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武川鎮軍閥
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'''武川鎮軍閥'''(ぶせんちんぐんばつ)は、[[中国]][[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の[[西魏]]・[[北周]]、および[[隋]]・[[唐]]の支配層を形成していた集団のことである。'''関隴集団'''ともいう。 最初に、この集団に着目したのは、[[清]]朝の[[考証学]]者である[[趙翼]]であった。趙翼はその著『[[二十二史箚記]]』の巻15に「'''周隋唐皆出自武川'''」という項を立てて、この集団について[[正史]]に基づいて論証し、武川鎮は「王気」が聚まる所であると述べている。 「関隴集団」の語を用いて、更にこの貴族集団に関して論証を推し進めたのは、[[陳寅恪]]であり、『唐代政治史述論稿』([[1944年]])等において詳述されている。また、[[日本]]の[[谷川道雄]]も、『隋唐帝国形成史論』([[1971年]])等で論証している。 ==北魏・北周== 武川鎮とは[[北魏]]前期の首都・[[大同市|平城]]を北の[[柔然]]から防衛する役割を持っていた6つの[[鎮]]のうちの一つのことである。北魏では各国境に[[匈奴]]・[[鮮卑]]系の名族を移り住ませ(鎮民)、その上に鎮将を置き、彼らに当地の軍政を行わせ、防衛を行っていた。他の地域の鎮は北魏の中央集権化が進むと共に廃止されるが、六鎮のみはそのまま残され、ここの鎮民たちは選民として特別待遇を受けていた。 しかし北魏の漢化政策が進むにつれてこの六鎮の地位も下落し、[[孝文帝]]により[[洛陽]]に遷都されたことで、六鎮はほとんど流刑地同然になった。この待遇に当然六鎮の者たちは不満を抱き、[[六鎮の乱]]を起こし、北魏全体を大混乱に陥れる。 この乱は[[爾朱栄]]により収められるが、北魏の混乱はそれだけでは終わらずに軍閥の割拠状態となる。 この戦乱を勝ち抜いたのが、六鎮の一つ懐朔鎮出身の[[高歓]]と武川鎮出身の[[宇文泰]]である。高歓と宇文泰はそれぞれ[[皇帝]]を擁立し、北魏は高歓の[[東魏]]と宇文泰の[[西魏]]に分裂する。宇文泰は武川鎮出身の者たちを集めて軍団を作り、西魏の支配集団を武川鎮出身の者で固めた。西魏の支配地は[[陝西省]]と[[甘粛省]]であったので、このことから武川鎮軍閥のことを'''関隴集団'''(関隴貴族集団)とも呼んでいる。関は[[関中]](陝西省)のことで、隴は[[隴西]](甘粛省南東部)のことである。 宇文泰は東魏に対抗するために[[府兵制]]を創始し、その軍を編成して十二大将軍・八柱国をその指揮官とした。大将軍・柱国には武川鎮出身者を就け、これが西魏とそれを受け継いだ[[北周]]の支配者集団となる。その人員については後述の[[#柱国・大将軍]]を参照。 :(北周末期より貴族化が進み、軍閥と呼ぶのはふさわしくないので、これ以降は関隴集団と呼びかえる。) {| border="1" cellpadding="2" cellpadding="2" cellspacing="0" align="right" ! colspan="2" bgcolor="#FFCCCC" | |- | colspan="2" |[[画像:北周・隋・唐家系図.png|300px]] |- | colspan="2" style="text-align: center;" |赤は婚姻を表す。<br>丸数字は北周、漢数字は隋、ローマ数字は唐<br>それぞれの系譜を示してある。 |- |} ==隋唐== 北周の[[武帝 (北周)|武帝]]は北斉を滅ぼして華北を統一するが、念願の南北統一を前にして病死する。その後を継いだ[[宣帝 (北周)|宣帝]]は奇矯な人物であり、即位後すぐに幼子の[[静帝]]に位を譲り、宣帝自身は[[太上皇]]として、好き勝手な放逸に耽るようになった。宣帝の皇后の父で十二大将軍である[[楊堅]](後の[[隋]]の文帝)が衆望を集めるようになる。 