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[[Image:Tachibanano Moroe.jpg|thumb|200px|橘諸兄・『前賢故実』より]] '''橘諸兄'''(たちばな の もろえ、[[天武天皇]]13年([[684年]])- [[天平勝宝]]9年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]([[757年]][[1月30日]]))は、[[奈良時代]]の政治家・元[[皇族]]。[[敏達天皇]]の後裔で[[大宰帥]][[美努王]]の子。元の名前を'''葛城王'''('''葛木王'''・かつらぎのおおきみ)。[[正一位]]・[[左大臣]]。井手左大臣または西院大臣と号する。初代[[橘氏長者]]。 ==生涯== [[敏達天皇]]の5世(もしくは4世)子孫で諸王であった。[[天平]]8年([[736年]])弟の佐為王と共に母・[[橘三千代]]の姓氏である橘[[宿禰]]を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗る。 天平9年([[737年]])、[[疫病]]の流行によって[[藤原四兄弟]]をはじめとして、多くの[[議政官]]が死去してしまい、出仕できる[[公卿]]は従三位[[左大弁]]諸兄と同[[大蔵卿]][[鈴鹿王]]のみとなった。そこで朝廷では急遽同年の[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]、諸兄を次期大臣の資格を有する[[大納言]]に、4日後に鈴鹿王を[[知太政官事]]([[令外官]]、[[太政大臣]]と同格で[[皇族]]であることが任用条件)に任命して応急的な体制を整えた。翌10年([[738年]])[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]、諸兄は正三位[[右大臣]]に任命され、一躍朝廷の中心的存在となった。 これ以降、国政は橘諸兄が担当し、[[聖武天皇]]を補佐することになった。天平15年([[743年]])[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]、従一位[[左大臣]]となる。[[天平感宝]]元年([[749年]])、正一位に陞階。生前に正一位に叙された人物は日本史上でも6人と数少ない。[[孝謙天皇]]の時代になると、[[藤原仲麻呂]](恵美押勝)の発言力が増すようになる。天平勝宝7年(755年)、聖武上皇の病気に際して酒の席で不敬の言があったと讒言され、同8年([[756年]])[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]辞職を申し出て引退する。同9年([[757年]])[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]に死去。 諸兄の死の同年、息子の奈良麻呂は謀反([[橘奈良麻呂の乱]])を起こし獄死している。 [[大伴家持]]と親交があり、『[[万葉集]]』の撰者の1人とする説もある。『[[栄花物語]]』月の宴の巻に、「むかし高野の女帝の御代、天平勝宝5年には左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等集りて万葉集をえらび給」との記述があり、元暦校本の裏書に、またある種の古写本の奥書にも入っており、一定の信憑性をもつものとされる。後に[[仙覚]]は橘諸兄・大伴家持の2人共撰説を唱えている。『万葉集』では7首の歌を残している。 ==系譜== [[敏達天皇]]の5世(もしくは4世)孫に当たる。 *祖父:[[栗隈王]] - [[壬申の乱]]当時の筑紫率([[大宰帥]]の前身) *父:[[美努王]] *母:[[県犬養三千代|県犬養橘三千代]](橘三千代) **弟:[[橘佐為]](佐為王) **妹:[[牟漏女王]] - [[藤原房前]]の妻 **異父妹:[[光明皇后]] - 藤原不比等の娘。[[聖武天皇]][[皇后]] *妻:[[藤原多比能]] - 藤原不比等の娘 **嫡子:[[橘奈良麻呂]] ==官歴== :日付は旧暦 :()内は数え年 *[[684年]](白鳳13年) 誕生 (1) *[[710年]](和銅3年)[[1月7日 (旧暦)|1月7日]] 従五位下 (27) *[[711年]](和銅4年)[[12月2日 (旧暦)|12月2日]] 馬寮監(めりょうげん)(28) *[[721年]](養老5年)[[1月10日 (旧暦)|1月10日]] 従五位上 (38) *[[723年]](養老7年)[[1月10日 (旧暦)|1月10日]] 正五位上 (40) *[[724年]](神亀元年)[[2月22日 (旧暦)|2月22日]] 従四位下 (41) *[[729年]](天平元年)[[3月4日 (旧暦)|3月4日]] 正四位下 (46) *[[729年]](天平元年)[[9月28日 (旧暦)|9月28日]] 左大弁 *[[730年]](天平2年)[[9月27日 (旧暦)|9月27日]] 兼 催造司の監(かみ) (47) *[[731年]](天平3年)[[8月 (旧暦)|8月]] [[参議]] (48) *[[732年]](天平4年)[[1月7日 (旧暦)|1月7日]] 従三位 (49) *[[736年]](天平8年)[[11月11日 (旧暦)|11月11日]] 臣籍降下し、橘宿禰の姓氏を賜る。 (53) *[[737年]](天平9年)[[8月24日 (旧暦)|8月24日]] 従三位 大納言 (54) *[[738年]](天平10年)[[1月13日 (旧暦)|1月13日]] 正三位 右大臣 (55) *[[739年]](天平11年)[[1月13日 (旧暦)|1月13日]] 従二位 (56) *[[740年]](天平12年)[[11月21日 (旧暦)|11月21日]] 正二位 (57) *[[743年]](天平15年)[[5月5日 (旧暦)|5月5日]] 従一位 左大臣 (60) *[[746年]](天平18年)[[4月5日 (旧暦)|4月5日]] 兼 大宰帥 (63) *[[749年]](天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年)[[4月14日 (旧暦)|4月14日]] 正一位 (66) *[[750年]](天平勝宝2年)[[1月16日 (旧暦)|1月16日]] 朝臣の姓を賜る (67) *[[756年]](天平勝宝8年)[[2月2日 (旧暦)|2月2日]] 辞職 (73) *[[757年]](天平宝字元年)[[1月6日 (旧暦)|1月6日]] 卒 (74) ==参考文献== *井上豊「橘諸兄論Ⅰ・Ⅱ」、『上代文学』5・7、1955・56年。 *横田建一「橘諸兄と奈良麻呂」、『歴史教育』15-4、1967年。 *市村 宏「橘諸兄」、『東洋学研究』9、1975年。 *直木孝次郎「諸兄と元正太上天皇」、『国文学 解釈と教材の研究』23-5、1978年。 *木本好信「橘諸兄と奈良麻呂の変」、筑波大学日本史学論叢14、1992年。 *中西 進「橘諸兄の周辺」、学士会会報795、1992年。 *木本好信「紀飯麻呂と橘諸兄政権」、『奈良時代の藤原氏と諸氏族』、おうふう、2004年。ほか ==関連項目== * [[橘氏]] * [[大伴家持]] * [[万葉集]] * [[火の鳥 鳳凰編]] * [[貝吹山城]] * [[天上の虹]] == 外部リンク == * [http://www.geocities.jp/rekishi_chips/zinin1.htm 橘諸兄の辞任] {{DEFAULTSORT:たちはな の もろえ}} [[Category:橘氏|もろえ]] [[Category:万葉歌人]] [[Category:奈良時代の貴族]] [[Category:賜姓皇族]] [[Category:日本の神 (人物神)]] [[Category:684年生]] [[Category:757年没]]
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