コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
植村直己のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
植村直己
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{混同|植村なおみ|x1=アナウンサーの}} {{Infobox 人物 |氏名 = 植村 直己 |ふりがな = うえむら なおみ |画像 = |画像サイズ = |画像説明 = |出生名 = 植村 直已 |生年月日 = [[1941年]][[2月12日]] |生誕地 = {{JPN}} [[兵庫県]][[城崎郡]][[日高町 (兵庫県)|日高町]](現[[豊岡市]]) |失踪年月日 = [[1984年]][[2月13日]]頃 |失踪地 = {{USA}} [[アラスカ州]][[マッキンリー山]]中 |現況 = 行方不明 |没年月日 = |死没地 = |死因 = |遺体発見 = |墓地 = |記念碑 = |住居 = |国籍 = |別名 = |民族 = |市民権 = |教育 = |出身校 = [[明治大学]][[農学部]]卒 |職業 = [[登山家]]、[[冒険家]] |活動期間 = |雇用者 = |団体 = |代理人 = |著名な実績 = 世界初[[五大陸]]最高峰登頂([[1970年]])<br>単独[[北極圏]]到達([[1978年]])<br>世界初マッキンリー冬期単独登頂([[1984年]]) |業績 = |流派 = |影響を受けたもの = |影響を与えたもの = |活動拠点 = |給料 = |純資産 = |身長 = |体重 = |テレビ番組 = |肩書き = |任期 = |前任者 = |後任者 = |政党 = |政治活動 = |敵対者 = |取締役会 = |宗教 = |宗派 = |罪名 = |有罪判決 = |犯罪者現況 = |配偶者 = |非婚配偶者 = |子供 = |親 = |親戚 = |コールサイン = |受賞 = アカデミー・オブ・アチーブメント(1970年)<br>バラー・イン・スポーツ賞(1978年)<br>[[国民栄誉賞]](1984年) |署名 = |署名サイズ = |公式サイト = |補足 = }} '''植村 直己'''(うえむら なおみ、[[1941年]](昭和16年)[[2月12日]] - [[1984年]](昭和59年)[[2月13日]]?)は、[[日本]]の[[登山家]]、[[探検家|冒険家]]。[[兵庫県]]出身。1984年に[[国民栄誉賞]]を受賞。 == 経歴 == [[1941年]][[2月12日]]、[[兵庫県]][[城崎郡]][[日高町 (兵庫県)|日高町]](現[[豊岡市]])で、植村藤治郎・梅夫妻の末っ子として生まれる。実家は[[農家]]。藤治郎の3代前の「植村直助」から「直」の字を取り、干支の巳と合わせて「直巳」と名付けられたが、町役場の戸籍担当職員の誤字により戸籍名は「直已」として登録された<ref name="boukenkan">[http://www3.city.toyooka.lg.jp/boukenkan/pages/history/episode.html 植村直己冒険館 ■「直己」の由来■「植村直己記念館」(文藝春秋)より]</ref>。のち、大学時代から「巳(へび)より己(おのれ)の方が格好良い」ということで「直己」を名乗るようになった<ref name="boukenkan" />。 少年期より同郷の[[加藤文太郎]]([[浜坂町]](現在の[[新温泉町]])出身)に憧れ、学校行事で登った[[蘇武岳]]を皮切りに[[氷ノ山後山那岐山国定公園|但馬の嶺々]]への山行を始める。[[兵庫県立豊岡高等学校]]卒業後、豊岡市の新日本運輸(現在は廃業)に就職。翌[[1960年]]に[[明治大学]][[農学部]]農産製造学科に入学、[[山岳部]]へ入部してからは登山に没頭。同じ明治大学山岳部の小林正尚の[[アラスカ州|アラスカ]]旅行で氷河を見て来た話を聞いて、海外の山へ憧憬を抱くようになる。 [[1964年]][[5月2日]]大学卒業後[[就職]]試験に失敗、ヨーロッパアルプスの氷河を見ようと考えたが資金が足りないため、まず生活水準が高い[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で資金を貯めてそれからヨーロッパに行こうと考え、周囲の反対を押し切って、[[とび職]]の[[アルバイト]]で貯めた金を元手に[[横浜港]]から移民船「[[あるぜんちな丸]]」に乗り込み、[[ロサンゼルス]]へ向かった。その際の渡航費用は長兄の植村修が援助した。到着後苦労して職を得るが9月に[[不法就労]]で捕まり、登山の資金を貯めるために働いていることを日系人の通訳を通じて話して強制送還は免れたもののアメリカにはいられず[[フランス]]へ向かった。11月10日[[シャモニー]]で[[モンブラン]]単独登攀を目指すが[[クレバス]]に落ち失敗。[[モルジヌ]]のスキー場で[[冬季オリンピック]][[滑降]]金メダリストの[[ジャン・ヴュアルネ]]に雇われ、ここで資金を稼ぎながら登山活動の拠点とした。 [[1965年]]明治大学のゴジュンバ・カン([[チョ・オユー]]II峰)登頂隊に途中参加、[[4月23日]]登頂を果たした。その後再びモルジヌに戻るが、[[黄疸]]で一ヶ月の闘病生活を余儀なくされた。 [[1966年]]7月モンブラン、続いて[[7月25日]][[マッターホルン]]単独登頂に成功。[[10月24日]][[アフリカ]]最高峰[[キリマンジャロ]]の単独登頂に成功。 続いて[[1968年]]には南米最高峰の[[アコンカグア]]単独登頂に成功した。この後[[アマゾン川]]の[[いかだ]]下り6000kmの冒険を経て、北米最高峰の[[デナリ|マッキンリー]]登頂を目指すが、単独登頂の許可が下りず断念。4年5ヶ月ぶりに日本に帰国する。 [[日本山岳会]]が創立65周年事業として[[エベレスト]]登頂隊派遣を決定し、山岳部の先輩である大塚博美に誘われ植村も参加した。自己負担金を用意できなかったため荷揚げ、ルート工作要員としての参加であったが、抜群の体力等が認められ[[松浦輝夫]]とともに第1次アタック隊に選ばれ、[[1970年]][[5月11日]]、エベレスト南東稜から登頂に成功する。しかしこの経験で、大量の隊員を荷物運びとして使いながらほんの一握りの者しか登頂できない[[極地法]]による高所登山に疑問を持った。 同年[[8月]]、エベレスト登頂の勢いを借りて再びマッキンリーに挑戦し単独登頂<ref>これも正式な許可は出ず、形式的には別に入山したアメリカ隊の隊員として入山する形をとることで黙認された</ref>を成功させ、この時点で'''世界初の五大陸最高峰登頂者'''となった。 同年、アメリカエクスプローラーズクラブからアカデミー・オブ・アチーブメントを授与される。 [[1971年]]初めには[[小西政継]]らの山学同志会隊に加わり、冬季の[[グランド・ジョラス]]北壁に挑み、他の隊員は[[凍傷]]に罹り手足の指を失うことになったが、植村と高久幸雄は五体満足で完登した。 同年4月、イギリス[[英国放送協会|BBC]]が主催し、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]人のノーマン・ディレンファース隊長率いるエベレスト国際隊へ伊藤礼造と参加し[[ネパール]]側南壁制覇を目指して再びエベレスト登頂を目論むが、[[インド]]人のハッシュ・バフグナ隊員の遭難以降各国からの代表を寄せ集めた国際隊は互いの利害関係が徐々に表面化し、失敗に終わった。以後登山・冒険とも「単独」での行動へと傾倒する。 この頃から植村は[[南極]]横断への夢を抱き始め、少しずつ実現のための準備を始めた。1971年8月南極横断距離3000kmを体感するため、同距離となる[[北海道]][[稚内市]]から[[九州]][[鹿児島県|鹿児島]]までの国内縦断を徒歩51日間で実現した。 [[グリーンランド]]北部での[[エスキモー]]との共同生活を経たのち、[[1974年]][[12月]]から[[1976年]][[5月]]まで1年半かけての[[北極圏]]12000kmの[[犬ぞり]]探検に成功。 [[1978年]]、[[ナショナルジオグラフィック協会]]からも資金提供を受け、犬ぞりを操って人類史上初の[[北極点]]単独行に成功、日本人として初めて『[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナル・ジオグラフィック]]』の表紙を飾った。同年にはグリーンランド縦断にも成功し、これらの業績から[[1979年]]、[[イギリス王室]]ビクトリア・スポーツ・クラブから優れた冒険家に贈られるバラー・イン・スポーツ賞を受賞するなど世界的な名声と評価を獲得した。一方で[[スポンサー]]の[[電通]]の意向でもあったが食料やそりから犬に至るまでヘリコプターや飛行機で補給をしたことなどに対して一部で疑問と批判も出た。 北極点・グリーンランドの犬ぞり探検成功後、植村の冒険は苦難に満ちたものとなっていく。 [[1980年]]、エベレストの厳冬期登頂を目指し植村を隊長とする日本隊が編成されるが、登攀隊員の竹中昇が事故に遭い死去。悪天候にも見舞われ、登頂を断念した。 [[1982年]]、[[アルゼンチン軍]]の協力が得られることとなり、積年の夢だった南極点単独犬ぞり探検を計画し、南極のアルゼンチン軍基地に待機し出発を待つが、[[フォークランド紛争]]勃発により軍が協力を撤回したため断念。 2度の失敗に初心に戻る決心をした植村は野外学校設立を夢見て、勉強を兼ねてアメリカの[[ミネソタ州]]にある野外学校「[[アウトワード・バウンド]]・スクール(OBS)」に参加するため渡米。ついでにアラスカでマッキンリー登頂を目指した。このマッキンリー登頂計画は知人・友人への事前の連絡がほとんどなく、スポンサーも絡んでいなかったため、この時期に実行された明確な理由について詳しくは分かっていない。植村の登頂開始は一部の記者のみによってインタビューされた。 [[1984年]][[2月12日]]、43歳の誕生日に世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たしたが、翌[[2月13日]]に行われた交信以降は連絡が取れなくなり、消息不明となった。3日後の2月16日小型飛行機がマッキンリーに行ったところ植村と思われる人物が手を振っているのが確認されたが、天候が悪く、視界も悪かったので救出することができずに見失ってしまった。ただし、最終キャンプとして使っていた雪洞に大量の装備が残されていたことから、誤認である可能性が高いと考えられている。その後[[明治大学]]山岳部によって2度の捜索が行なわれたが発見されることはなく、植村が登頂の証拠として山頂付近に立てた日の丸の旗竿と、雪洞に残された植村の装備が遺品として発見されるに留まった。やがて生存の確率は0%とされ、捜索は打ち切られた。現在に至るまで遺体は発見されていないため、最後に消息が確認された[[1984年]][[2月13日]]が植村の[[命日]]となった。{{没年齢|1941|2|12|1984|2|13}}。 [[1984年]][[4月19日]]、[[国民栄誉賞]]を受賞。 1984年[[6月19日]]、[[デンマーク]]政府により、1978年グリーンランド縦断の際の到達点であったヌナタック峰を、植村の功績を称え新たに「ヌナタック・ウエムラ峰」と呼称することが決定した。 1984年8月、[[北極点]]・グリーンランド縦断のゴールであるナルサスワックに植村の功績を伝えるためのレリーフが設置された。 [[ファイル:130914 Uemura Naomi Memorial Museum Toyooka Hyogo pref Japan01s3.jpg|thumb|[[植村直己冒険館]]]] [[1994年]]、故郷である豊岡市日高町の[[神鍋高原]]に[[植村直己冒険館]]が開館。また公子夫人と有志によって記念館と[[植村直己自然学校]]が設立された。 [[1996年]]、[[植村直己冒険賞]]が設けられた。最初の受賞者はミャンマー最高峰[[カカボラジ山]]に初登頂した[[尾崎隆]](2011年5月12日、高山病のためエベレスト頂上付近で死亡)。 === 主な登山・冒険歴 === * [[1965年]][[4月23日]] - ゴジュンバ・カン登頂 * [[1966年]][[7月25日]] - モンブラン単独登頂 * [[1966年]][[10月24日]] - キリマンジャロ単独登頂 * [[1968年]][[2月5日]] - アコンカグア単独登頂 * [[1968年]][[4月20日]] - [[6月20日]] - アマゾン河6,000km単独筏下り * [[1970年]][[5月11日]] - エベレスト登頂(松浦輝男とともに日本人初登頂) * [[1970年]][[8月30日]] - マッキンリー(世界初の五大陸最高峰登頂成功) * [[1971年]][[1月1日]] - グランド・ジョラス北壁完登 * [[1971年]][[8月30日]] - [[10月20日]] - 日本列島3,000kmを徒歩で縦断 * [[1972年]][[9月4日]] - [[1973年]][[2月4日]] - グリーンランド北端シオラパルク村のエスキモー宅に単身寄宿し共同生活 * [[1973年]][[2月4日]] - [[4月30日]] - グリーンランド3,000km犬ゾリ単独行 * [[1974年]][[12月29日]] - 1976年[[5月8日]] - 北極圏12,000km犬ゾリ単独行 * [[1976年]][[7月]] - [[エルブルス山|エルブルス]]に登頂 * [[1978年]][[4月29日]] - 犬ゾリ単独行で北極点到達(単独到達世界初) * [[1978年]][[8月22日]] - 犬ゾリ単独行でグリーンランド縦断成功 * [[1982年]][[8月13日]] - 冬期アコンカグア第二登達成(共同) * [[1984年]][[2月12日]] - マッキンリー冬期単独登頂(世界初) == 性格 == 植村家は代々[[農家]]で、直己の祖父は損得・金勘定抜きで困っている人を助ける性分だった。 直己もこの祖父の血を引いており、登山隊に加わる時にはトップに立ちたいという想いはあっても、自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場に立った。高校時代は学校の池の鯉を友人と焼いて食べるなどいたずら好きな少年だったが、[[ガキ大将]]的なところはなく、成績も平凡で目立たず地味な存在だったという。 [[明治大学]]山岳部時代にはコロコロとしょっちゅう転ぶことから[[ドングリ]]とあだ名され、入部当時は馬鹿にされていたが、少しでも同期の連中と肩を並べたいと密かに日本の山岳行を繰り返し、その陰の努力が実ってサブリーダーにまでなっている。 数々の冒険の成功から大胆不敵な面がクローズアップされているが、実際には人一倍臆病な性格で、十分な計画と準備を経て必ず成功するという目算なしには決して実行しなかった。体力以外に取り立てて優れている面があるわけではない自分に対して常に劣等感を抱いており、記者会見などで自分が持ち上げられることを極度に嫌った。 しかし公子夫人や知人の多くが指摘しているように、逆にその劣等感をバネにして数々の冒険を成功させたともいえる。人前に立つのは大の苦手で、資金集めの講演会や記者会見で大勢を前にして話をする際は、第一声を発するまでしばらく気持ちを落ち着けなければならなかったが、口下手ながら自身の体験に基づいた講演は多くの聴衆に感動を与えた。 == 冒険スタイル == 単独行に傾倒した以降の植村は、[[アマゾン川]]単独河下り、北極点単独[[犬ぞり]]到達、[[グリーンランド]]単独犬ぞり縦断など数々の有名な冒険を達成している。ここでの植村の特徴は、例えば登山における高度順化といった度合いを超えて、冒険する現地で長期間を過ごして言わば生活順化することから始めるという点にあった。特に犬ぞり行に先立つ約五ヶ月は単身グリーンランドのエスキモー宅に寄宿し、衣食住や狩・釣り・犬ぞりの技術に至るまで、極地に暮らす人々から直に学ぶことに努めた。従ってアマゾン行では主な食料源は釣りとバナナに頼り、犬ぞり行では釣りと狩猟で得られる生肉と脂を中心に、持参の紅茶とビスケットで補完するといった食生活だった。俗に[[アザラシ]]の漬物と言われる[[キビヤック]]はその特異な製法と強烈な異臭で知られているが、植村はこれが大好物だったという話は有名である。これらの挿話は、先進国の機材や物資を大量に持ち込んで言わば西欧文明流の力押しで自然を制覇するという近代以降の冒険流儀を一概によしとしなかった植村の思想性を表している。 