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植民地
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'''植民地'''(しょくみんち、殖民地とも)とは、国外に移住者が移り住み、本国政府の支配下にある領土のこと。古くは[[フェニキア]]や[[古代ギリシア]]にも見られるが多くは植民元との関係は維持しつつ独立した体制となっており、[[侵略]]によって獲得した海外領土の類型は[[古代ローマ]]に見られる。近年はヴェネチアなどが行った東地中海における植民地経営をそれ以降の植民地支配と連続した流れと考える向きもあるが、以下では[[16世紀]]に始まるいわゆる「[[大航海時代]]」以降ヨーロッパ各国が[[侵略]]によって獲得した海外領土を主として扱う。近現代においては、本国政府の憲法や諸法令が原則として施行されず、本国と異なる法的地位にあり、本国に従属する領土を植民地という。 <!--[[ファイル:植民地主義国.PNG|thumb|right|400px|'''主な植民地''' 図は本国も含む。特定の時代の植民地を示したものではなく、18世紀末から20世紀末に至る約200年間をまとめたものである。例えば[[アメリカ]]が[[イギリス]]から独立したのは[[1776年]]であり、仏領ルイジアナをフランスからアメリカが購入したのは[[1803年]]である。[[アルゼンチン]]や[[パラグアイ]]は1810年代にスペインから独立している。一方、多くのアフリカ諸国は[[1960年]]に至るまで植民地として残っていた。[[西サハラ]]からは1975年にスペインが撤退しているが、2004年現在も独立できていない。[[グリーンランド]]も2004年現在、[[デンマーク]]の自治領である。[[カメルーン]]や[[ナミビア]]など、200年間に宗主国が変化した地域については、ほとんどの場合、最初の宗主国を示した。]]--> == 総論 == === 語源 === colonyの語幹col-はラテン語colereに由来し「耕す」意。cult-も同意でculturで「耕作」「教養」。日本での植民・[[移民]]の研究は明治中後期の頃であり1898年(明治31年)には[[木村亮吉]]により『於東洋英国植民政策』(ヂヨゼフ・ジヱレイベール著)が翻訳出版されている。但し西欧列強による有色人種の奴隷化については古くから知られており、豊臣秀吉の時代にすでにポルトガル人による奴隷売買が知られており[[バテレン追放令]]の原因のひとつに挙げられることがある。幕末においてもアヘン戦争敗北による中国人の奴隷化が知られていた。明治政府は開国以来、外国人の関係する「人権問題」に否応なく巻き込まれるようになった<ref>この例として、維新前年1867年にハワイ国総領事を名乗る男が幕府の免状を得、明治元年に日本人を移民させたことをめぐる問題(ハワイ日本人出稼人召還事件)、あるいは「苦力貿易(coolie trade)」と呼ばれる人身売買ケースにまつわる外国公使からの各種通報、明治5年の[[マリア・ルス号事件]]などがある。「明治新政府と「人権問題」」[[山本忠士]](日本大学大学院総合社会情報研究科紀要No.5,112-123(2004))[http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf05/5-112-123-yamamoto.pdf]</ref>。 === 概要 === [[古代の植民都市|古代にも植民地はある]]<ref>古代中国の朝鮮半島における[[楽浪郡]]等[[漢四郡]](それ以前の[[箕子朝鮮]]、[[衛氏朝鮮]]を含めても考えることができる)の設置、[[ベトナム]]における[[日南郡]]、[[交趾郡]]など南越九郡の設置も一種の植民活動である。</ref>が、「植民地」の規模をそれまでにないほど大きくしたのは近代西欧諸国の[[産業資本主義]]の資源収奪要請によってである。初期にはポルトガル・スペイン・フランス王国やオランダが、19世紀から20世紀にかけては英国が、植民地交易によって多大な利益を上げた。沼沢地や無寥地を干拓・開拓し耕作地に変えるために住民を募集し開拓することは本来の意味での植民あるいは移民であり、現代の通例ではこのような観点から植民地が話題になることは少ない。焦点となるのは従来の土地占有者(原住民)への迫害や土地簒奪、先住民の奴隷化や略奪的経営、それにともなう暴力行為や財産権の侵害行為である。あるいは現代的な観点による民族自決における[[名誉]]の観点である。 一般に[[帝国主義]]的[[先進国]]が植民地を原料工場・[[市場]]として経営するとともに、住民を政治・文化・言語的に抑圧支配する。植民地を獲得する過程では、ほとんどのケースで在来住民との軍事的な衝突が起こり、その全殺戮にいたることもある。[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化]]や[[イギリスによるアメリカ大陸の植民地化]]の過程ではしばしば現地住民が激減し、フランスもカリブ海西インド諸島の[[マルティニーク島]]の原住民を[[1658年]]に殲滅し、純粋な島民は絶滅した<ref>[[エメ・セゼール]]『帰郷ノート・植民地主義論』平凡社</ref>。南太平洋の島嶼部では労働者として現地住民を雇用しても成功しないというのが定説であった。白人と接触以降に現地人人口が激減することも多く(ハワイやフィジー、サモアなど)、他の領土から労働者を移住させざるをえない状況がしばしば発生した<ref>「カテゴリー化の困難-サモア植民地統治における混血の役割」山本真鳥(比較経済研究所小規模プロジェクト「植民地主義の再検討」2001年第3回研究会11月8日 法政大学学術機関リポジトリ)[]PDF-P.4</ref>。 現地住民との混血や本国国籍人の現地での浮浪化などは、しばしば民政や法的な問題を発生させた。[[アヘン]]や[[覚醒剤]]ビジネスは植民地経済に根付くことが多かった。 平和的プロセスによって植民地が獲得される場合もあるが、いずれにせよなんらかの形で獲得したあとは、その植民地を統治・経営([[植民地経営]])することになる。その過程を植民地化という。 1804年、[[フランス革命]]に触発された[[ハイチ]]が非白人国家としては近代史上はじめて独立して以来、旧植民地諸国は現在にいたるまで数多く独立していった。ただし先進国が独立を認めた背景には、世界経済システムの変容があるといわれる<ref>[[エリック・ウィリアムズ]]や[[ジョン・ケネス・ガルブレイス]]の見解。また[[世界システム論]]・[[世界経済]]の項目を参照。</ref>。こうした一連の過程を[[脱植民地化]]という。 <!--=== 植民地化の要因 === 植民地化の動機・要因には、主に以下のようなものがある。 * [[天然資源]]や[[労働力]]([[奴隷]])、[[市場]]の確保 * 本国に隣接した地域への[[領土]]拡大 * 本国民を[[移民|移住]]させるための[[開拓地]]獲得 * 本国や既得植民地、海上交通路の[[防衛]]のための[[要塞]]や[[緩衝地]]確保 * 他国の植民地とされる前に勢力圏として確保 * [[宗教]]的使命による[[布教]]地拡大--><!--独自研究?--> === 統治形態 === 植民地の統治形態には、以下のものがある。 #[[領事裁判権]]や[[租借地]]・[[租界]]設定条約による[[治外法権]]の確立。 # [[外交権]]や[[駐軍権]]のみを獲得し内政は[[先住民]]による[[統治]]に任せて原則として干渉しない[[保護領]]。 # 現地の[[王侯]]や[[部族長]]を通じて支配する[[間接統治]]。 # 本国から[[総督]]や[[民政長官]]、[[軍政長官]]などを派遣して支配する[[直接統治]]。 # 本国が[[外交]]と[[防衛]]のみを担当し内政は現地住民によって民選された政府・議会に委ねる[[自治植民地]]。ただし「自治」とはいっても、[[参政権]]は本国出身者に限定されたり、先住民の参加を認めても[[公用語]](本国の言語)習得や一定額以上の納税などの条件を付けて、事実上の参政権が著しく制限されることが多い。 #自国領への併合(この場合も従来の現地住民について、市民権や国籍上の地位に区別が設定されたり、併合領土での立法・行政権など統治形態が異なることがある) 一般的に植民地統治が継続する中で1.あるいは2.から4.までの変遷をたどるケースが多いが、植民地が本国に隣接している場合、最終的に本国領土の一部として編入され、その過程で先住民も[[同化]]が進み、固有の言語や文化、民族意識を失っていく傾向にある。 