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楊彪
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'''楊 彪'''(よう ひょう、[[142年]] - [[225年]])は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]にかけての政治家、学者。[[楊震]]の曾孫、楊秉の孫、臨晋侯[[楊賜]]の子、[[楊脩]]の父。妻は[[袁術]]の妹。[[字]]は'''文先'''。 ==先祖== [[弘農郡]][[華陰県]]([[陝西省]][[華陰市]])の人。後漢の名族である弘農楊氏は、[[前漢]]初期の赤泉侯であった楊喜や[[昭帝 (漢)|昭帝]]時に[[丞相]]であった安平侯[[楊敞]]の子孫といわれるが、『[[漢書]]』において楊敞は楊喜の子孫とされておらず、実質的に弘農楊氏は楊震に起家したと考えられている([[狩野直禎]]の説による)。 ==生涯== 祖父は楊震の次子であるが、[[三公]]まで昇り、父もまた重職を歴任し三公となった。そのため、累世[[太尉]]とも称され、楊彪も太尉に至ったことから、後に四世太尉といわれた。 最初、[[孝廉]]に挙げられた上で、[[茂才]]に推挙された。さらに三公の府からも招かれたが、出仕しようとしなかった。[[熹平]]年間に車での迎えに応じ、議郎となり、[[侍中]]・[[京兆尹]]を務めた。宦官の王甫が私腹を肥やしていることを[[司隸校尉]]の陽球に告発し、陽球は王甫の一族を捕らえて処刑したため、天下から称賛された。侍中・五官中郎将となった後、穎川・[[南陽]][[太守]]を務めた。その後、再び中央に戻り侍中に再任され、永楽少府・[[太僕]]なども務めた。 家学「欧陽尚書」を習得し教授した。朝廷内において、東観(漢の国史編纂室)で[[馬日テイ|馬日磾]]・[[盧植]]・[[蔡ヨウ|蔡邕]]らと同僚だったこともある。 [[中平]]6年([[189年]])、[[董卓]]の専横が始まると、[[司空]]・[[司徒]]となった。関東の諸侯が挙兵すると、董卓は[[長安]]への遷都を実行に移そうとした。楊彪は[[盤庚]]の悪政の先例を引くなどしてこれに徹底的に反対した。これは董卓の怒りを買い、董卓は天候の不順を理由に、司隸校尉の宣播に命じて楊彪ら反対者を全て罷免させた。後に、[[光禄大夫]]として復帰して[[大鴻臚]]となり、さらに少府・[[太常]]になるが、病気により辞職した。後に京兆尹として復帰、[[光禄勲]]となり再び光禄大夫となった。後に再び司空となったが、地震が起こり免職となった。 [[初平]]元年([[194年]])、太尉・[[録尚書事]]となり、[[李カク (後漢)|李傕]]・[[郭シ|郭汜]]らが争う中、一時は殺害されかけたが何とか逃れ、[[献帝 (漢)|献帝]]を奉じ長安を脱出し、[[洛陽]]まで逃れた。洛陽への遷都が成ると[[尚書]]令とされた。 [[建安 (漢)|建安]]元年([[196年]])、献帝は[[曹操]]に迎えられ[[許昌|許]]に都を移した。この時、献帝の側近集団は[[董承]]以下楊彪も含め、曹操の献帝擁立及び許への遷都を望んでいなかったこともあって、曹操は楊彪を警戒していた。さらに曹操が天子に拝礼した際、楊彪が色を作したので、曹操は暗殺されるのではないかと恐れた。やがて曹操は、袁術と姻戚関係にあったことを理由に楊彪を処刑しようとした。しかし[[孔融]]らが弁護したため、許された。 [[王沈]]の『魏書』によると、[[袁紹]]が楊彪や孔融を処刑するよう命令したこともあったといわれる。ただし、『[[陳琳]]集』の檄文にあるように、それ以前に楊彪は曹操に嫌われていた。 建安4年([[199年]])、太常として復帰したが、建安10年([[205年]])に辞職。建安11年([[206年]])には曹操の命令により恩沢侯が廃止されたため、父の代に得た爵位を失った。 楊彪は後漢の命運が尽きたと判断し、足が曲がらなくなったという理由で二度と参内しなくなった。 息子の[[楊脩]]は曹操に仕えていたが、あるとき曹操の不興を買って処刑された。その後、曹操は楊彪に面会を求め、楊彪が痩せてしまった理由を尋ねたところ、楊彪は「[[金日テイ|金日磾]]の明が自分にはなかった」と心境を説明した<ref>「子脩為曹操所殺、操見彪問曰、公何痩之甚、対曰、愧無日先見之明猶懐老牛舐犢之愛」([[後漢書]]楊彪伝)<br/> なお、この箇所から「'''先見之明'''(先見の明)」「'''舐犢之愛'''」の成句が生まれた。</ref>。曹操はこれを聞いて思わず態度を改めたという。 [[曹丕]](文帝)が[[禅譲]]により[[魏 (三国)|魏]]の皇帝として即位すると、楊彪を召し出して太尉に任命しようとしたが、楊彪はかつて三公を務めた時に、世の乱れを正せなかったことを理由にこれを断った。「徳高き老人」として表彰された上で光禄大夫に任命され、さらに几杖を与えられるなど特権待遇を与えられた。 225年、84歳という高齢で死去した。 ==脚注== <references /> {{DEFAULTSORT:よう ひよう}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:漢代の人物]] [[Category:弘農楊氏|ひよう]] [[Category:渭南出身の人物]] [[Category:142年生]] [[Category:225年没]]
楊彪
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