楊堅は幼主の静帝より[[禅譲]]を受けて隋を建て、[[589年]]に[[陳 (南朝)|陳]]を滅ぼして中国を統一する。革命が起きたとはいえ、隋の支配者集団は変わらずに関隴系であり、楊堅の皇后・[[独孤伽羅]]は八柱国の[[独孤信]]の娘(七女)である。これ以外にも関隴集団内では複雑な姻戚関係が結ばれており、互いの間での関係を密にすることでより力を高めていた。 隋は[[楊玄感]]の反乱を機に全国で大反乱が起き、その中で八柱国・[[李弼]]の曾孫である[[李密 (隋)|李密]]、同じく八柱国・[[李虎]]の孫である[[李淵]]も反乱に参加する。李淵は八柱国の家系であるというだけではなく、独孤信の娘(四女)を母としており、いわば関隴系の中で最上級の血縁を持っていた。このことにより、関隴貴族集団の強い後援を受けられたことが、李淵が簡単に[[大興]]城(長安)を奪取し、最終的に争覇戦で勝利した理由の一つだと見られている。 隋が滅び[[唐]]が建国されたが、支配者集団は変わらずに関隴系であり続け、初唐の主要な地位を持った者たちには関隴系の者が多数を占めている。 政権を握った関隴貴族集団は、自らの地位を確固たるものとするために貴族制の再編に取り組む。当時は南北朝時代から引き継いで、[[家格]]の上下による人間の上下の思想が強く残っており、当時もっとも家格が高いとされていたのが、[[山東省|山東]]の崔氏・盧氏・李氏・鄭氏の4姓であった。 高祖・李淵の後を継いだ[[太宗 (唐)|太宗]]は、貴族の家格を九等に分ける『[[氏族志]]』の編纂を命じ、一等に唐皇族の李氏、二等に独孤氏・竇氏・長孫氏の[[外戚]]を就け、関隴系こそが最高の家格であると「公認」させた。 ==関隴貴族集団支配の終焉== この関隴貴族集団の支配体制が覆される契機となったのは、[[武則天]]による科挙出身者の登用である。 太宗死後、関隴系の領袖といえる[[長孫無忌]]が[[高宗 (唐)|高宗]]を擁して専権を振るい、反対者を排除していた。武則天は高宗を自らの美貌で篭絡することにより、長孫無忌を追い落とした。 武則天自身も関隴系の出身ではあるのだが、主流には遠かった。そこで武則天は権力を掌握するに当たって、関隴系が政権を握っていることに不満を持つ層を味方につけた。その中には性質の悪い者もかなりいたが、[[科挙]]出身者の能力がある者が武則天の周りに集まった。 科挙は既に隋代から行われていたが、関隴系が支配する宮廷では、科挙出身者たちは高位の役職につけないことが多かった。武則天はそれらの者を積極的に登用し、自らの政権を固めていった。 武則天の武周朝は武則天の老いにより頓挫し、その後の[[玄宗 (唐)|玄宗]]の即位により、関隴体制が再び復活することになる。玄宗も治世初期には武則天の登用した科挙出身者を使っていたものの、中期以降は名族の[[李林甫]](李淵の従父弟の曾孫に当たる)などを使うようになる。 その後の[[安史の乱]]・[[牛李の党争]]などにより貴族の優位性が崩れ、科挙官僚の進出が目立つことになる。その後の[[黄巣の乱]]により、唐は大幅に国力を消耗し、関隴集団も姿を消すことになる。 ==柱国・大将軍== ===八柱国=== *[[元欣]](西魏の宗室) *[[宇文泰]] *[[李虎]](唐高祖・李淵の祖父) *[[李弼]](李密の曾祖父) *[[独孤信]](楊堅の皇后・[[独孤伽羅|独孤氏]]の父、唐高祖・李淵の外祖父) *[[趙貴]] *[[于謹]] *[[侯莫陳崇]] ===十二大将軍=== *[[楊忠]](楊堅の父) *[[元賛]](西魏の宗室) *[[元育]](西魏の宗室) *[[恭帝 (西魏)|元廓]](のちの恭帝) *[[侯莫陳順]] *[[宇文導]](宇文泰の甥) *[[達奚武]] *[[李遠]] *[[豆盧寧]] *[[宇文貴]] *[[賀蘭祥]] *[[王雄 (西魏・北周)|王雄]] {{DEFAULTSORT:ふせんちんくんはつ}} [[Category:魏晋南北朝]] [[Category:隋唐]]
武川鎮軍閥
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