コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
正親町天皇のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
正親町天皇
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{基礎情報 天皇 | 名 =正親町天皇 | 代数=第106 | 画像=Emperor_Ogimachi2.jpg | 説明=正親町天皇像(京都・[[泉涌寺]]蔵) | 在位=[[1557年]][[11月17日]] - [[1586年]][[12月17日]] | 時代=[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]・[[安土桃山時代]] | 年号=[[弘治 (日本)|弘治]]<br>[[永禄]]<br>[[元亀]]<br>[[天正]] | 首都=[[京都]] | 皇居=[[京都御所]] | 諱 =方仁 | 幼称= | 別名= | 印 = | 生年=[[1517年]][[6月18日]] | 生地= | 没年=[[1593年]][[2月6日]] | 没地= | 陵墓=深草北陵 | 先代=[[後奈良天皇]] | 次代=[[後陽成天皇]] | 子 =[[永高女王]]<br>[[誠仁親王]]<br>[[春齢女王]]<br>[[永尊女王]] | 典侍=[[万里小路房子]]<br>[[飛鳥井雅綱女]] | 父親=[[後奈良天皇]] | 母親=藤原栄子 | 注釈= |}} '''正親町天皇'''(おおぎまちてんのう、[[永正]]14年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]([[1517年]][[6月18日]]) - [[文禄]]2年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]([[1593年]][[2月6日]]))は、第106代[[天皇]](在位:[[弘治 (日本)|弘治]]3年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]([[1557年]][[11月17日]]) - [[天正]]14年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]([[1586年]][[12月17日]]))。[[諱]]は'''方仁'''(みちひと)。 == 系譜 == [[後奈良天皇]]の第二皇子。母は、[[参議]][[万里小路賢房]]の娘、吉徳門院[[万里小路栄子|藤原栄子]]。 *[[典侍]]:[[万里小路房子|藤原(万里小路)房子]](清光院)(?-1580) - [[万里小路秀房]]女 **第二皇女:[[永高女王]](宝昌院)(1540-1551) - [[大聖寺 (京都市)|大聖寺]]門跡 **第三皇女(1543-?) **第五皇子:[[誠仁親王]](陽光院)(1552-1586) - 譲位を受ける前に薨去 **皇女(1562-1567) - 母は推測 *[[典侍]]:目々典侍 - [[飛鳥井雅綱]]女 **皇女:春齢女王(1549-1569) - 大聖寺門跡 **皇女:永尊女王(1563?-1571) - 大聖寺門跡 *[[典侍]]:大典侍(御伊茶) - [[万里小路賢房]]女 **第一皇女(1539-1543) *[[養子縁組|養子]] **和仁親王([[後陽成天皇]]) - 誠仁親王第一王子 === 系図 === {{皇室室町}} == 経歴 == === 即位 === 弘治3年([[1557年]])、[[後奈良天皇]]の[[崩御]]に伴って[[践祚]]した。当時、[[天皇]]や[[公家]]達はすでに貧窮していた。[[戦国大名]]・[[毛利元就]]の献上金があるまで、3年間[[即位の礼]]を挙げられなかった<ref>シロニー『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』p137頁(第4章「非力で女性的な天皇像」、9「ソフトで柔弱な君主たち」)。</ref>。正親町天皇は、元就に褒美として[[従五位下]]・[[馬寮|右馬頭]]という[[位階]]を授け、皇室の紋章である[[菊]]と[[桐]]の模様を毛利家の[[家紋]]に付け足すことを許可した<ref>シロニー、p137(第4章9)。さらに本書は以下を出典としている。<br />1. 永井ほか「武家政権はなぜ天皇を立て続けたのか」『月刊現代』1992年2月号、p278。</ref>。 さらに、[[本願寺]]法主・[[顕如]]も莫大な献金を行っており、天皇から[[門跡]]の称号を与えられた。これ以後、本願寺の権勢が増した。[[永禄]]8年([[1565年]])には、キリスト教[[宣教師]]の京都追放を命じた。 === 織豊政権との関係 === [[朝廷]]の財政は逼迫し、権威も地に落ちかけていた。