植民地における主権は領有国が有するが、特殊な形態として[[保護国]]、[[租借地]]や[[租界]]、複数国による共同統治領、国連の[[委任統治領]]や[[信託統治領]]などがある。 ===土地政策=== 主権のある未文明国に関しては共有、行政占領、租借、割譲という概念で領土獲得を行い、そうでない場合はもっとも露骨な領土獲得の根拠として「[[無主物先占]]」の法理が利用された<ref>「植民地法制の形成-序説-」石村修(専修大学法科大学院 第6回東アジア法哲学会シンポジウム)PDF-P.3</ref>。 === 差別・分離政策 === 帝国主義の時代、植民地では本国とは異なった法律が施行、あるいは便宜の規定のみが施行され、先住民には国籍や市民権が与えられなかったり、国籍を与えても「属領籍」「外地籍」「海外籍」のように本国人とは異なる法的身分に編入され、権利義務について不平等な取扱がなされた([[イギリス#国民|イギリス国民]]や本項の[[#日本の植民地|日本の植民地]]を参照)。[[ファイル:Colonization 1945.png|right|250px|thumb|1945年時点の植民地]][[ファイル:Colonisation2.gif|right|250px|thumb|日清戦争が始まる以前、1885年時点の植民地]] ===植民地出身者の処遇=== ただし、植民地人が本国人と同様の公職がつくことが必ずしも不可能であったわけではなく、官公庁や軍において高官に登用され、あるいは本国議会に選出される例もあった。このような傾向は、同化主義を建前とする日本やフランスの植民地に特に強かった。イギリスとアメリカの海外領土の住民には現在も本国の公職(大統領、国会議員)選挙への投票が認められていない。海外領土出身であっても本国に移住すれば可能である。これに対しフランスの[[海外県]]の住民はフランス内地の県の住民と同様に公職選挙への参加が可能である。これは、自治主義、分離主義と同化主義、内地延長主義という植民地統治思想の違いのなごりと見ることができる。 *フランスでは1789年から、植民地から本国の国民議会に議員を選出することが認められた。<ref>[http://wwwsoc.nii.ac.jp/ssmh/information/document/426matsuda.pdf]</ref>。 *[[w:fr:Félix Éboué|フェリックス・エブエ]]は[[フランス領ギアナ]]で黒人奴隷の子として生まれたが、いくつかの植民地の長官を経て1941年に[[フランス領赤道アフリカ]]の総督に任命された。 *後に[[コートディヴォワール]]の初代大統領となる[[フェリックス・ウフェボワニ]]は[[ドゴール|ドゴール政権]]下でフランス公共保健・人口相([[厚相]]に相当)に任命された。 *[[w:en:Dadabhai Naoroji|ダダバイ・ナオロージー]]を始めとする数名のイギリス領インド出身者がイギリス下院議員に選出されている。 *後に日本軍占領下で建国された[[ビルマ国]]の国家元首となる[[バー・モウ]]は、1937年にイギリス領ビルマ植民地政府の初代首相に選出された。 * [[イギリス領インド]]植民地政府の高級幹部職員である[[インド高等文官]](ICS)の採用試験は、19世紀後半にインド人にも開放された。結果、[[印パ分離独立|インド独立]]時にはインド人ICSが全体の過半を占めるにいたった。 *[[w:en:Muhammed Akbar Khan|ムハンマド・アクバル・カーン]]はイギリス領南アジア出身のムスリムとして、はじめて[[イギリス領インド軍]]の将官に進級した。 *[[w:Abdur Rahim (judge)|アブドゥル・ラヒーム]]は1908年にマドラス高等裁判所の裁判官に任命され後に同裁判所長官となった。 * フィリピンは1937年にアメリカ合衆国に直接統治される植民地から、独立を視野に入れた自治植民地(コモンウェルス)に移行し、独立準備政府の初代大統領として[[マニュエル・ケソン]]が国民投票によって選出された。 *日本統治下の朝鮮における道知事の概ね半数程度は朝鮮人であった。 *衆議院議員として朝鮮人の[[朴春琴]]が選出されたほか13名の植民地出身者が貴族院議員に任命された。 *[[洪思翊]]をはじめとする朝鮮人の陸軍士官らが将官に進級した。 === 立法 === 立法権は本国政府が任命した総督等の行政長官が掌握することが多かった。多くの場合、植民地の議会は設置されても[[諮問機関]]にとどまり、立法権が与えられたとしても、総督等の拒否権が伴うのが通例であった。また、本国の法令は原則的には植民地には及ばないこととされていることが多く、植民地に本国法を適用するためには、植民地政府が別途その旨の法令を制定する必要があった。 === 行政 === 行政職員にどの程度現地人を採用するかは植民地によって異なるが、官庁窓口の係員、下級警察官、教員など現地人と直に接する業務には現地人が配されることが多かった。これは現地語の理解や人員の確保などさまざまな要因があったと考えられるが、結果として現地人の敵意が宗主国に直接向くのを避ける効果が期待された。また、植民地人同士の対立を煽ることによって統治を円滑にすすめるため、宗主国に融和的な民族や部族の出身者を優先的に公務員に採用することも行われていた。 === 司法 === 多くの植民地では、政治的な理由などから、本国人と現地人に別個の法体系が適用されていた。 === 植民地主義 === {{See |植民地主義|脱植民地化}} === 現存する植民地 === 現代においても事実上の植民地を保有する国は多いが、[[第二次世界大戦]]以降は各地の植民地で独立運動が盛んになったり、[[国連総会]]における[[植民地独立付与宣言]]の決議で、植民地という存在そのものが国際的に否定されたことから、客観的に見て植民地と言いうる実態を有している地域であっても、先住民に本国民と対等の権利を与えて[[海外領土・自治領の一覧|海外領土や自治領]]などという言い換えをすることが多い。現在でも領有国が公に植民地としている地域に[[ケイマン諸島]]などがある{{要出典|date=2013年6月}}。 逆に、客観的に見て植民地と言い難い地域であっても、住民が領有国の統治に不満を持っている場合、領有国を攻撃するための政治的スローガンとして使われることもある。例えばフランス領[[コルシカ島]]の分離主義者は同島がフランスの植民地であると主張している。旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]住民の中には、西ドイツの植民地支配を受けていると主張する人もいる{{要出典|date=2008年5月}}。 === 類推 === 少数民族の居住地域で、独立運動や市民的自由の抑圧、資源の収奪等の過酷な統治が行われているが、従来の植民地の定義は満たさない地域を、過去の歴史上の植民地との類推から「植民地」と呼ぶこともある。[[ソ連]]・[[ロシア]]のアジア地域や[[中国]]の[[チベット自治区]]・[[新疆ウイグル自治区]]などはこのような文脈で植民地と言われることがある。このような地域を講学上[[内国植民地]]と呼ぶことがある。明治時代における日本の[[沖縄県|沖縄]]や[[北海道]]も講学上の内国植民地に相当する(ただし、明治期沖縄における税制や制度上の差別に関しては、[[琉球処分]]に抵抗した地元の琉球士族の既得権益に配慮したためである([[旧慣温存政策|旧慣温存策]]))。 === 事実上の植民地 === 形式的には独立国として取り扱われていても、政軍両面で外国の圧倒的な影響下に置かれている国家は植民地あるいは植民地同然と形容されることが多い。日本にとっての旧[[満州国]]や旧ソ連の[[衛星国]]などがこの典型である。 === 植民地支配に対する評価 === かつては法的にも道義的にも問題ないとするのが常識であったが、現代においては1960年に[[国連総会]]で決議された[[植民地独立付与宣言]]などに見られるように、植民地支配は被害、搾取の時代として否定されるのが世界的傾向である。 旧宗主国側では、近代化という恩恵を後進地域にもたらした善行であるという評価がなされる場合もある。一方で、「部外者による発展」より「民族の独立」そのものに重きを置く価値観から、こうした「恩恵説」に対する反発も存在する。また、植民地支配の便宜を図るための共同体の解体や文化の破壊、言語の空白化を重視する思潮もある([[ポストコロニアル理論|ポストコロニアリズム]]参照)。 == 各論 == === ヨーロッパ諸国 === [[マルコ・ポーロ]]の『東方見聞録』、[[羅針盤]]の伝播、[[香辛料]]への渇望によりヨーロッパ諸国の東洋に対する関心が高まった。