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[[ファイル:YangXiu.jpg|thumb|right|楊修]] '''楊 修'''(よう しゅう、[[175年]]<ref name="徳間書店349">中国『三国志全人名事典』、P349</ref> - [[219年]])は、[[中国]][[後漢]]末期の政治家。[[字]]は'''徳祖'''。「'''楊脩'''」とも表記される。[[司隷]][[弘農郡]][[華陰県]]([[陝西省]][[華陰市]])の人。曾祖父は[[楊震]]。祖父は[[楊賜]]。父は[[楊彪]]。子は楊囂。孫は楊準。母は[[袁術]]の妹。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏 (三国)|魏]]志「[[曹植]]伝」、およびその注に引く『典略』などに記録がある。 名門の子弟として生まれ、[[曹操]]に仕えその才能を愛されたが、曹氏の後継者争いで曹植に味方したため、その才能を警戒され殺害された。 == 出自 == 弘農楊氏は後漢の「四世太尉」の名門である。先祖は[[前漢]]初期の赤泉侯楊喜や[[昭帝 (漢)|昭帝]]時の[[丞相]]であった安平侯[[楊敞]]([[司馬遷]]の娘婿)であると伝わっているが(『後漢書』「楊震伝」)、信憑性には疑義も呈されている。 == 生涯 == 謙虚で広い才能の持ち主であり、[[建安 (漢)|建安]]年間に[[孝廉]]へ推挙された。郎中に取り立てられ、曹操の要請で倉曹属主簿を務めることとなった<ref group="注釈">『世語』によると、名族の子弟で才能を持っていたため、20歳で曹操に取り立てられたという。</ref>。当時の丞相府は内政・軍事の課題が累積していたが、楊修はその激務をよくこなし曹操に気に入られた<ref group="注釈">『世語』によると[[王凌]]・[[賈逵 (魏)|賈逵]]らと同僚であったという。</ref>。また[[曹丕]]以下、楊修と親交を結ぼうとする者も多かった。楊修は特に曹植と深く親交を結び、よく手紙をやり取りした<ref group="注釈">『典略』には、劉季緒([[劉表]]の子劉修のこと)の文学批評を曹植と共に批判した内容の手紙が残っている。</ref>。 [[益州]]の[[劉璋]]が曹操の元へ[[張松]]を遣わしたところ、曹操はあまり礼遇しなかった。楊修は張松の人物を高く評価し、曹操に張松を召し抱えるよう言上したが、承知されなかった。楊修が曹操の編纂した兵書を張松に見せたところ、張松は宴会の間に通覧して、すぐに暗誦した。そのため楊修はさらに彼を特別視した<ref group="注釈">『益部耆旧雑記』</ref>。 建安24年(219年)、曹操は[[漢中]]に遠征したが、[[劉備]]との間で持久戦が続いた。このときに曹操が言った「[[鶏肋]]」という言葉に対し、「鶏肋(鶏の[[肋骨|あばら骨]])は捨てるには惜しいが、食べても腹の足しになるほど肉がついてない」、即ち「惜しいが今が撤退の潮時」という意味であるとただ1人読み解き、撤退の準備を命じたという<ref group="注釈">『三国志』魏志「武帝紀」が引く『九州春秋』</ref>。果たして同年夏5月に曹操は撤退した。 その後、まもなく曹操によって処刑された。建安24年秋のことであった。享年45。 殺害の理由は、楊修が曹植に対し、「答教」という教科書を用いて曹操の意向を予め教えたり、妄りに諸侯(曹植)と連絡を取り合ったためだという。 楊修は[[丁儀]]兄弟と共に羽翼となって、曹植を助けたともされている<ref group="注釈">『世語』によると、曹丕と[[呉質]]が宮中で密談していることを察し、曹操にそのことを密告したが、曹操にはすぐに取り上げてもらえなかった。曹丕と呉質がそれを逆手にとって計略を用いた結果、楊修は曹操に疑惑を持たれるようになったという。</ref>。曹操は曹植への寵愛が薄れると、後顧の憂いを経つため楊修に罪を被せて、処刑する機会を窺っていたという。また、楊修も曹植との関係で自らの身に危険が及ぶことを察していたが、曹植との交際を積極的に断つことはしなかったという。 楊修の処刑については、母親が袁術と縁続きであったことを曹操が考慮したともされており、明確な理由は分かっていない。 曹操は既に引退していた父の楊彪に、自ら楊修の死を知らせて反応を見ようとした。楊彪は目に見えて憔悴した様子であったが、それでも堂々としていたため、曹操の方がかえって尻込みしたという<ref group="注釈">『後漢書』「楊震伝附楊彪伝」</ref>。 楊修の死後、数100余日して曹操は死去した。[[禅譲]]により魏を興した曹丕(文帝)はかつて楊修から献上された剣を持っており、楊修の自分に対する冷淡な態度を思い起こすことがあったという。 == 子孫 == 子と孫は[[西晋]]に仕えて高官に上った。楊修の直系子孫は[[東晋]]の末期まで続いたが、[[安帝 (東晋)|安帝]]の時代である[[義熙]]4年([[408年]])に楊思平(楊準の曾孫、楊佺期の弟)が処刑された<ref group="注釈">『[[晋書]]』「帝紀第十」</ref>以降は不明である。 == 評価 == [[禰衡]]から、「[[許昌]]には、[[孔融]]と楊修しか人材がいない」と評されたことがある<ref group="注釈">『三国志』魏志「[[荀イク|荀彧]]伝」が引く『平原禰衡伝』</ref>。 == 演義の楊修 == 小説『[[三国志演義]]』では、禰衡の登場場面で名前のみが挙がり、しばらくして益州より訪れた張松の接待役として登場する。張松と接触する内にその才を認め、曹操に面会を申し入れるが、逆に曹操の逆鱗に触れた張松が百叩きの罰を与えられ、楊修の前から去ってしまうことになる。 その後、劉備軍との漢中攻防戦において、鶏湯(鶏のスープ)を食べていた曹操が「鶏肋」とつぶやく。楊修はこれを伝え聞き、曹操が撤退の意思決定をしたと解釈し、その準備を進めることになる。しかし曹操は、それを勝手な行動であるとして憤り、楊修を処刑してしまうのである。曹操は「鶏肋」という言葉が、軍を退くという意味ではないことを示すために劉備軍へ攻めかかったが、劣勢の上、長征で疲労気味の兵では劉備軍に敵う筈もなく結局は惨敗、曹操自身も矢で前歯を折られ命からがら逃げ返ることになる。そのため曹操は「楊修の言う通りに軍を退いていれば、損害を最小限に食い止められていたかもしれない」と思い、撤退を決断している。また撤退後、曹操は楊修の遺体を手厚く葬るように指示している。 == 脚注 == === 注釈 === <references group="注釈"/> === 引用元 === <references/> == 参考文献 == * 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』([[徳間書店]], [[1994年]][[11月]]) *『三国志』 *『後漢書』 *『晋書』 *『三国志演義』 {{DEFAULTSORT:よう しゆう}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:弘農楊氏|しゆう]] [[Category:渭南出身の人物]] [[Category:175年生]] [[Category:219年没]]
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