ただし盲目的に現地の流儀にこだわったわけではない。植村の犬ぞりは現地の伝統的な構造と製法に則りつつ、構造材としては[[繊維強化プラスチック]]を利用した例があった。極地用の[[テント]]は自ら考案したものを使用した。冬山登山などでは、1964年11月モンブランで[[クレバス]]に落ちながら[[アイゼン]]と荷物が引っかかり九死に一生を得た経験から、何本もの竹竿をストッパーとして身体にくくり付けていた。植村が行方不明となった最後のマッキンリー行においても、肩に[[竹竿]]をくくりつけて登攀して行く姿が見られた。 == エピソード == [[エベレスト]]登頂の際「カメラより山頂の石をみんなに見せた方がいい」と松浦輝夫を説得し、「カメラからテープを抜こうとして、手が滑ってネパール側に落としてしまった」という言い訳を考え、[[日本放送協会|NHK]]から渡されていた最新型の[[ビデオカメラ]]を山頂に置いていった。その後、カメラは日本の第二次登頂隊によって発見され、無事に日本に戻ってきた。 また、エベレストの山頂には植村がアマゾン川探検の頃に日本で交通事故死した、明大山岳部同僚・小林正尚の生前の写真を埋めたという逸話がある。共に登頂を果たした松浦輝夫も同じく、山頂に写真を埋めている。 犬ぞりによる北極点到達挑戦の際には、テレビ番組制作を担った[[毎日放送]]から8mmカメラを託され、冒険中に自分の犬ぞりが氷原の彼方に走り去る場面を撮影した。周囲には誰もいないことから、その後彼方から引き返しカメラとフィルムを回収、貴重な記録映像となった。当時の番組にはその「歩いて戻って来る植村直己」のユーモラスな様子も放送されている。 生前に「冒険で死んではいけない。生きて戻ってくるのが絶対、何よりの前提である」という言葉を残していたが、上記の通り最期は冒険の下山中に行方不明となってしまった。夫の消息不明・生存の可能性ゼロの為捜索活動打ち切りとなった報道に関して、妻の公子は「夫は『生きて帰る事が冒険だ』といつも偉そうに言ってたくせに、ちょっとだらしないんじゃないの?と言ってやりたい気持ちです」と、記者陣に対して悲しみを堪えつつも気丈に答えていた。 == 著書 == * 『青春を山に賭けて』([[毎日新聞社]],[[1971年]])ISBN 416717801X * 『極北に駆ける』([[文藝春秋]],[[1974年]])ISBN 4167178028 * 『北極圏一万二千キロ』(文藝春秋,[[1976年]])ISBN 4167178036 * 『北極点グリーンランド単独行』(文藝春秋,[[1978年]])ISBN 4167178044 * 『冒険と人生』([[聖教新聞社]],[[1980年]]) * 『冒険』(毎日新聞社,[[1980年]])ISBN 4-09-411031-3 * 『男にとって冒険とは何か:植村直己対談・エッセイ集』([[潮出版社]],[[1981年]]) * 『エベレストを越えて』(文藝春秋,[[1982年]])ISBN 4167178052 * 『植村直己の冒険学校』(文藝春秋,[[1986年]])ISBN 4163407804 * 『植村直己 妻への手紙』(文藝春秋,[[2002年]])ISBN 4-16-660275-6 * 植村直己著,文藝春秋編『植村直己 挑戦を語る』(文藝春秋,[[2004年]])ISBN 4-16-660390-6 == メディア == === 関連書籍 === * 高橋進編『登頂ゴジュンバ・カン:明治大学ヒマラヤ登山隊の記録』([[茗渓堂]],[[1967年]]) * 小西政継著『グランドジョラス北壁:ウオーカー稜冬期日本人初登攀』([[山と渓谷|山と溪谷社]],[[1971年]]) ISBN 4-12-551830-0 * 山と溪谷社編『植村直己冒険の軌跡:どんぐり地球を駆ける』(山と溪谷社,[[1978年]]) * 相沢裕文,松本照雄著『極地に燃ゆ:にんげん植村直己』(毎日新聞社,[[1979年]]) * 『お茶の水図書館教養の集い四十四話:第三集』(石川文化事業財団[[お茶の水図書館]],[[1983年]]) * 中島祥和著『遥かなるマッキンリー:植村直己の愛と冒険』([[講談社]],[[1984年]])ISBN 