[[永禄]]11年([[1568年]])、[[織田信長]]は、正親町天皇をお護りするという大義名分により、[[京都]]を制圧した<ref name="hahanaru147">シロニー、p147(第4章「非力で女性的な天皇像」、10「非力な天皇の秘めたる強さ」、「ふたりの元首―信長と正親町天皇」)。</ref>。 この上洛によって、皇室の危機的状況に変化が訪れていた。信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させた。一方で、天皇の権威を利用し、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させた<ref>[[今谷明]]『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』講談社〈[[講談社現代新書]]〉、1992年/講談社〈[[講談社学術文庫]]〉、2002年。</ref>。[[元亀]]元年([[1570年]])の[[朝倉義景]]・[[浅井長政]]との戦い、天正元年([[1573年]])の[[足利義昭]]との戦い、天正8年([[1580年]])の[[石山本願寺]]との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命によるものである(ただし、本願寺との和議は本願寺側からの依頼という説もある)。その間の天正2年([[1574年]])には、信長に[[蘭奢待]]の切り取りを許可し、天正5年([[1577年]])には信長の最高位となる[[右大臣]]を宣下した。 [[イエズス会]]の[[宣教師]]は、日本には正親町天皇と織田信長の2人の統治者がいると報告書に記述した<ref name="hahanaru146">シロニー、p146(第4章10「ふたりの元首―信長と正親町天皇」)</ref>。[[フランシスコ・ザビエル]]の後任である布教責任者の[[コスメ・デ・トーレス]]は、1570年(元亀元年)に、以下のように報告している<ref>[[田中義成]]『足利時代史』明治書院、1923年。[[松本清張]]・今谷明「天皇になろうとした男、足利義満」『朝日ジャーナル』1991年3月15日号。Akira Imatani & Kozo Yamamura, 'Not for Lack of Will or Wile: Yoshimitsu's Failure to Supplant the Imperial Lineage' ''Journal of Japanese Studies,'' vol.18, No.1 (Winter 1992), pp. 45-78.Bob T. Wakabayashi, 'In Name Only: Imperial Sovereignty in Early Modern Japan', ''Journal of Japanese Studies,'' vol.17, No.1 (Winter 1991), p.38.</ref>。 {{Quotation|日本の世俗国家は、ふたつの権威、すなわちふたりの貴人首長によって分かたれている。ひとりは栄誉の授与にあたり、他は権威・行政・司法に関与する。どちらの貴人も〈みやこ〉に住んでいる。栄誉に関わる貴人は〈おう〉と呼ばれ、その職は世襲である。民びとは彼を偶像のひとつとしてあがめ、崇拝の対象としている。}} [[豊臣氏]]へ政権が移った後も、[[豊臣秀吉]]は[[御料地]]や黄金を献上し、正親町天皇を政権の後ろ楯とした。当時、秀吉は中国・朝鮮や東南アジアへの進出という壮大な野望を抱いていた([[文禄の役]])。明を征服した暁には「叡慮」を明に移し、その後の「日本帝位の儀」をはじめとした朝廷人事についても構想していたとされる<ref>豊臣秀次宛「二十五箇条の覚書」(前田尊経閣文庫蔵)</ref>。この計画は朝鮮出兵での失敗によって頓挫したものの、その後も皇室と[[織豊政権]]の相互関係は続き、結果的に皇室の権威は高まった。 天正14年([[1586年]])、孫の和仁(かずひと)親王([[後陽成天皇]])に譲位して[[仙洞御所]]に隠退した。文禄2年([[1593年]])[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]に崩御した。 == 正親町天皇の譲位問題 == === 信長が譲位を要求したとする説 === 正親町天皇は天正元年([[1573年]])頃から信長にその存在を疎まれるようになる。そして、たびたび[[譲位]]を要求されるようになる。同年[[12月8日_(旧暦)|12月8日]]の『[[孝親日記]]』にその事が記されている。また、2年後には譲位後に居住する[[仙洞御所]]の予定地を探していたともされた。信長としては、儲君の[[誠仁親王]]を早く天皇にすることで、より朝廷の権威を利用しやすいものにしようという思惑があったようである。しかし、天皇はそれを最後まで拒んだ。ちなみに[[本能寺の変]]に関する一説として朝廷関与説が浮上するのも、このような事情によるものである。 === 信長が譲位に反対したとする説 === 上記の説とは違い、正親町天皇が譲位を希望して信長がこれに反対していたという説もある。