えられ、また佐々木姓を称することが許され、京極家重臣に列した。[[江戸時代]]の[[丸亀藩]]家老の佐々家はこの末裔といわれている。 なお、[[木下勝俊]]と[[木下利房]]が、武田元明と正室・[[京極竜子]]との間に生まれた男子とする説があるが、元明の永禄5年(1562年)生誕説に従うと、勝俊や利房の父親の可能性もほとんど無いものと思われる。 {{若狭武田氏当主|第9代|1567年 - 1582年}} {{DEFAULTSORT:たけた もとあき}} [[Category:若狭武田氏|もとあき]] [[Category:守護大名]] [[Category:戦国大名]] [[category:戦国武将]] [[category:若狭国の人物]] [[Category:1562年生]] [[Category:1582年没]]
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