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楽浪郡
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{{朝鮮の事物 |picture=[[ファイル:Map of The east barbarian 0.png|240px]] |caption=[[紀元前1世紀]]頃の[[東夷]]諸国と[[楽浪郡]]の位置 |title=楽浪郡 |hangeul=낙랑군 / 락랑군 |hanja=樂浪郡 |hiragana=ナンナングン / ランナングン |katakana=らくろうぐん |alphabet-type=[[文化観光部2000年式|2000年式]]:<br />[[マッキューン=ライシャワー式|MR式]] |alphabet=Nakrang-gun / Rakrang-gun<br />Nakrang-kun / Rakrang-kun }} {{中華圏の事物 |タイトル=楽浪郡 |簡体字=乐浪郡 |繁体字=樂浪郡 |ピン音=Lèlàng Jùn |注音符号=ㄌㄜˋㄌㄤˋ ㄐㄨˋㄋ |カタカナ= }} {{朝鮮の歴史}} '''楽浪郡'''(らくろうぐん)は、[[前漢|漢朝]]によって設置され、[[紀元前108年]]から西暦[[313年]]まで存在した、[[朝鮮半島]]北部の[[郡]](地方行政機構、[[植民地]]との見方も存在する<ref>[[鳥越憲三郎]]は、「前漢武帝が元封三年に朝鮮半島の北部を植民地として楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡を設置」と記している({{Cite book|和書|editor=[[中西進]]・[[王勇]]編|year=1996|month=10|title=人物|publisher=大修館書店|series=日中文化交流史叢書 第10巻|isbn=4-469-13050-8|ref=中西&王1996}})。</ref><ref>[[武光誠]]は、「[[魏志倭人伝]]は、朝鮮半島にあった[[魏 (三国)|魏]]の植民地、帯方郡から邪馬台国にいたる道筋を詳しく記している」と述べている(武光誠「古代史最大の謎邪馬台国の21世紀的課題」『[[月刊現代]]』2008年6月号 87頁)。</ref><ref>[[渡辺延志]][[朝日新聞]]記者は、「楽浪郡は前漢が前108年に設置した植民地({{cite news |title=紀元前1世紀の楽浪郡木簡発見|author=渡辺延志|newspaper=朝日新聞|date=2009-03-19|url=http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200903190125.html|accessdate=2011-06-01}})」「中国の前漢が朝鮮半島に置いた植民地・楽浪郡({{cite news |title=最古級の論語、北朝鮮から 古代墓から出土の竹簡に記述(1/2ページ)|author=渡辺延志|newspaper=朝日新聞|date=2010-05-29|url=http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201005280277.html|accessdate=2011-06-01}})」「漢字が植民地経営のために、朝鮮半島にまで広がっていた({{cite news |title=最古級の論語、北朝鮮から 古代墓から出土の竹簡に記述(2/2ページ)|author=渡辺延志|newspaper=朝日新聞|date=2010-05-29|url=http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201005280277_01.html|accessdate=2011-06-01}})」と説明している。</ref><ref>[[別冊宝島]]は「[[ソウル]]周辺や[[江原道 (南)|江原道]]、さらに北の[[北朝鮮]]は中国の植民地で楽浪郡といった」と記している({{Cite book|和書|editor=別冊宝島編集部編|year=2011|month=3|title=あなたが知らない韓国!100のトリビア|publisher=宝島社|isbn=978-4-7966-8096-7|series=別冊宝島 1726 Nonfiction|ref=別冊宝島編集部2011}})。</ref><ref>[[桜井誠 (活動家)|桜井誠]]は「漢の武帝によって真番・臨屯・玄菟・楽浪の漢四郡が設置されるなど、中華帝国の千年属国」「中国・前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島に設置した四つの郡県(中国の行政単位)。三国時代に至るまで、代々中華帝国の支配を受けていた」「中国前漢武帝の時代に衛氏朝鮮は滅ぼされ、その地に楽浪郡をはじめ真番郡、臨屯郡、玄菟郡のいわゆる漢四郡が設置されており、侵略を跳ね返したどころか漢帝国の一地方となっていた」と説明している({{Cite book|和書|author=桜井誠|year=2006|month=2|title=嫌韓流反日妄言撃退マニュアル 実践ハンドブック |publisher=晋遊舎|series=晋遊舎ムック|isbn=4-88380-502-6|ref=桜井2006}})。