[[1477年]]には、[[クリストファー・コロンブス]]が[[大西洋]]の先の知識を求め、[[アイスランド]]へ赴いた。 ==== スペインとポルトガル ==== [[ファイル:Portugal Império total.png|right|250px|thumb|ポルトガルが領有したことのある地域 - 1410-1999]] [[ファイル:Spanish Empire-World Map.png|right|250px|thumb|スペインが領有したことのある地域]] {{See also|ポルトガル海上帝国|ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化|スペイン帝国|スペインによるアメリカ大陸の植民地化}} [[ポルトガル]]と[[スペイン]]は[[イベリア半島]]におけるイスラム勢力に対する国土回復運動である[[レコンキスタ]]を達成した後、[[大航海時代]]の先頭を切って海外に進出した。スペインはコロンブスの[[新大陸]]発見後、[[中央アメリカ|中米]]の[[メキシコ]]、[[南アメリカ|南米]]の[[ペルー]]を中心とする大領土を獲得し、さらに[[太平洋]]を横断して[[フィリピン]]諸島の[[領有]]にも成功した。 ポルトガルとスペインの領域を分けたのは、[[1494年]]に[[ローマ教皇]][[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンドル6世]]が定めた[[トルデシリャス条約]]である。大西洋上に西経46度の[[子午線]]を引き、東をポルトガル、西をスペインの領土とした。このため[[南米大陸]]では、[[ブラジル]]のみがポルトガル領となった。[[1529年]]の[[サラゴサ条約]]では現在のインドネシアにあたる[[モルッカ諸島]]の東297.5リーグ(ニューギニア島中央部に相当する東経144度30分)を境に、東がスペイン、西がポルトガルの領土とされた。この2つの条約の結果、世界はポルトガルとスペインによって分割された。 ポルトガルは[[1418年]]から[[エンリケ航海王子]]の下でアフリカ西海岸の探検を続けていたが、[[1488年]]に[[喜望峰]]を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざして[[インド洋]]に進出した。[[1500年]]には[[ペドロ・アルヴァレス・カブラル|カブラル]]が[[ブラジル]]を発見。[[1511年]]の[[マラッカ]]の領有後は[[マカオ]]、[[長崎県|長崎]]にまで貿易圏を広げ、一時は[[日本]]の[[キリスト教]]布教にも成功した。しかしながら、[[1580年]]に[[アヴィス王朝|アヴィス家]]が断絶するとスペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]がポルトガル王となり、事実上スペインの支配下に置かれた。[[17世紀]]に入り、[[1640年]]には独立を回復するも([[ポルトガル王政復古戦争]])、アジアで新しく参入した[[オランダ]]や[[イギリス]]との競合に破れると、南米[[ブラジル]]の植民に注力する。その後、ナポレオン戦争に際して{{仮リンク|ブラジル植民地|en|Colonial Brazil}}は[[ブラジル帝国]]として植民地から離脱、さらに、[[第二次世界大戦]]後、ポルトガルはインドの[[ゴア州|ゴア]]にあった植民地からインドの独立後に撤退し、アフリカの[[アンゴラ]]や[[モザンビーク]]などの植民地も[[1970年代]]に独立した。[[1997年]]には[[マカオ]]を[[中華人民共和国]]に返還している。 スペインは[[1521年]]の[[エルナン・コルテス|コルテス]]による[[アステカ|アステカ帝国]]征服、[[1533年]]の[[フランシスコ・ピサロ|ピサロ]]による[[インカ帝国]]征服により、16世紀から19世紀初頭に至るまで北米南西部からブラジルを除く南米全体に及ぶ大植民地を維持したが(上記のとおり、1580年から1640年にかけては、ポルトガル及びその植民地すらスペイン王の支配下にあった)、[[イギリス帝国]]の勃興や王朝交代によりその支配力は弱体化した。[[1810年]]に至り現地生まれの[[クリオーリョ]]は、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]のスペイン侵攻に乗じて、植民地当局に対して独立を試み、その後15年にわたる攻防により独立を勝ち取る。この結果、スペインが南北アメリカ大陸に維持できた植民地は[[カリブ海]]の[[キューバ]]と[[プエルトリコ]]だけとなった。さらに、スペインは[[1898年]]の[[米西戦争]]でキューバとフィリピンを失う。[[1975年]]にはアフリカに残っていた[[西サハラ]]からも撤退した。現在、アフリカ大陸に[[セウタ]]及び[[メリャリャ]]を有しているが、自治権や国政参加権は本土と対等であり、スペイン政府は、植民地ではなく[[飛地|飛地領]]と位置づけている。 [[ファイル:British Empire 1921.png|right|250px|thumb|1921年時点のイギリスの植民地]] ==== イギリス ==== {{See also|イギリス帝国|イギリスの海外領土}} [[イギリス]]の最初の植民地は、[[イングランド]]が中世以来入植を繰り返してきた[[アイルランド]]といえるだろう。その後[[大航海時代]]の波に乗って[[北アメリカ大陸]]を征服、[[ニューイングランド]]植民地が成立、さらに当初は交易を目的として東洋に渡った[[イギリス東インド会社|東インド会社]]は[[インド]]の諸勢力を巧みに操って[[インド]]を征服。[[七年戦争]]では[[フランス]]と争い、[[カナダ]]を獲得、インドからフランス勢力をほとんど駆逐した。 [[19世紀]]始めの[[ナポレオン戦争]]に勝利したイギリスは世界の海の[[覇権]]を握り[[大英帝国]]を建設することとなり、[[東南アジア]]の[[ミャンマー|ビルマ]]と[[海峡植民地]](後の[[マレーシア]])、[[中国]]の[[香港]]、流刑植民地として出発した[[オーストラリア]]と[[ニュージーランド]]、[[アフリカ]]では[[ナイジェリア]]、[[南アフリカ]]、[[南アメリカ]]大陸の[[フォークランド諸島]]などを植民地とした。イギリスはまたスペイン・ポルトガルから独立後の[[南アメリカ|南米]]諸国や[[オスマン帝国]]から独立した[[中近東]]諸国にも大きな影響力を持っていたが、これらの植民地は[[第二次世界大戦]]後民族独立の波に乗って次々に独立していった。また[[1997年]]には[[香港]]を[[中華人民共和国]]に返還している。 ただし、現在でも[[ケイマン諸島]]、[[イギリス領ヴァージン諸島|ヴァージン諸島]]、[[バミューダ諸島]]などの[[カリブ海]]や[[大西洋]]の島々、[[フォークランド諸島]]、[[ジブラルタル]]などを[[イギリスの海外領土|海外領土]]として保有している。 ==== フランス ==== [[ファイル:131Etendue de l'Empire Français.png|300px|thumb|フランスの植民地帝国。第1次(緑)と第2次(紺)]] <!-- [[ファイル:Moorea baie cook.JPG|thumb|200px|right|仏領ポリネシアのムーレア島]] --><!-- 植民地となった地域は非常に多いため、この記事では個々の土地の写真はふさわしくないと考えます --> {{See also|フランス植民地帝国|フランスの地方行政区画}} [[フランス]]は当初、[[カナダ]]の[[ケベック]]と[[カリブ海]]の[[マルティニーク]]島、[[グアドループ]]島に入植したが、七年戦争でイギリスに敗れ、カナダを放棄した。[[西アフリカ]]の[[セネガル]]も古くからのフランス植民地であった。19世紀になってイスラム圏である[[アルジェリア]]と東洋の[[仏領インドシナ]]、南太平洋の仏領[[ポリネシア]]の[[タヒチ]]や[[ニューカレドニア]]などの植民地化に成功した。これらの植民地も第二次世界大戦後民族独立の波に乗って次々に独立していった。なお[[タヒチ]]では、1990年代フランス政府の核実験に反発した地元住民を中心とした解放機構が、植民地支配からの独立を訴えたが、大統領の[[ジャック・シラク]]は「タヒチはフランスの一部である」と言明し核実験を実行、現在も独立闘争が続いている。 ==== オランダ ==== {{See also|オランダ海上帝国}} [[ファイル:NetherlandsEmpire.png|right|250px|thumb|オランダの植民地(17世紀から20世紀までを重ね合わせたもの)]][[オランダ]]も[[17世紀]]から[[18世紀]]にかけて帝国主義的な植民地大国として[[オランダ海上帝国]]と呼ばれる。特に17世紀前半はオランダの[[黄金時代]]であった。[[20世紀]]に入っても東インド植民地([[蘭印]]、[[インドネシア]])や南アメリカの植民地([[スリナム]])を支配していた。しかし度重なる[[英蘭戦争]]で[[北アメリカ|北米]]の植民地を奪われ、更に[[南アフリカ]]の植民地も[[超大国]]に成長した[[イギリス帝国]]に敗れ失うなど、[[列強]]としてのオランダの国際的地位は凋落して行った。 20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われたが、現在でも[[カリブ海]]に[[キュラソー島|キュラソー]]、[[アルバ]]の二つの海外領土を持っている。 ==== ロシア(ソビエト社会主義共和国連邦) ==== [[ファイル:The Russian Empire-en.svg|right|250px|thumb|ロシアの植民地及び影響下にあった地域]] [[ロシア帝国]]は[[16世紀]]、[[モスクワ大公国]]が[[ジョチ・ウルス|キプチャク汗国]]から自立し、周囲の[[スラヴ人]]の国々を飲み込んでその領土を広げた。[[16世紀]]にロシア平原を統一して[[ロシア帝国]]を成立させると、東へと征服をすすめ、[[18世紀]]頃までには[[シベリア]]をほぼ征服した。シベリアの遊牧民を支配下に組み込み勢力を広げた。シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、[[中央アジア]]の多くの汗国を侵略、植民地化した。さらにシベリアの南に広がる[[清]]とぶつかり、[[ネルチンスク条約]]や[[キャフタ条約 (1727年)|キャフタ条約]]によって国境を定めたが、[[19世紀]]に清が弱体化すると、[[アヘン戦争]]や[[アロー号事件]]に乗じ、[[満州]]の[[アムール川]]以北と[[沿海州]]([[外満州]])を次々に併合、植民地化した。 東方の併合が一段落すると、続いて中央アジアを武力併合、[[バルカン半島]]へ進出し、[[オスマン帝国]]と幾度も衝突した([[南下政策]]、[[汎スラヴ主義]])。領土拡張主義は[[日露戦争]]や[[第一次世界大戦]]によって[[日本]]、[[ドイツ]]などとぶつかり合ったが、第一次大戦中[[共産主義]]者による[[ロシア革命]]が起こってロシア帝国は滅んだ。拡大した領土はそのまま[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]]に引き継がれ、[[中央アジア]]、南[[カフカス|コーカサス]]、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となった。1941年には[[バルト三国]]を、併合した。また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた[[社会主義国]]も、名目上独立国であるが、[[衛星国]]と呼ばれ、植民地的な側面も見られる。[[冷戦]]終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国をのぞく旧ソ連構成国は[[独立国家共同体|CIS]](独立国家共同体)を結成して独立し、[[ロシア|ロシア連邦]]内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われている。また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになった。 ==== その他のヨーロッパ諸国 ==== [[ファイル:Deutsche Kolonien.PNG|right|250px|thumb|青:ドイツの海外領土<br/>赤:プロイセン時代の海外領土]] [[ファイル:Italian empire 1940.PNG|right|250px|thumb|イタリアの植民地]] [[ファイル:Belgian colonial empire.png|right|250px|thumb|ベルギーの植民地]] * [[ドイツ帝国]]はタンガニーカ(現[[タンザニア]])や[[トーゴ]]、南西アフリカ(現[[ナミビア]])等のアフリカ植民地や[[南洋諸島]]を持っていたが[[第一次世界大戦]]敗北により喪失した([[ドイツ植民地帝国]])。 * [[イタリア]]は[[イタリア領ソマリランド]]・[[リビア]]、さらに短期間のみ[[エチオピア]](ソマリアと[[エリトリア]]を含む[[イタリア領東アフリカ]])を保持したが、[[第二次世界大戦]]の最中にエチオピアを失った。リビアは1951年に[[リビア王国]]として独立、ソマリランドはイタリアによる[[信託統治]]を経て、[[ソマリア]]として独立した。 * [[ベルギー]]国王[[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド2世]]は、ベルリン会議の決議として[[コンゴ]]の一部(現在の[[コンゴ民主共和国]]の領域)を私領である[[コンゴ自由国]]として保持していた。しかしこの体制による圧政が国際社会から強い非難を受け、1908年にベルギー政府の植民地([[ベルギー領コンゴ]])に移行した。1960年に[[コンゴ共和国]]として独立。コンゴの東に隣接する[[ルアンダ=ウルンディ]]([[ルワンダ]]と[[ブルンジ]]として独立)は[[ヴェルサイユ条約]]によってドイツから委任統治領として獲得した植民地である。 * [[デンマーク]]は北極周辺に植民地を保有し、[[グリーンランド]]、[[フェロー諸島]]を領有していたが、現在は両国とも[[自治領]]となっている。[[アイスランド]]もかつてはデンマーク領であった。大航海時代には、[[デンマーク海上帝国]]として、[[デンマーク領西インド諸島]]、アフリカの[[ゴールド・コースト|黄金海岸]]の一部、[[インド]]の[[ベンガル湾]]岸の諸都市、[[ニコバル諸島]]に植民地を保有していた。後に西インド諸島は第一次世界大戦中に[[アメリカ合衆国]]へ、黄金海岸、ベンガル湾岸の諸都市及びニコバル諸島は19世紀半ばに[[イギリス]]へ売却された。植民としてよりも[[海運業]]が盛んだった。 * [[スウェーデン]]は[[1638年]]に新大陸に[[ニュースウェーデン]](現在の[[デラウェア州]])に植民。後、オランダに奪われる。[[1650年]]には黄金海岸にも進出したが、デンマーク、イングランドに奪われて海上帝国を形成出来なかった。植民よりも[[貿易]]に力を入れていた。ただしスウェーデンの植民地の先駆けは、[[中世]]以来の[[フィンランド]]だとも言える([[バルト帝国]])。[[近代]]は[[ロシア帝国]]に支配されたが、現在でもフィンランド社会にスウェーデンの影響力は深く浸透している。[[1784年]]には、[[フランス王国|フランス]]から[[西インド諸島]]の[[サン・バルテルミー島]]を買取り、[[西インド会社]]を設立したが、すぐに閉鎖している。若干の殖民も行われたものの、[[1878年]]に返還された。島には、今もスウェーデン系を含めた[[ノルマン人]]の住民が多い。 * [[ノルウェー]]は現在、[[北極海]]、[[大西洋]]上に植民地を領有している。[[ヴァイキング]]時代には、グリーンランド、アイスランドも領有していた。現在の植民地は、ノルウェー独立([[1905年]])以後のものである。北極海に[[スヴァールバル諸島]]、[[ヤンマイエン島]]、大西洋上に[[ブーベ島]]、[[ピョートル1世島]]を[[領有]]している。また[[南極]]の一部も領有権を主張している。ヴァイキング時代の植民地を巡ってデンマークと領有権問題を起こしたが、現在は解決している。 * [[プロイセン]][[公国]](ドイツ帝国の前身)は[[1683年]]に[[西アフリカ]]に遠征し、[[黄金海岸]]に植民([[1720年]]に放棄)。更に[[ギニア]]にグロース=フリードリヒスベルク市を建設し、[[奴隷貿易]]にも携わった。しかしいずれも長続きしていない。 === アジア諸国 === ==== 日本 ==== ===== 大日本帝国時代の統治地域 ===== [[ファイル:Empire_of_Japan_1932.png|thumb|250px|1932年当時の大日本帝国の領土、及び影響地域]] {{See also|大日本帝国|}} [[ファイル:EmpireOfJapan0.png|thumb|250px|大日本帝国の国土(昭和期) 1. 内地、2. 台湾、2’. 新南群島、3. 樺太、4. 朝鮮、5. 関東州、6. 満鉄附属地、7. 南洋群島]] 日本の植民地としては、「[[外地]]」と称された諸地域がこれに該当する。 * [[日本統治下の台湾|台湾]]([[下関条約]]による割譲) * [[樺太|南樺太]]([[ポーツマス条約]]による割譲) * [[関東州]](ポーツマス条約による[[租借地]]承継。[[南満州鉄道|満鉄]]付属地を含む) * [[日本統治下の朝鮮|朝鮮]]([[日韓併合条約]]による[[大韓帝国]]の[[日韓併合|併合]]) * [[南洋群島]]([[国際連盟]]規約による[[委任統治]]) これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではなかったが、いずれも日本の統治権が及んでいた地域であり外地と総称されていた。さらに、日本の影響下にあった[[満州国]]も、事実上の植民地に相当する。ただし、南樺太に関しては準内地的扱いがされ、各地域の法令の適用範囲の確定等を目的とした[[共通法]](1918年制定)では内地の一部として扱われている。さらに1943年4月には完全に内地に編入された。 なお、内地の[[沖縄諸島|沖縄]]([[大東諸島]]、[[尖閣諸島]]を含む)、[[北海道]]、[[東北地方]]、[[小笠原諸島]]も植民地として捉えるべきという少数意見もあるほか、日本の近代化について日本国家が日本社会を植民地化していった過程である(自己植民地化論)と捉える観点も存在する。 ===== 「外地」と植民地 ===== [[美濃部達吉]]は、「法律上の意義に於ての殖民地」を「国家の統治区域の一部にして内地と原則として国法を異にし」たものと定義し、「朝鮮、台湾、樺太、関東州及南洋群島が此の意義において植民地なることは疑いを容れず」と述べている(『憲法撮要』大正十二年)。 [[水野直樹]]<ref>「日本は朝鮮半島を植民地支配し、何をしたのか-戦前」水野直樹[http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/mizunoa.html]</ref>は、日本の法令で植民地という用語を使用したものはないが、公文書ではこれらの地域について植民地(殖民地)の語を使用しているものは存在していたことを指摘している。 法令による規定では #内地では<!-- [[大日本帝国憲法|憲法]]が適用され--><!-- 朝鮮・台湾に関しては立法権が包括的に委任されており、そのような委任は憲法に反しないという議論もあったため、外地に憲法の適用がなかったかについては疑義がある。 -->[[帝国議会]]が法律を制定した(事実上)のに対し、[[外地]]では形式的には行政庁である総督が[[制令]](朝鮮)や[[律令]](台湾)などを制定していたこと<ref>政務のすべては総督に委任の上、内閣総理大臣の監督を受け(台湾総督府官制3条)、あるいは内閣総理大臣を経て天皇に直接上奏すれば良い(朝鮮総督府官制3条)とされたが、実際の実務は[[拓務省]]や[[内務省 (日本)|内務省]]など内地行政機関の依命通牒(直接の権限はないが、上位職の指示命令により通知(アドバイス)する文書)に従うことが多かった。また総督府令により1年以下の懲役もしくは禁錮、拘留、200円以下の罰金または科料の罰を課すことが認められていた(台湾総督府官制5条、朝鮮4条)が、それ以上の罪過あるいは総督府令によらない法令については日本内地の制定法による必要があった。</ref> #外地には衆議院の選挙区が設置されなかったこと #樺太・関東州・南洋諸島の在来住民に日本国籍が与えられなかったこと など、内地と外地の間に法律上の区別が存在したことから、アカデミズムの世界ではこれらの地域について「植民地」と呼ぶことを自明の前提として研究や議論が展開されることが多い。 また、日本の統治が及んでいた地域ではないが、1932年に建国された[[満洲国]](満洲国については、[[準外地]]と呼ぶことがある)や、[[大東亜共栄圏]]構想の下に起こした[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])の間に日本軍占領下で樹立された国々([[フィリピン]]、[[ベトナム]]、[[ラオス]]、[[ミャンマー|ビルマ]]、[[カンボジア]])や、日本軍占領下で成立した政権の支配地域([[蒙古自治邦]]、[[汪兆銘政権]]など)を名目上は独立国であるとはいえ、その実質的な[[傀儡政権|傀儡]]性から、第二次世界大戦中においては日本の植民地同然だったとする見解もある。 [[比較法学]]の観点では、当時の国法学の観点では「国土」という確定された領域は国土学によって理論的に整除され、その結果を憲法に記述することが慣行となっていた。1831年の[[ベルギー憲法]]、1848年[[プロイセン憲法]]、1871年[[ドイツ帝国憲法]]のように第一条に国土条項を記述するのが通例で、領土条項を欠いた憲法はなんらかの事情があり、その点で大日本帝国憲法は異例であった。石村修はこの点について江戸時代における長期の鎖国体制や[[地政学]]的特性に着目する。西欧型の植民地経営の特徴は、自国の法がおよぶ範囲を限定し殖民会社に軍備・司法・行政・外交の特権を付与することで、国家も直接植民地支配の煩わしさから解放されることになり、そこでは軍事警察力による暴力的な支配権力が不可欠であり、法的には内地と区分された([[外地]])という枠組みが形成されるにいたった。19世紀のヨーロッパは国家主権が欠落した空間に宗主国の主権が及ぶことを想定しながら、直接的な責任逃れの法理が適用されることを期待して「[[外地]]」(overseas territories)という領土を作り出したとする<ref>「植民地法制の形成-序説-」石村修(専修大学法科大学院 第6回東アジア法哲学会シンポジウム)[http://www.law.ntu.edu.tw/east-asia2006/EA-Home/PD/%E6%97%A5%E6%9C%AC/2006032608.pdf] </ref>。 [[明治憲法]]の形質の観点では、明治憲法に領土規定がなく、[[ヘルマン・ロエスレル]]の案においては領土は自明のものであり、また[[国体]]に関わり議院に属さないものだとして領土規定は立ち消えたのであるが、実際にはロエスレルの認識とは異なり日本の領土は北(樺太・北海道)も南(琉球)も対外政策は不安定な中にあった。明治政府にとって好都合であったことは確かで露骨なものとしては「我カ憲法ハ領土ニ就イテ規定スル所ナシ、諸国憲法ノ或ハ領土ヲ列挙スルト甚タ異レリ、サレハ我ニ在リテハ、領土ノ獲得ハ憲法改正ノ手続ヲ要セス」([[上杉慎吉]]「新稿・憲法述義」1924年P.143)と解されていた<ref>「憲法における領土」石村修(法制理論39pp158-185.2007-03.新潟大学法学会ISSN-0286-1577)[http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp:8080/dspace/bitstream/10191/6089/1/18_0028.pdf][http://jairo.nii.ac.jp/0018/00005050]</ref>。 いくつかの勅令等に「殖民地」「植民地」の用語を使用するものが存在していたことが指摘されている。 *明治31年勅令第37号では、「北海道殖民地」の用語が使用されている<ref>アジア歴史資料センター レファレンスコード A03020333600</ref>。 *昭和7年9月3日に天皇が公布した「昭和七年・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約九月三日・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約ヲ為スヲ要スル件」において、「電話ノ料金中本邦收得分(植民地收得分ヲ除ク)」と「植民地」の用語が使用されている<ref>アジア歴史資料センター レファレンスコード A03021876600</ref> 。 *昭和5年条約第4号・万国郵便条約では、「第8条 殖民地保護領等」の項目に、朝鮮を含めている<ref>アジア歴史資料センター レファレンスコード A03021789000</ref>。 