4-06-101505-2 * [[本多勝一]],武田文男編『植村直己の冒険を考える』([[朝日新聞社]],[[1984年]])ISBN 4-02-260666-5 * 高橋辰雄著『南北夢幻:高橋辰雄作品集』(ダイナミックセラーズ,[[1985年]]) * [[多田雄幸]]著『オケラ五世優勝す:世界一周単独ヨットレース航海記』(文藝春秋,[[1985年]])ISBN 978-4167482015 * 本多勝一著『冒険と日本人』(朝日新聞社,[[1986年]])ISBN 4-02-260815-3 * 明治大学山岳部炉辺会編『極北に消ゆ:植村直己捜索報告・追悼集』(山と溪谷社出版事業部,[[1986年]])ISBN 4-635-88504-6 * 大田誠著『少年植村直己』([[北斗社]],[[1986年]])ISBN 4-938560-01-1 * 長尾三郎著『マッキンリーに死す:植村直己の栄光と修羅』(講談社,[[1986年]])ISBN 9784061844384 * 能勢順著『植村ですどうもすみませんです』([[教育出版センター]],[[1986年]])ISBN 4-7632-7900-9 * 広江研著『わが友植村直己:ドングリよもう一度帰って来て南極や野外学校の夢を聞かせてくれ!』([[立花書院]],[[1986年]]) * 文藝春秋編『植村直己の世界』(文藝春秋,[[1986年]])ISBN 4-16-340590-9 * 小西政継著『小西政継ボクのザイル仲間たち』(山と溪谷社,[[1987年]])ISBN 4-635-17027-6 * 大島育雄著『エスキモーになった日本人』(文藝春秋,[[1989年]])ISBN 4-16-343500-X * 文藝春秋編『文藝春秋にみる昭和史:第三巻』(文藝春秋,[[1988年]])ISBN 4-16-362650-6 * 文藝春秋編『植村直己記念館』(文藝春秋,[[1991年]])ISBN 9784163803401 * 能勢順著『遥かなる人:植村直己物語』([[廣済堂あかつき|広済堂出版]],[[1991年]])ISBN 4-331-65095-2 * 兵庫県小学校教育研究会国語部会『兵庫の人物ものがたり』(日本標準,[[1991年]]) * 舟津圭三著『犬ぞり隊、南極大陸横断す』(講談社,[[1992年]])ISBN 4-06-206019-1 * ビーパル編集部編『植村直己と山で一泊:登山靴を脱いだ冒険家、最後の世間話』([[小学館]],[[1993年]])ISBN 4-09-411032-1 * 上田平雄著『植村直己:世界の冒険王』(但馬文化協会,[[1994年]]) * 植村修著『弟・植村直己』(編集工房ノア,[[1999年]]) * 佐瀬稔著『残された山靴:志なかばで逝った8人の登山家の最期』(山と溪谷社,[[1999年]])ISBN 4-635-17138-8 * [[野口健]],[[白石康次郎]]著『大冒険術:ぼくらはなぜ世界に挑むのか』(文藝春秋,[[2000年]])ISBN 978-4163562704 * 大場満郎著『笑って死ねる人生がいい』([[集英社]]インターナショナル,[[2000年]])ISBN 4-7976-7016-9 * 長尾三郎著『激しすぎる夢:「鉄の男」と呼ばれた登山家・小西政継の生涯』(山と溪谷社,[[2001年]])ISBN 9784635340175 * 植村修編『植村直己スピリッツよ永遠に』(植村修,[[2001年]]) * 大前孝夫著『拝啓植村直己様』([[神戸新聞]]総合出版センター,[[2003年]])ISBN 4-343-00232-2 * 大谷映芳著『辺境へ』(山と溪谷社,[[2003年]])ISBN 4-635-25008-3 * 植村修著編『植村直己ふるさと物語』(植村修,[[2004年]]) * 『植村直己:夢・冒険・ロマン』([[河出書房新社]],[[2004年]])ISBN 9784309976877 * 植村修編『植村直己のこころ』(植村修,[[2006年]]) * 植村修編『植村直己の記憶 第1部:誕生からの足跡 生存中の写真集』(植村修,[[2008年]]) * 植村修編『植村直己の記憶 第2部:誕生からの足跡 不明後の写真集』(植村修,[[2008年]]) === テレビ番組 === *『ドキュメンタリー青春・わが名はアニマル』[[毎日放送]]([[1970年]][[12月5日]]放送) *『全記録! 