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楠木正行
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{{出典の明記|date=2012年9月|ソートキー=人1348年没}} {{基礎情報 武士 | 氏名 = 楠木正行 | 画像 = 楠木正行像.JPG | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 楠木正行石像([[大阪府]][[大東市]][[飯盛山 (生駒山地)|飯盛山]]) | 時代 = [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]] | 生誕 = 不詳 | 死没 = [[正平 (日本)|正平]]3年/[[貞和]]4年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]([[1348年]][[2月4日]]) | 改名 = 多聞丸(幼名)→正之(初名)→正行 | 別名 = 小楠公 | 諡号 = | 神号 = | 戒名 = 文光寺霊山升龍仙海 | 墓所 = [[宝筐院]]、[[#墓所|他]] | 官位 = [[検非違使]]尉、[[衛門府|左衛門少尉]]、[[従五位]]下、[[摂津国|摂津]]守、[[河内守]]、[[贈従三位]]、[[贈従二位]] | 主君 = [[後醍醐天皇]] | 氏族 = [[楠木氏]] | 父母 = 父:[[楠木正成]]、母:[[南江久子|久子]]([[南江正忠]]の娘) | 兄弟 = '''正行'''、[[楠木正時|正時]]、[[楠木正儀|正儀]] | 妻 = [[富士義勝]]の娘 | 子 = [[楠木多聞丸|多聞丸]]、[[楠木正綱|正綱]]、[[若江三人衆#池田教正|池田教正]](諸説あり) | 特記事項 = }} '''楠木 正行'''(くすのき まさつら)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]。[[楠木正成]]の[[嫡子|嫡男]]。「大楠公」と尊称された正成に対して「'''小楠公'''(しょうなんこう)」と呼ばれる。初名は'''正之'''(まさより、まさこれ)と伝わる。父の意志を継ぎ、足利尊氏と戦った。 [[File:Yōshū Chikanobu Kusunoki Masatsura.jpg|thumb|妖怪を退治する楠木正行([[楊洲周延]]『東絵画夜競』)]] == 生涯 == === 生い立ち === 生年については明確な史料が存在しない。『[[太平記]]』には父との「[[桜井の別れ]]」の当時は11歳であったとあることから[[嘉暦]]元年([[1326年]])とも推測されているが、これは多くの史家が疑問視している。『太平記』の記述を疑って正行の生年をもう少し遡らせる説も古くからあるが、明確な史料が存在しない以上推測の域を出ない<ref>正行の生年は[[元亨]]3年([[1323年]])や[[正中 (元号)|正中]]元年([[1324年]])、または[[嘉暦]]元年([[1326年]])の諸説があるが確証はない。[[延元]]元年/[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])に父・正成と桜井で別れた時、すでに正行は[[左衛門少尉]]の官職を賜っており元服を迎えた後だったと[[新田次郎]]などはそのように述べている。また、[[明治]]初年に[[重野安繹]]もこれを唱えている。要するに正行の当時の年齢は既に青年というべき20歳前後だった見解があり、桜井の別れそのものが疑問視なされている([[桜井の別れ]]を参照)。</ref>。 正成の長男として[[河内国]]に生まれた。幼名は多聞丸。幼少の時、河内往生院などで学び武芸を身に付けた。延元元年/建武3年(1336年)の[[湊川の戦い]]で父の正成が戦死した後、覚悟していたこととはいえ父の首級が届き衝撃のあまり仏間に入り父の形見の菊水の短刀で自刃しようとしたが、生母に諭され改心したという<ref>『太平記』のみの記述。『[[梅松論]]』には一切記されていない。</ref>。 正行は亡父の遺志を継いで、楠木家の棟梁となって[[南朝 (日本)|南朝]]方として戦った。正成の嫡男だけあって、南朝から期待されていたという。足利幕府の[[山名時氏]]・[[細川顕氏]]連合軍を[[摂津国]]天王寺・[[住吉浜]]にて打ち破っている。 === 四條畷の戦い === {{See also|四條畷の戦い}} [[正平 (日本)|正平]]3年/[[貞和]]4年([[1348年]])に河内国北條(現在の[[大阪府]][[四條畷市]])で行われた[[四條畷の戦い]](四條縄手)において足利側の[[高師直]]・[[高師泰|師泰]]兄弟と戦って敗北し、弟の[[楠木正時|正時]]と共に自害した(享年に関しては諸説がある)。 先に住吉浜にて足利方を打ち破った際に敗走して摂津国・渡部橋に溺れる敵兵を助け、手当をし衣服を与えて敵陣へ送り帰した。この事に恩を感じ、この合戦で楠木勢として参戦した者が多かったと伝えられている。 かねてより死を覚悟しており、[[後村上天皇]]よりの弁内侍賜嫁を辞退している。そのとき詠んだ歌が :「とても世に 永らうべくもあらう身の 仮のちぎりを いかで結ばん」 である。 この合戦に赴く際、辞世の句(後述)を吉野の如意輪寺の門扉に矢じりで彫ったことも有名である。決戦を前に正行は弟・正時や[[和田賢秀]]ら一族を率いて吉野行宮に参内、後村上天皇より「朕汝を以て股肱とす。慎んで命を全うすべし」との仰せを頂いた。しかし決死の覚悟は強く参内後に[[後醍醐天皇]]の御廟に参り、その時決死の覚悟の一族・郎党143名の名前を如意輪堂の壁板を過去帳に見立てその名を記してその奥に[[辞世]]を書き付け自らの遺髪を奉納したという。 {{Quotation|かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる}} 地の利を失っては勝ち目が薄い。家督は弟の正儀が継いだ。 === その後 === [[明治維新]]の[[尊王思想]]の模範とされ、その誠忠・純孝・正義によるとして[[明治]]9年([[1876年]])に[[従三位]]を[[追贈]]された。明治22年([[1889年]])には殉節地の地元有志等による正行を初め楠木一族を祀る神社創祀の願いが容れられ[[別格官幣社]]として[[社号]]を与えられ、翌明治23年([[1890年]])に社殿が竣功し正行を[[主祭神]]とする[[四條畷神社]]が創建された。さらに明治30年([[1897年]])には[[従二位]]が[[追贈]]された。 === 墓所 === * 京都市右京区の[[宝筐院|善入山宝筐院]]に墓(首塚)がある。また正行の敵方であった足利幕府2代将軍・[[足利義詮]]は遺言に「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(現在の宝筐院)の正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい」とあり、遺言どおり正行の墓(五輪石塔)の隣に義詮の墓(宝筐印塔)は建てられた。 * 大阪府東大阪市六万寺町の[[往生院六萬寺]]にも墓があり、こちらには胴体が葬られている。 * 大阪府四條畷市雁屋南町にも[[小楠公御墓所|墓]]があり、こちらには巨大な楠が植えられている。 * [[京都府]][[宇治市]][[六地蔵]][[柿ノ木町]]の[[正行寺]](首塚) * 大阪府東大阪市山手町にも首塚がある。 * [[鹿児島県]][[薩摩川内市]][[上甑町]]付近にも甑島墓所がある。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[千早神社]] * [[如意輪寺]] * [[小楠公とその母]] == 外部リンク == * [http://kambun.jp/kambun/morita-kusunoki-yaku.htm 楠左衛門尉髻塚碑(森田節斎)(日本漢文の世界)] {{People-stub}} {{japanese-history-stub}} {{DEFAULTSORT:くすのき まさつら}} [[Category:楠木氏|まさつら]] [[Category:室町・安土桃山時代の武士]] [[category:日本の神 (人物神 建武中興)]] [[Category:14世紀生]] [[Category:1348年没]]
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