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楚 (十国)
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{{基礎情報 過去の国 |略名 = |日本語国名 = 楚 |公式国名 = 楚 |建国時期 = [[907年]] |亡国時期 = [[951年]] |先代1 = 唐 |先旗1 = blank.png |次代1 = 南唐 |次旗1 = blank.png |位置画像 = Imperial Dynasties in China 917 CE (Chinese).png |位置画像説明 = 917年の楚(水色) |位置画像幅 = 300 |公用語 = 漢語([[中国語]]) |首都 = [[長沙]]府([[潭州]]) |元首等肩書 = [[王]] |元首等年代始1 = [[907年]] |元首等年代終1 = [[930年]] |元首等氏名1 = [[馬殷|武穆王]] |元首等年代始2 = [[930年]] |元首等年代終2 = [[932年]] |元首等氏名2 = [[馬希声|衡陽王]] |元首等年代始3 = [[932年]] |元首等年代終3 = [[947年]] |元首等氏名3 = [[馬希範|文昭王]] |元首等年代始4 = [[947年]] |元首等年代終4 = [[950年]] |元首等氏名4 = [[馬希広|廃王]] |元首等年代始5 = [[950年]] |元首等年代終5 = [[951年]] |元首等氏名5 = [[馬希萼|恭孝王]] |元首等年代始6 = [[951年]] |元首等年代終6 = [[951年]] |元首等氏名6 = [[馬希崇|廃王]] |変遷1 = [[後梁]]より封ぜられる |変遷年月日1 = [[907年]] |変遷2 = [[南唐]]によって滅亡 |変遷年月日2 = [[951年]] }} {{基礎情報 過去の国 |略名 = |日本語国名 = 楚 |公式国名 = |建国時期 = [[956年]] |亡国時期 = [[963年]] |先代1 = 南唐 |先旗1 = blank.png |次代1 = 宋 (王朝) |次旗1 = blank.png |位置画像 = |位置画像説明 = |位置画像幅 = 300 |公用語 = 漢語([[中国語]]) |首都 = 長沙府(潭州) |元首等肩書 = 統治者 |元首等年代始1 = [[956年]] |元首等年代終1 = [[962年]] |元首等氏名1 = [[周行逢]] |元首等年代始2 = [[962年]] |元首等年代終2 = [[963年]] |元首等氏名2 = [[周保権]] |変遷1 = [[周行逢]]によって自立 |変遷年月日1 = [[956年]] |変遷2 = [[宋 (王朝)|宋]]によって滅亡 |変遷年月日2 = [[963年]] }} [[File:五代后唐(繁).png|thumb|300px|[[後唐]]代の楚([[青紫]])]] [[File:五代后晋、后汉时形势图(繁).png|thumb|300px|[[後晋]]・[[後漢 (五代)|後漢]]代の楚(青紫)]] '''楚'''(そ [[907年]] - [[951年]])は[[中国]][[五代十国時代]]に[[湖南省]]・[[広西チワン族自治区]]を支配した国。[[茶]]の交易で栄えた。 ==歴史== 始祖・[[馬殷]](ばいん)は木工から身を起こして、[[河南省|河南]]の群雄・[[秦宗権]](しんそうけん)の武将・[[孫儒]](そんじゅ)に従って[[淮河]]の周辺を転戦し、孫儒の死後に[[潭州]](たんしゅう、現在の[[長沙市]])に入って湖南一帯に勢力を獲得し、[[896年]]に湖南[[節度使]]となる。その後、広西方面にも勢力を伸ばし、[[907年]]に[[朱全忠]]により、[[後梁]]が建てられるとこれに[[朝貢|入朝]]し、楚王に封ぜられた。その後、後梁が[[後唐]]に滅ぼされるとこれにも入朝し、歴代の王は全て中原の五代王朝に称臣した。 これは軍事的には東の[[呉 (十国)|呉]]に対抗するためであり、経済的には特産品の茶の交易路を閉ざさないためでもあった。当時、茶は全国で需要があり、北方の[[契丹]]なども貴重な[[ビタミン]]源として茶を求めていた。また茶以外にも[[木綿]]や[[絹]]などの産業を興し、湖南・広西の経済を大きく育てた。 [[930年]]に馬殷が死去すると、彼の20人に上る息子の間で継承争いが起きる。まず次男の[[馬希声]](ばきせい)が即位するが、元から暗愚と言われており、その評判どおりに内政を省みず、奢侈にふけり、他国の策に乗って家臣を殺すなどの悪政が目立った。 [[932年]]に馬希声が死ぬと、馬殷の五男・[[馬希範]](ばきはん)が後を継いだ。馬希範は馬殷に倣って後唐に対して入朝し、楚王に封ぜられる。しかしその奢侈は兄を上回り、宴会を好んで、財政を悪化させた。 [[947年]]に馬希範が死ぬと、馬殷の十五男・[[馬希広]](ばきこう)が後を継ぐ。しかしこれに不満を持った異母兄の[[馬希萼]](ばきがく)は自立して自ら王を名乗り、[[南唐]]の支援を受けて、潭州の馬希広を攻撃してきた。[[950年]]に馬希萼の軍は潭州を陥落させて、馬希広を殺し、馬希萼が楚王となる。しかし馬希萼も弟の[[馬希崇]](ばきすう)に背かれて幽閉され、馬希崇が権力を握る。馬希崇は領内の慰撫に失敗し、一連の混乱を好機と見た南唐は楚に侵攻し、[[951年]]に潭州を落とされて楚は滅びた。馬希萼は南唐の首都・金陵([[南京市|南京]])に移されてそこで死去した。馬希崇は南唐に仕えて節度使となり、南唐が[[後周]]の攻撃を受けると、後周に保護され、後周に将軍位を授けられた。 その後、馬希萼の武将であった[[周行逢]](しゅうこうほう)が南唐の支配を退けて、[[956年]]に再び湖南を制圧するが、[[962年]]に息子の[[周保権]]が後を継いでまもなく部下が反乱を起こし、翌年に北の[[宋 (王朝)|宋]]に併合された。 ==経済== 前述のように楚は茶を中心とした交易で栄えた商業国家であった。茶の売買は国家によって奨励され、絹織物の生産を奨励するために納税を絹で納めさせたりしていた。また独自に国内でのみ通用する[[鉛]]製の[[貨幣]]である[[鉛銭]]を作り、国外への貨幣持ち出しを禁止して、資産の集中を図った。 ==楚の統治者== #武穆王・[[馬殷]]([[字]]は覇図 [[852年]] - [[930年]] 在位[[907年]] - [[930年]]) #衡陽王・[[馬希声]](字は若訥 [[899年]] - [[932年]] 在位[[930年]] - [[932年]]) #文昭王・[[馬希範]](字は宝規 899年 - [[947年]] 在位[[932年]] - [[947年]]) #廃王・[[馬希広]](字は徳丕 ? - [[950年]] 在位[[947年]] - [[950年]]) #恭孝王・[[馬希萼]](生没年不詳 在位[[950年]] - [[951年]]) #廃王・[[馬希崇]](生没年不詳 在位[[951年]]) #[[周行逢]]([[917年]] - [[962年]]、在位[[956年]] - [[962年]]) #[[周保権]](生没年不詳 在位[[962年]] - [[963年]]) [[Category:五代十国|そ]] [[Category:楚 (十国)|*]] [[Category:湖南省の歴史|そ]] [[Category:広西チワン族自治区の歴史|そ]]
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