植村直己北極点に立つ』毎日放送([[1978年]][[6月4日]]放送) *『植村直己 北極点を越えて4000キロ〜孤独の165日』毎日放送([[1978年]][[10月10日]]放送)[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]受賞 *『植村直己チベットを行く』毎日放送([[1979年]][[8月5日]]放送) *『エベレストへの序奏〜植村直己冒険の軌跡』毎日放送([[1980年]][[6月7日]]放送) *『[[アンデス山脈|アンデス]]の白い恐怖〜植村直己6960mアコンカグアに立つ』毎日放送([[1980年]][[10月10日]]放送) *『遥かなり・厳冬のエベレスト〜植村直己壮絶の58日』毎日放送([[1981年]][[2月22日]]放送) *『植村直己 南極に挑む〜夢大陸ひとりぼっち』毎日放送([[1982年]][[4月24日]]放送) *『南極・夢大陸370日〜植村直己の越冬日記』毎日放送([[1983年]][[5月5日]]放送) *『男のロマン果てしなく 植村直己極限との闘い』毎日放送([[1983年]][[11月23日]]放送) *『うちのダンツク 植村直己〜公子夫人の亭主談義』毎日放送([[1984年]][[2月4日]]放送) *『この笑顔よ永遠に〜植村直己 氷雪に消ゆ』毎日放送([[1984年]][[3月21日]]放送) *『植村直己特番・夢叶い夢破れ〜植村直己の全探検記録』毎日放送([[1984年]][[6月16日]]放送) *『偉大なる冒険家・植村直己に捧げる〜[[1984年]][[2月20日]]マッキンリー快晴無風、さようならナオミ』[[テレビ朝日]]([[1984年]][[7月2日]]放送) *『[[映像]]80:素顔の植村直己〜すぐ帰ってくるからね』毎日放送([[1984年]][[11月10日]]放送)芸術祭受賞 *『大いなる足跡〜植村直己ドキュメンタリーアゲイン』毎日放送([[1986年]][[5月]]放送=5夜連続) *『[[MBSナウ]]:アラスカ大紀行〜冒険王・植村直己の足跡を追う』毎日放送([[1994年]][[5月10日]]放送) *『[[スペースJ]]:生きる〜冒険王・植村直己遭難から10年』毎日放送/[[TBSテレビ|TBS]]([[1994年]][[5月11日]]放送) *『[[驚きももの木20世紀]]:植村直己・悲劇の山の謎』朝日放送([[1996年]][[2月2日]]放送) *『冒険王植村直己・夢叶い、夢破れ〜極限に挑み続けた男の全行動記録』毎日放送([[2004年]][[1月3日]]放送) *『[[ラストメッセージ]]第四集:夢果てしなく 冒険家植村直己』[[日本放送協会|NHK]]([[2007年]][[3月18日]]放送) *『[[日立 世界・ふしぎ発見!]]:アラスカ・マッキンリーに消えた冒険家 植村直己』TBS([[2007年]][[10月27日]]放送) *「冒険家 植村直己没後25年『偉大なる冒険家・植村直己に捧げる〜[[1984年]][[2月20日]]マッキンリー快晴無風、さようならナオミ』」[http://www.bs-asahi.co.jp/ BS朝日]([[2009年]][[2月15日]]放送、テレビ朝日[[1984年]][[7月2日]]に放送された番組の[[再放送]]) その他 * [[こだわり人物伝]]『笑顔の冒険家 植村直己』[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]([[2010年]][[8月4日]]から放送) *『[[歴史秘話ヒストリア]]:植村直己 北極圏1万2千キロ大冒険』NHK([[2014年]][[4月16日]]放送) === 映像 === <!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 --> *『冒険家・植村直己の世界』(テレビ朝日製作)植村直己冒険館のみの販売 === モデルになった映像作品 === *『[[植村直己物語]]』 - [[佐藤純彌]]監督。