</ref><ref>そもそも漢代の[[郡]]は内郡と辺郡にわけられ、外国や異民族と境界を接触している郡を'''辺郡'''といい、それ以外の郡(中国の本土の国内の郡)を'''内郡'''といった。辺郡は、それぞれごとに詳細な事情や度合いなどは様々に異なるが、中国系の移民と先住民である異民族が混在する地域であった。太守が[[都尉]](軍事担当官)を兼任する内郡に対し、辺郡では太守と別に複数の都尉が置かれて域内を分割統治するなど事実上の軍事支配体制であり、辺郡はおおむね植民地的な存在であった。</ref>)。[[真番郡]]、[[臨屯郡]]、[[玄菟郡]]と共に[[漢四郡]]と称される。東方における[[中華文明]]の出先機関であり、朝鮮や日本の中華文明受容に大きな役割を果たした。楽浪郡の住民は王氏が多く韓氏これに次ぎ、この二氏でかなりの率を占めていた。 == 沿革・変遷 == === 成立 === [[紀元前108年|前108年]]([[元封 (漢)|元封]]3年)、朝鮮半島西部にあった[[衛氏朝鮮]]を滅ぼした漢朝により設置されたのが始まりである。郡治所は朝鮮県(衛氏朝鮮の王険城、今の平壌)に置かれ、郡の南部には南部都尉が置かれていた。 === 拡大 === [[紀元前82年|前82年]]([[始元 (漢)|始元]]5年)には真番・臨屯が廃止され、臨屯郡北部の6県と玄菟郡の1県が楽浪郡に編入された。これを'''嶺東七県'''(日本海側)といい嶺東7県を管轄する軍事組織として東部都尉が置かれた。玄菟郡はその後段階的に縮小移転している。 この結果、楽浪郡は25県を抱え、この拡大した楽浪郡を創業期の楽浪郡に対して歴史学では「大楽浪郡」ともいう。『[[漢書]]』地理志によるとその戸数は6万2,812戸、口数は40万6,748人あった<ref>『漢書』地理志第八下。ちくま学芸文庫版『漢書』3、413頁。</ref>。[[平壌]]郊外の貞柏洞364号墳で発見された「楽浪郡初元四年県別戸口簿」によると、25県の[[初元]]4年([[紀元前45年]])の戸数は4万3251戸、人口は28万0361人であった<ref>李成市「東アジアの木簡文化」136頁。</ref>。 === 混乱期 === [[王莽]]による[[新|新朝]]が成立すると楽浪郡は'''楽鮮郡'''と改称され、諸県も名称変更された。その後の[[新末後漢初]]の混乱期に、土着漢人の[[王朝]]が反乱を起こして一時的<ref>6年間に渡って楽浪郡を実質わがものとしていたが形式的には独立していたのは最後の半年間だけである。</ref>な独立国家を樹立したこともあったが、[[後漢]][[光武帝]]が中国統一事業の過程で[[30年]]には楽浪郡を接収している。その年(30年)のうちに後漢は嶺東7県を廃止して、原住民の穢人を県侯に任命して独立させている。 === 帯方郡の分割 === 後漢末期の混乱期になると、遼東地方で台頭した[[公孫氏 (遼東)|公孫氏]]が楽浪郡にも勢力を伸ばしその支配下に収めた。 [[3世紀]]初頭には公孫氏の2代目、公孫康が郡南部の荒地を分離して再開発し、[[帯方郡]]を設置している。ただし、名目上は楽浪郡から帯方郡を分置したといっても、実際には帯方郡のほうが大きく楽浪郡はそれに比べて主役の座を譲った格好になった。 === 末期 === [[三国時代 (中国)|三国時代]]には[[魏 (三国)|魏]]が[[238年]]に楽浪・帯方郡を接収し、翌年(一説には同年)倭女王[[卑弥呼]]も帯方郡を通じて魏と通交した。[[265年]]魏に代わった[[西晋|晋]]が引き続き支配したが、[[八王の乱]]以後は衰退の一途を辿り、[[313年]]には[[高句麗]]に滅ぼされ、後に高句麗は楽浪郡の跡地に遷都した。楽浪・帯方の土着漢人達は高句麗・百済の支配下に入り、これらの王国に中華文明を伝える役割を果たした。 == 楽浪郡の考古 == 楽浪郡治は衛氏朝鮮国の都「王険」改め「朝鮮県」を郡治とし、現在の[[平壌市]]付近の大同江北岸(現在の平壌市街)に郡治が所在したと考えられている。 平壌市街一帯には楽浪漢墓と呼ばれる当時の墳墓が残り、その数は2,000以上と言われる。 楽浪漢墓の多くは郡の下級役人たちのもので、墓制は前期の木槨墓から後期の塼室墓に移行している。その多くは植民地時代に日本の考古学者によって発掘された。腐朽消滅していない漢代の木槨墓が初めて学術的に発掘され、大型の木馬など、大量の木製品、漆器が出土した。特に年号・製造部署が刻された漆器が重要で、前漢始元2年から後漢永平14年に至る長期間の遺品が出土している。殆どが四川省で制作された漆器である。その中で、南井里第116号古墳から出土した「漆絵人物画像文筺」は特に有名である。他にも[[銅鏡]]や官印、玉器、土器、漢銭などが出土した<ref>これらの出土品にみえる人名は王氏ついで韓氏を姓とするものが多く、王氏は楽浪王氏とよばれ元は山東半島系の移民と考えられている。また王氏についで多い韓氏は河北省方面からの移民と考えられている。</ref>。 日本の[[壱岐市]]の[[原の辻遺跡]]では楽浪郡の文物と一緒に[[弥生時代]]の[[古代出雲|出雲]]の土器が出土しており、これは、楽浪郡と[[壱岐]]、[[古代出雲|出雲]]の間の交流を示す。[[姫原西遺跡]]や[[西谷墳墓群]]がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性がある。 == 異説 == [[北朝鮮]]の学界と[[大韓民国|韓国]]の一部の学者<ref>{{cite news |title=「中国の東北工程への反論、丹斎先生が70年前に準備」|author= |newspaper=朝鮮日報|date=2006-11-11|url=http://www.chosunonline.com/article/20061111000001|accessdate=2011-06-03}}</ref>は、朝鮮半島には古代から自主独立の国があったとする独自の歴史観を掲げるため、楽浪郡が朝鮮半島にあったことを否定し、中国の[[遼東半島]]<ref>正確には遼河を挟んだ流域。この場合、古代の「遼水」とは今の[[遼河]]ではなく[[大凌河]]のことであるとする。当然、当時の[[遼東郡]]とは今の遼西のことであり、[[李址麟]]は従来[[遼西郡]]とされてきた地は正しくは[[右北平郡]]であるとしている。こういう具合に次々と西へ西へと修正を加え、[[朝鮮民族史学]]の祖[[申采浩]]は当時の[[上谷郡]]とは今の代県([[大同市]])のことであるとする。ただし楽浪郡が実は遼東半島にあったとか遼西郡がもともと遼東郡だったとかの説は戦前に日本人の一部が唱えていた説である。</ref>にあったものとしている<ref>{{cite news |title=紀元前1世紀の楽浪郡木簡発見(1/2ページ)|author=渡辺延志|newspaper=朝日新聞|date=2009-03-19|url=http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200903190125.html|accessdate=2011-06-03}}</ref><ref>{{cite news |title=紀元前1世紀の楽浪郡木簡発見(2/2ページ)|author=渡辺延志|newspaper=朝日新聞|date=2009-03-19|url=http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200903190125_01.html|accessdate=2011-06-03}}</ref>。しかし、この主張は文献的にも考古学的にも問題があり、中国や日本やアメリカ<ref>Kyung Moon hwang, "A History of Korea, An Episodic Narrative" 2010,</ref><ref>Carter J. Eckert, el., "Korea, Old and New: History" 1990,</ref><ref>Michael J. Seth, "A history of Korea, from Antiquity to the present" 2010,</ref><ref>Charles Roger Tennant, "A History of Korea" 1996,</ref><ref>Mark Peterson, "A Brief History Of Korea" 2009.</ref>の学界では全く認められていない。 この話では、楽浪郡が存在したとされる地域にあったのは「[[楽浪国]]」であるとする。これは中国の郡とは無縁の、朝鮮民族による独立国家であるとも、馬韓を構成する国の一つだったとも仮定し、戦前に北朝鮮で発掘された中国系の文化を示す出土品は、楽浪国が中国から攻め取った戦利品なのであるという。同時に楽浪国王の姓は「崔氏」という中国風の姓<ref>『三国史記』に楽浪国王崔理が登場する。通常は楽浪郡太守のことと解される。</ref>だったともいう。『[[三国史記]]』によると、[[30年]]の後漢による楽浪郡の接収はなく、支配者が王調から崔理に代わっただけで、引き続き楽浪郡は独立していて「楽浪国」となっていた。高句麗は[[37年]]に楽浪国を滅ぼして併合したが[[44年]]に後漢が水軍を派兵して奪還、楽浪郡を再建したという。しかし、この主張も文献的にも考古学的にも問題があり、韓国と朝鮮国を除く学界では全く認められていない。 == その他 == 現在の平壌市には「[[楽浪区域]]」という行政区や「[[楽浪線]]」という鉄道の路線がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * [[班固]]著、[[小竹武夫]]訳『漢書』3(志下)、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1998年。 * 李成市「東アジアの木簡文化」、木簡学会・編『木簡から古代がみえる』、岩波書店(岩波新書)、2010年。 * {{Cite book|和書|author=井上秀雄|authorlink=井上秀雄|year=1972|title=古代朝鮮|publisher=日本放送出版協 会|series=NHKブックス172|isbn=4-14-001172-6|ref=井上1972}} ** {{Cite book|和書|author=井上秀雄|authorlink=井上秀雄|year=2004|month=10|title=古代朝鮮|publisher=講談社|series=講談社学術文庫|isbn=4-06-159678-0|ref=井上2004}} {{漢朝の行政区分}} {{DEFAULTSORT:らくろうくん}} [[Category:朝鮮の歴史]] [[Category:かつて存在した中国の郡]] [[Category:漢朝の行政区分]] [[Category:魏晋南北朝]] [[Category:中国朝鮮関係史]]
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