朝廷の内部資料([[清涼殿]]に仕える女官の日誌)である『[[お湯殿の上の日記]]』によると、天正9年([[1581年]])信長が京都で大規模な[[京都御馬揃え|馬揃え]]を行った直後の[[3月9日_(旧暦)|3月9日]]に、正親町天皇から退位の意向が信長に伝えられた。同年[[3月24日_(旧暦)|3月24日]]に譲位がいったん朝議で決定されて、この事を「めでたいめでたい」とまで記されている。 それにもかかわらず、『[[兼見卿記]]』[[4月1日_(旧暦)|4月1日]]の条に、一転中止になったと記されている。これは前述のように当時仙洞御所が存在しておらず、天皇・信長のどちらかが譲位を希望したとしても、「退位後の生活場所」という現実的な問題から何らかの形式で仙洞御所を用意できない限りは譲位は困難であった(実際の正親町天皇の譲位については、それに先立って豊臣秀吉が仙洞御所を造営している)。だが、譲位に関する諸儀式や退位後の上皇の御所の造営などにかかる莫大な経費を捻出できる唯一の権力者である信長が、譲位に同意しなかったからとするのが妥当とされている(戦国時代に在位した3代の天皇が全て譲位をすることなく崩御しているのは、譲位のための費用が朝廷になかったからである)。 天正元年の時点で、正親町天皇は57歳(同9年には65歳)、誠仁親王は22歳(同30歳)である。天正9年の時点では、天皇の病気の記事が頻出するようになる。つまり、譲位を行う好機にさしかかっていた。それにもかかわらず、信長が譲位に関して積極的な行動を取らなかったのは、むしろ譲位に消極的だったからではないかという。 == 在位中の元号 == * [[弘治 (日本)|弘治]] ([[1557年]][[10月27日 (旧暦)|10月27日]]) - [[1558年]][[2月28日 (旧暦)|2月28日]] * [[永禄]] 1558年2月28日 - [[1570年]][[4月23日 (旧暦)|4月23日]] * [[元亀]] 1570年4月23日 - [[1573年]][[7月28日 (旧暦)|7月28日]] * [[天正]] 1573年7月28日 - ([[1586年]][[11月7日 (旧暦)|11月7日]]) == 陵・霊廟 == [[ファイル:Fukakusa Kita Misasagi.jpg|right|thumb|200px|深草北陵]] [[天皇陵|陵]](みささぎ)は、[[京都府]][[京都市]]伏見区深草坊町にある'''深草北陵'''(ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。公式形式は方形堂。 また[[皇居]]では、[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[観音寺城の戦い]] * [[石山合戦]] * [[三職推任問題]] == 参考文献 == * [[宮内省]]図書寮編 『正親町天皇実録』1~2巻、ゆまに書房、2005年。ISBN 4843320250。 * [[橋本政宣]] 『近世公家社会の研究』 吉川弘文館、2002年。ISBN 4642033785。 * [[ベン・アミー・シロニー]] 『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』 [[大谷堅志郎]]訳、講談社、2003年。ISBN 978-4062116756。 == 外部リンク == {{Commons|Category:Emperor Ōgimachi}} * [http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/106/ 深草北陵/天皇陵公式ホームページ] {{歴代天皇一覧}} {{DEFAULTSORT:おおきまちてんのう}} [[Category:日本の天皇]] [[Category:戦国時代の人物 (日本)]] [[Category:安土桃山時代の人物]] [[Category:1517年生]] [[Category:1593年没]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:Commons
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Quotation
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Reflist
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:基礎情報 天皇
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:歴代天皇一覧
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:皇室室町
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:脚注ヘルプ
(
ソースを閲覧
)
正親町天皇
に戻る。
検索
検索
正親町天皇のソースを表示
話題を追加