[[1986年]]。電通・毎日放送製作、[[東宝]]配給の映画。植村直己役を[[西田敏行]]が演じた。植村直己の伝記物語。当初は作家の[[椎名誠]]に主演を打診したが、撮影期間と椎名のシベリア冒険の期間が重なることから辞退したとされる。 *『あの人は風でした 植村直己とその妻』 - [[浅生憲章]]演出。[[橋本忍]]、[[橋本信吾]]脚本。[[1985年]][[6月22日]]と29日に[[TBSテレビ|TBS]]系『[[日立テレビシティ]]』で放送した、前後編の[[テレビドラマ]]。植村直己役を[[西川きよし]]が演じた。 === 音楽 === * 『風を切って』([[橋本祥路]]:[[作曲]],土肥武:[[作詞]],[[1987年]])植村の功績を讃えた歌付き合奏曲。[[教育芸術社]]刊の小学校5年生用音楽[[教科書]]に採用されている。 *『星のクライマー』([[麗美|REIMY]]:[[作曲]],[[松任谷由実]]:[[作詞]],[[1984年]])植村をモデルに作られた曲。麗美のアルバム「"R"」([[1984年]])、[[松任谷由実]]の[[アルバム]]「[[Yuming Compositions: FACES|Yuming Compositions:FACES]]」([[2003年]])収録。 == 顕彰施設 == [[ファイル:130914 Uemura Naomi Memorial Museum Toyooka Hyogo pref Japan24s3.jpg|thumb|[[植村直己記念スポーツ公園]]]] * [[植村直己記念スポーツ公園]] * [[植村直己冒険館]] * [[植村冒険館]] == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[植村直己冒険賞]] * [[おびひろ動物園]] * [[登山家]]、[[登山家一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat|Naomi Uemura}} * [http://www3.city.toyooka.lg.jp/boukenkan/index.html 植村直己冒険館(兵庫県豊岡市)] * [http://www.uemura-museum-tokyo.jp/ 植村冒険館(東京都板橋区)] * [http://www2.nkansai.ne.jp/uemura/ 植村直己自然学校] * [http://park16.wakwak.com/~uoos.obihiro/ 植村直己・帯広野外学校] {{国民栄誉賞}} {{デフォルトソート:うえむら なおみ}} [[Category:植村直己|*]] [[Category:日本の探検家]] [[Category:日本の登山家]] [[Category:エベレスト登頂者]] [[Category:国民栄誉賞受賞者]] [[Category:菊池寛賞受賞者]] [[Category:消息不明となった人物]] [[Category:山で遭難死した人物]] [[Category:兵庫県出身の人物]] [[Category:1941年生]] [[Category:1984年没]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:Commonscat
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Infobox 人物
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Reflist
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:国民栄誉賞
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:没年齢
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:混同
(
ソースを閲覧
)
植村直己
に戻る。
検索
検索
植村直己のソースを表示
話題を追加