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楊行密
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{{基礎情報 中国君主 |名 =太祖 楊行密 |代数 =初代 |呼称 =王 |画像 = |説明 = |王朝 =呉 |在位期間 =[[902年]] - [[905年]] |都城 =江都府 |諱 =楊行愍→楊行密 |字 =化源 |小字 = |諡号 =武忠王([[唐]][[昭宗 (唐)|昭宗]]による)<br>孝武王([[楊隆演|高祖]]による)<br>武皇帝([[楊溥 (十国呉)|睿帝]]による) |廟号 =太祖 |生年 =[[大中]]6年([[852年]]) |没年 =[[天祐 (唐)|天祐]]2年[[11月26日 (旧暦)|11月26日]]<br>([[905年]][[12月24日]]) |父 =[[楊フ|楊怤]] |母 = |皇后 =朱夫人 |陵墓 =興陵 |年号 = |注釈 = }} '''楊 行密'''(よう こうみつ)は[[五代十国時代|十国]][[呉 (十国)|呉]]の事実上の建国者。[[唐]]末に呉王に封ぜられた。世を去った時には唐朝は依然として存在しており、唐の臣としてその正朔を奉じていたが、事実上の独立王国を建設していたため、単に唐の[[諸侯王|封国君主]]と見なすべきではない。 == 生涯 == 盧州合肥(現在の[[安徽省]][[合肥]])の人。もとは[[盧州]]牙将であったが、[[中和 (唐)|中和]]3年([[883年]])、盧州[[刺史]]に任命され、淮南[[節度使]][[高駢]]の下についた。高駢は愚昧で方士の[[呂用之]]を重用するようになり、次第に呂用之が権力を握って、独断専行が目立つようになった。淮南の将の[[畢師鐸]]は不安を抱き、中和5年([[885年]])、観察使[[秦彦]]とともに謀反を起こし、高駢は両者に殺害された。楊行密は挙兵して畢師鐸・秦彦を撃破して[[揚州]]に入り、淮南留後を自称した。そのとき城内では飢饉が起こっていたが、楊行密は軍糧を与えて民衆を救済した。その後[[秦宗権]]・[[孫儒]]の勢力と江淮地方をめぐって争ったが、やがて一帯を占領し、[[景福 (唐)|景福]]元年([[892年]])には朝廷から淮南節度使に任命された。 [[乾寧]]4年([[897年]])、宣武節度使[[朱全忠]]が大挙して南下した。楊行密は清口で敗れたが、朱全忠にそれ以上南下する力はなく、以後数十年間にわたり中国は南北に分裂することになる。[[天復 (唐)|天復]]2年([[902年]])、東面行営都統・中書令・呉王を拝命した。[[天祐 (唐)|天祐]]2年([[905年]])に病死。武忠王と[[諡]]されるが、四男の[[楊溥 (十国呉)|楊溥]]の代に武帝と追尊された。廟号は太祖。長男の[[楊渥]]が後を継いだ。 {{先代次代|[[呉 (十国)|十国呉]]の初代[[中国帝王一覧|王]]|902年 - 905年|―|[[楊渥|烈祖]]}} {{DEFAULTSORT:よう こうみつ}} [[Category:十国の君主]] [[Category:呉 (十国)|こうみつ]] [[Category:唐代の人物]] [[Category:中国の追尊君主]] [[Category:合肥出身の人物]] [[Category:852年生]] [[Category:905年没]]
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