また、公文書にも「植民地」の用語例は見られ、例えば大正12年刊行の拓殖事務局『植民地要覧』では朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島を「我が植民地と解せらるる」としていた(同書では南満州鉄道付属地も扱っている)。 ===== 日本の海外支配地域を植民地とすることへの異論、反発 ===== 植民地という用語は元々は「開拓地」や「入植地」などと同様に正否の価値判断を含まない一般術語であり、近代植民地法制学においても社会科学の講学上の概念にすぎない<ref>「植民地」なる用語への評価としてはたとえば『(植民地の)文字の我国で用ゐられ初めたのは、極めて最近の事で、明治以前の空気に多く包まれた人の頭には、植民地という文字が、非常にハイカラな文字になつて響いて居る。植民地がどうの、植民政策がどうの、拓殖局がどうのといつた所で、虻が鼻の頭を刺した程の感じもない。新領土といふ文字にせよ、其れは二十七八年、三十七八年に於ける、二大戦役の賜物で、此戦役以前、新領土といふ文字は、あまり繰り返されて居ない。何れにしても、植民地といふ文字は、現代人に未だ耳新しい文字である。先ず植民的知識をいへば、其れは北海道開拓の其れであつたらう。北海道開拓は、我日本国民に、植民の意味を、朧気ながらも、先づ放つた所の鐘の音であるのである』(「日本植民地要覧」全国新聞東京聯合社編 大正元年(1912年)10月)。</ref>。[[外地]]を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの感情的な反発は明治期からすでに存在しており、いわゆる忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり、[[外地]]を植民地と呼称することは回避され「我国にては斯(植民)の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」<ref>|[[矢内原忠雄]]『植民及植民政策』 有斐閣 1926年刊</ref>ことが事実上の慣例となっていた。 {{Quote|([[1905年]](明治38年)の帝国議会において下記のようなことがあった。)衆議院の委員会において、当時の首相で第二代台湾総督でもあった桂太郎が、台湾は「日本」なのか「殖民地」なのかいう問に、うっかり「無論殖民地であります内地同様には行かぬと考へます」と答えてしまったのである。..中略..この首相発言は、議員達に大きな感情的反発をよんだ。議員側からは、「台湾を殖民地にするとは云ふことは、何れの内閣からも承ったことはない」とか「吾々議員として実にぞっとするではございませぬか」といった非難が出た。|[[小熊英二]]|『<日本人>の境界』新曜社 第5章 p142~p143 ISBN4-7885-0648-3 1998年刊}} {{Quote|我国にては斯の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺 太等地名を呼ぶ。 但し学術的又は通俗的に之等を植民地と称するを妨げない。 我国の学者政治家等が朝鮮を指して植民地と称することに対し、 「千万年歴史の権威」と「二千万民衆の誠忠」を有する朝鮮民族は 大なる侮辱を感じ、大正八年三月一日の独立宣言書にもその憤慨が披瀝せられた。 併乍ら研究者は事実関係を以ってその研究対象とするより外はない。 |[[矢内原忠雄]]『植民及植民政策』 有斐閣 1926年刊}} 語義的な観点ではなく、実質においても「植民地」ではなかったと日本の論壇誌などでしばしば論じられる。これは、同年代に植民地と呼ばれた地域とはその統治の態様(欧米のそれが非人道的、収奪的であるのに対し日本のそれは人道的、恩恵的であるなど)が異なる、あるいは領有に至る経緯(一般に植民地化は無主地先占の法理によって行われることが多かったが、日本の朝鮮や台湾は[[文明国]]間の条約による併合や割譲という法形式によって獲得された)が異なるという認識から日本の海外支配地域を植民地と呼ぶのは妥当ではないとするものである。また、統治の態様が異なっていた根拠として、欧米の旧植民地における学校教育の普及率が日本のそれより低かったこと(これを指して愚民政策の言われることが多い)や、[[モノカルチャー]]経済が行われ、工業の発展が阻害されたこと、結果として欧米の旧植民地の大半が発展途上国に留まっているのに対して、日本統治を経た朝鮮南部と台湾が先進工業地域に成長した事などが挙げられる。 ==== 中華人民共和国 ==== ===== チベット等 ===== {{See also|チベット|東トルキスタン独立運動}} [[中華人民共和国]]は[[チベット]]([[チベット自治区|西蔵自治区]]、[[青海省]]など)や[[内モンゴル自治区|内モンゴル]]([[内モンゴル自治区|内蒙古自治区]])、[[東トルキスタン]]([[新疆ウイグル自治区]])、[[満洲]]([[遼寧省]]、[[吉林省]]、[[黒竜江省]]の3省と、内蒙古自治区の東部など)などの主権を[[中華民国]]から継承したものとし、これらの地域は「もともとの中国の不可分の領土」であるとして、併合していった。現在のこれらの地域は、法制([[中華人民共和国憲法]]の民族自治規定等)上は完全に他の中華人民共和国省区、内地と同格であるとされており、またこれらの土地の殆どの民族は[[中華民族]]に包摂されると定義されているため、形式上では植民地とは言えない。[[国際連合非自治地域リスト]]に上記地域は含まれない。 中華人民共和国における宗教や思想の統制はこれらの地域に限ったことではないが、[[少数民族]]の伝統的な文化・宗教・思想が取り締まりの対象となる際、民族文化への弾圧と捉えられる向きがある。<!--西欧におけるイスラム教諸国からの移民は、政治的・労働的劣位が明らかであっても報告に挙げられていない アメリカ国務省「世界の人権状況」2002年次報告ではチベット民族の政治的・労働的劣位が明らかであり、政治的・労働的優位性のもとに、漢民族がチベット民族を低廉な賃金で就労させているとする。--> 以上のような視点をもとにして、[[東トルキスタン亡命政府]]、[[ガンデンポタン|チベット亡命政府]]、[[内モンゴル人民党]]などの独立や自治を目指す諸団体は「中華人民共和国の植民地支配」という表現を使用することが多い。 ===== 朝鮮半島 ===== {{See also|東北工程|中国朝鮮関係史}} 朝鮮半島や朝鮮史を中国の一部、あるいは従属地域・従属国と見なす研究や記述が存在し<ref>たとえば [[コロンビア大学]]オンライン百科事典によれば、韓国古代史について韓国では[[檀君朝鮮|壇君神話]]から紀元するものの、中国文献によれば商王朝難民により[[箕子朝鮮]]がB.C.1122年に平壌で建国されたのが始まりであるとし、あるいは[[衛氏朝鮮]]が朝鮮最初の国家であると解説する[http://education.yahoo.com/reference/encyclopedia/entry/Korea]。</ref><ref>韓国側文献として例えば『韓国史大事典』(柳洪列監修、1996年・高麗出版社刊、1819ページ)には、朝鮮王朝([[李朝]])と中国([[明朝|明]])の関係については「朝鮮」という国号を明に選んでもらったことを指摘した後、「従属の象徴として明の年号を使った」と説明する。また後の[[清朝|清]]についても「宗主国」とし、[[日清戦争]]で清が敗れた結果として「朝鮮が完全な独立国であることを確認するにいたり、政治的な従属関係はなくなった」と解説する。また日清戦争後、国号を朝鮮から「[[大韓帝国]]」に変えた経緯について「清の属国から脱して独立し帝国として発展するという意味」があったと説明する。李朝の前の高麗時代に中国を支配した[[元朝 |元]]との関係では「属国」との表現はないが、高麗王が六代にわたって必ずモンゴルの王妃を迎えるという従属的な「ふま国」となり「自主性を失った」とする。 </ref>学生むけ教科書にも同様の記述がみられる <ref>朝鮮日報によれば、アメリカの世界史の教科書には中国と韓国の間の[[朝貢]]秩序を、韓国を中国の[[従属国]]と見なす内容があり、国教育開発院の李讃熙博士は「韓国の歴史を主体的に扱っておらず、中国、日本などの歴史叙述のために付随的に挿入されているケースが多い」と指摘する(『朝鮮日報』2001年8月10日)</ref>。とくに高句麗史の帰属をめぐり韓国朝鮮と中国の間には論争が生じている。 ==== オマーン ==== [[オマーン]]は17世紀から19世紀半ばにかけて西[[インド洋]]において海洋帝国を構築し、同沿岸の[[ザンジバル]](現[[タンザニア]]領)、[[モンバサ]](現[[ケニア]]領)、[[モガディシュ]](現[[ソマリア]]領)、[[パキスタン]]沿岸の[[グワーダル]]などを保有した。 ==== イスラエル ==== [[イスラエル]]は宗主国無き植民地とも言える国家である([[エドワード・サイード]]など。反論もある)。[[第一次世界大戦]]に[[オスマン帝国]]が敗北すると、[[中東]]・[[アラブ]]地域は新たに[[イギリス]]・[[フランス]]の植民地となり、[[ユダヤ人]]が約束の地と崇める[[パレスチナ]]は[[委任統治領]]としてイギリスの管理下におかれ、[[ヨーロッパ]]や[[アメリカ合衆国]]からユダヤ人が入植した。[[ポグロム]]から逃れてきた人も多かった。しかし、時の弁務官の方針により、ユダヤ人移民の数はおおむね制限されており、ユダヤ人人口が減少に転じた時期もあった。入植者が増大したのは、第二次世界大戦前後の混乱期である。 アメリカのユダヤ人はすでに都市部で富裕層となっており、入植を斡旋したり、入植者に資金面での援助を行ってきた。[[ナチス・ドイツ]]時代や、[[第二次世界大戦]]後にはさらに入植者が増えた。そのため、ユダヤ人とアラブ人との間で軋轢が多くなり、国家像としては連合国家案より分割案が有効とみなされるようになり、[[国際連合]]の決議に基づき、パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分割することとなった。しかし、決着は得られず、[[中東戦争]]の勃発、イスラエルの独立に至った。4度の[[戦争]]を経ても双方の言い分は平行線をたどる。 また、[[冷戦]]終結と[[ソビエト連邦]]の崩壊によって再びユダヤ人の入植が増えている。特にこれらのユダヤ人は、[[第三次中東戦争]]でイスラエルが獲得した[[ヨルダン川西岸]]地区などに国軍のアラブ人強制排除とともに入植をおこない、[[パレスチナ問題]]を深刻化させている。 === アメリカ合衆国 === [[イギリス]]から独立した元[[13植民地]]の連合体として出発したアメリカ合衆国は、その後もイギリス、[[フランス]]、[[スペイン]]、[[メキシコ]]から植民地や領土を武力併合または買収して、自国の領土を西へと拡大した。拡大する過程で新たに州を新設していったので、植民地と州の境はあいまいになった。短期間で西海岸へ到達すると、[[太平洋]]の先に目を向け、北部の[[アラスカ]]を[[ロシア]]から買収、[[ハワイ]]を併合しその後州に昇格させ自国領土内に完全に併合する。さらに[[米西戦争]]でスペインに勝利すると、スペインの統治下にあった[[カリブ海]]の[[キューバ]]や[[プエルトリコ]]、[[東南アジア]]の[[フィリピン]]、[[グアム]]を植民地化した。もっとも、キューバはすぐに独立させたが、その後も[[キューバ革命]]までの長きに渡り影響下においた。 アメリカは建国の成り立ちからして、個人の[[財産権|財産的自由権]]を重視したが白人植民者の子孫からなる[[アメリカ合衆国議会]]は[[インディアン#権利を守る戦い|インディアン]]や[[アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史|黒人奴隷]]に対してその主権を認めることはなかった<ref>[[ジョン・ロス (チェロキー)|ジョン・ロス]]らの「チェロキー国への州法適用差し止め」訴訟と連邦議会への工作は[[アンドリュー・ジャクソン|ジャクソン大統領]]による「大統領にインディアン強制移住の権限を与える法律」制定提案と圧倒的多数による可決をもって報いられた。また裁判所への提訴は[[チェロキー]]たちの提訴権の否定(門前払い)によって報いられた。黒人奴隷の裁判提訴権の否定については[[ドレッド・スコット対サンフォード事件]]。</ref><ref>「奴隷解放論者」と「解放奴隷」によって進められた、[[アメリカ植民協会]]による[[リベリア]]入植は実に[[アメリコ・ライベリアン]]らによる新たな植民地であった。[[赤狩り]]によって非合法化される[[アメリカ共産党]]には黒人に主権をという主張もあった。ただし必ずしも黒人の支持があった訳でない。</ref>。[[フロンティア]]への進出に際して先住民と条約を結び、先住民の一定の主権を認めていたが、合衆国や州政府、入植者たちはたびたび条約を無視したり、先住民に権利の放棄を強要した。[[北西部領土]]や[[南西部領土 (アメリカ合衆国)|西南部領土]]あるいは西海岸に移動した白人開拓者は[[1763年宣言]]などインディアン達との取り決めに違反していたにも拘らず、開拓者や商人らへの攻撃に対して合衆国陸軍は出動し、[[インディアン強制移住法]]はミシシッピ以東から先住民を駆逐するだけでなく、以西のフロンティアにおいても駆逐を続け、先住民は占有する土地を極めて小額の補償金と引き換えに合衆国政府に対して強制的に譲渡させられた。[[オレゴン・カントリー]]をめぐる交渉や[[米墨戦争]]による武力併合により合衆国政府は広大な土地を獲得し、これらの土地は入植者に対して無償ないしは非常に安い価格で売却された。1890年代の[[フロンティア|フロンティア消滅]]と時期を同じくして発生した[[米西戦争]]により領土はフィリピン、グァム、キューバへ拡大し、またハワイ入植者が起こしたクーデターに[[アメリカ海兵隊|米国海兵隊]]が介入し[[ハワイ王国]]を併合した。 「アメリカ人の生命及び財産の安全確保のため」議会に対して合衆国軍隊の介入を要請するという図式は[[アメリカ帝国主義]]拡大の基本的な構造であり、皇帝や国王の名を必要としない19世紀型の帝国主義の典型となった。[[米西戦争]]の勝利によって、[[スペイン]]の影響下にあった[[中央アメリカ|中米]]の国々を独立させ、[[政治]]や[[経済]]的に影響下に置いたのちも、中米諸国は[[バナナ共和国]]と呼称され、アメリカ資本の[[ユナイテッド・フルーツ]]や[[ドール・フード・カンパニー]]などの民間企業が資本主義の尖兵として掠奪経営や政治介入をおこなった。[[キューバ]]などカリブ諸島の親米政権に支援を行い、[[ドミニカ共和国|ドミニカ]]、[[グレナダ侵攻|グレナダ]]、[[パナマ侵攻|パナマ]]には公然と軍事介入した。中米の[[プエルトリコ]]は、現在も[[コモンウェルス (米国自治連邦区)|自治領]]として存続している。また北マリアナ諸島もアメリカの執政下にとどまっている。 ==新植民主義== {{Main|新植民地主義}} 開発援助において、古くは1960年代に英仏がアフリカの旧植民地に財政支援をおこない、「新植民地主義」と批判され取りやめたことがある<ref>「開発援助の拡散・細分化と援助協調」木原隆司(財務省財務総合政策研究所研究部 PRI Discussion Paper2009.5)[http://www.mof.go.jp/pri/research/discussion_paper/ron194.pdf]PDF-P.34</ref>。共産主義陣営においては1960年代に世界で新植民主義が進展しているとの認識があり、中国共産党は1963年9月に3回にわたりソ連共産党中央委員会を痛罵し10月22日付の批判ではソビエトを「新植民主義の弁護人」であると批判した。中国の理論家たちの見解によれば、ソビエトによる社会主義世界体制は、世界の発展過程全体にますます決定的な影響を及ぼしていないばかりか、帝国主義に対する大衆の革命的闘争で独自の役割すら果たしていない、と非難した<ref>「中ソ論争の焦点1963-64」猪木正道(北海道大学スラヴ研究 1967年)[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/4983][http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/4983/1/KJ00000112885.pdf]PDF-P.8</ref>。 こういった大戦後に登場した旧宗主国や大国における新たな植民的支配(新植民主義)論とは別に、21世紀になり中国など新興国の台頭を背景とした国外への積極的な投資や開発援助が「新植民主義」と指摘されることがある。 中国の対アフリカ援助が「新植民主義」だとの批判が一部の先進国から浮上しており、一部のアフリカの国からも新植民地主義であるとの発言が出ている。援助受入れ国は中国政府を無視することができず、中国企業が地元の環境を破壊したり汚染を及ぼすことなどで現地住民の利益を侵害しているとの報道が行われたことがある<ref>趙長峰・薛亜梅「新形勢下中国対アフリカ援助探析」『社会主義研究』社会主義研究雑誌社、2010年第1期、P.141。直接は[http://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/smr570.pdf]PDF-P.29</ref>。 マダガスカルでは韓国の民間企業がマダガスカル共和国の耕作可能地の約半分を99年間無償貸与される契約を結んだことから民衆騒動が発生し、当時の[[マーク・ラヴァルマナナ]]マダガスカル大統領が退陣させられ契約が撤回される事態となった<ref>[[大韓民国]]の旧財閥系商社[[大宇|大宇ロジスティックス]]は、[[マダガスカル共和国]]の耕作可能面積250万ヘクタールの約半分に相当する130万ヘクタールもの広大な土地を99年間無料貸与する契約を当時の[[マーク・ラヴァルマナナ]]大統領政権と2008年11月に結んだ。大宇側は地元住民を雇って耕地開発し、[[トウモロコシ]]や[[パーム油]]を採取できる[[ヤシ]]を栽培し、主に韓国に輸出する計画を表明。今後25年間で60億ドル(約5700億円)の[[インフラ]]整備を行うとしていた。これに対し[[国連食糧農業機関]] (FAO) は、生産国側の犠牲を伴う「ネオ・コロニアル([[新植民地主義]])」を生む懸念があると警告していた。2008年11月19日付 英[[フィナンシャル・タイムズ]]紙:食糧争奪で“新植民地主義”の懸念 韓国企業がマダガスカルの農地をリース。これを受け、マダガスカルでは2009年1月以降、「公金を無駄遣いしている」としてラヴァルマナナ大統領の退陣を求めるデモが繰り返され、135人以上が死亡する混乱が続き、2009年3月16日に軍が大統領府に突入、大統領を退陣に追い込んだ。マダガスカル軍は野党指導者[[アンドリー・ラジョエリナ|ラジョエリナ]]に全権を移譲し、マダガスカル憲法裁判所も3月18日追認。ラジョエリナは同日、大宇側との契約について「憲法では祖国の土地は売ることも貸すこともできない」と述べ、契約破棄を宣言した。3月21日、ラジョエリナ新大統領が就任した。大宇側は「政権が交代してもプロジェクトは継続したい」と話していた。[http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/090321/mds0903212151007-n1.htm 2009年3月21日付『産經新聞』「韓国企業に農地の半分無料貸与 国民反発で大統領退陣 マダガスカル」]。その後2009年7月、大宇ロジスティックスは資金難により、企業再生手続きに入った。[http://bada.ebn.co.kr/news/n_view.html?kind=rank_code&keys=2&id=73111 大宇ロジスティックス 法廷管理申請] EBN 2009年7月4日(韓国語) [[李明博]]大統領は2008年4月15日にも「ロシア極東地方の土地を30 - 50年間借り上げる」「長期間土地を賃借し現地生産すれば、北朝鮮の労働力も活用できる」という発言を行っている。2008年4月16日付 [[日本経済新聞|NIKKEI NET]] 李大統領「極東に食糧基地を」〜「ロシア沿海州30-50年を借り上げ、北朝鮮の労働力で現地生産」</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 文献情報 == 総論 *[[浅野豊美]]『帝国日本の植民地法制―<small>法域統合と帝国秩序</small>』(名古屋大学出版会、2008年、ISBN 4-815-80585-7) *「帝國における植民地と本国」永渕康之、高木、平野、西川、石川、吉田(平成14-16年度科学研究費補助金基盤研究研究成果報告書)[http://www.fwu.ac.jp/la/documents/paper.pdf] *「植民地法制の形成-序説-」石村修(専修大学法科大学院 第6回東アジア法哲学会シンポジウム)[http://www.law.ntu.edu.tw/east-asia2006/EA-Home/PD/%E6%97%A5%E6%9C%AC/2006032608.pdf] *「政治認識としての帝国主義論-[[ジョン・アトキンソン・ホブソン|ホブソン]]、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の帝国主義論の再検討1」中村研一(北大法学論集 1990-09-17)[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/16732/1/40(5-6)2_p1053-1090.pdf] *「明治大正期の植民地思想形成への一試論 : ポール・ルロア=ボーリュー受容の諸相」柳瀬善治(三重大学日本語学文学2002-06-23)[http://miuse.mie-u.ac.jp:8080/bitstream/10076/6591/1/AN101977030130008.pdf][http://miuse.mie-u.ac.jp:8080/handle/10076/6591] *「東アジアにおける「牛の皮一枚の土地」伝説の展開」斧原孝守(東洋史訪1997.0.31)[http://repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/2107/1/AA112829850030007.pdf][http://ci.nii.ac.jp/naid/120001073433] 土地制度など各論 *「マレイシア・サバ州における植民地時代の土地制度」都築一子(国際協力研究Vol.15 No.1(通巻29号)1999.4)[http://www.jica.go.jp/jica-ri/publication/archives/jica/kenkyu/99_29/29_07.pdf] *「法と植民地主義 ベトナムにおけるフランス近代法導入をめぐる一考察」高田洋子(敬愛大学国際研究第12号2003年11月)[http://www.u-keiai.ac.jp/issn/menu/ronbun/no12/001.pdf] *「植民地支配の政治経済学 イギリスのエジプト統治1882-1914年」鹿島正裕(金沢法学1987-3-25)[http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/18217/1/AN00044830-29-1-165.pdf] *「植民地支配の比較研究に向けて フランスのチュニジア支配イギリスのエジプト支配1881〜1914年」鹿島正裕(金沢法学1987-12-25)[http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/18210/1/AN00044830-30-1-31.pdf] *「カテゴリー化の困難-サモア植民地統治における混血の役割」山本真鳥(比較経済研究所小規模プロジェクト「植民地主義の再検討」2001年第3回研究会11月8日 法政大学学術機関リポジトリ)[http://rose.lib.hosei.ac.jp/dspace/bitstream/10114/3912/1/107yamamoto.pdf] == 関連項目 == {{wiktionary}} * [[植民地主義]] * [[帝国]]、[[帝国主義]] * [[脱植民地化]] * [[植民地独立付与宣言]] * [[民族自決]] * [[独立戦争]] * [[レジスタンス運動]] * [[民族紛争]] * [[奴隷貿易]]([[奴隷貿易#大西洋奴隷貿易|大西洋奴隷貿易]]) * [[勅許会社]]、[[東インド会社]]、[[西インド会社]]、[[P&O]]、[[露米会社]] * [[南満州鉄道]]、[[東洋拓殖]]、[[南洋興発]]、[[大日本製糖]] * [[スペインによるアメリカ大陸の植民地化]]:[[イベロアメリカ首脳会議]] * [[アメリカ帝国]]、[[中華帝国]] * [[ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化]]、[[アメリカ大陸諸国の独立年表]] * [[アフリカ分割]]、[[アジア・アフリカ諸国の独立年表]] * [[海外領土・自治領の一覧]] * [[南極における領有権主張の一覧]] * [[国際連合非自治地域リスト]] * [[コロニー]] * [[入植地]] * [[植民政策学]] {{DEFAULTSORT:しよくみんち}} [[Category:植民地|*]] [[Category:国際関係史]] [[Category:植民政策|*]] {{Link GA|zh}}
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