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梁習
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'''梁 習'''(りょう しゅう、? - [[230年]])は、[[後漢]]末から[[三国時代 (中国)|三国時代]]にかけての武将・政治家。[[字]]は'''子虞'''。梁施の父。陳郡柘県の人。 『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏 (三国)|魏]]志に独立した伝がある。また、[[裴松之]]によると、『魏略』においての伝は[[徐庶|徐福]]、厳幹、李義、[[張既]]、游楚、[[裴潜]]、[[趙ゲン|趙儼]]、韓宣、黄朗と同じ伝に収録されていたという(『三国志』魏志「裴潜伝」)。 == 生涯 == はじめは郡の綱紀となり、後に後漢の[[司空]]であった[[曹操]]に仕え、各地の長や県令を務めた。 海西の令を務めていたとき、海西・淮浦の住民が反乱を起こしたので、都尉の衛弥と共に広陵郡の綱紀の[[徐宣 (曹魏)|徐宣]]の家に赴き救出してやったという(『三国志』魏志「徐宣伝」)。 中央に戻ったときには西曹令史となり、しばらくして西曹属になった。同僚の王思が曹操の不興を買いそうになったのを庇い、共に死罪となりそうになったが、その姿勢を見た曹操にかえって義士として賞賛された。 [[并州]]が曹操の支配圏に収まったころ、別部司馬のまま并州[[刺史]]の代行となった。そのころの并州は、[[袁紹]]時代に刺史であった[[高幹]]の騒乱の影響で武装した豪族が跳梁跋扈し、近隣の異民族である[[匈奴]]の影響も及んでいた。梁習は有力者達を招聘して軍から引き離させ、兵と成りうる成人男子を義勇兵として徴用し、曹操軍に組み入れ、さらに家族を[[ギョウ|鄴]]へ移住させた。招聘に応じなかった者は武力で鎮圧し、4桁の首級と5桁の捕虜を得た。このころには匈奴は恭順の姿勢を示すようになっていた。 領内に平和が訪れると、産業の育成と人材の登用に努めた。このときに登用された人材として、[[常林]]・[[楊俊 (曹魏)|楊俊]]・[[王凌]]・[[王象]]らの名が挙がっている(『三国志』魏志「常林伝」)。梁習の刺史としての功績を曹操は褒め称え、[[関内侯]]を与えた。また領民からも慕われた。 [[213年]]、并州と[[冀州]]が合併することになると、梁習は議郎・西部[[都督]]従事となり、元の部族民を引き続き支配した。この時期の仕事としては、上党(地名)へ使いをおくり宮殿造営のための木材を調達したこと、役人を設置し街道を整備したことが挙がっている。 度々乱暴を働いていた[[鮮卑]]の育延を斬り、残りの者達を従わせ、後に謀叛を起こした[[烏桓]]の魯昔を、鮮卑を使って追討させ討ち取った(『魏略』)。 [[曹丕]](文帝)の時代に并州が再び設置されると、梁習が再び刺史となり、申門亭侯と百戸の所領を得た。再び治績の面で高い評価を得た。 [[225年]]、[[鮮卑]]の[[軻比能]]を討伐し、大勝した(『三国志』魏志「文帝紀」) [[曹叡]](明帝)の代、[[228年]]に中央に戻り[[大司農]]となった。梁習は刺史の座に長くいたにも関わらず、私腹を肥やすことがなかったので、明帝は梁習を厚遇した上で賜り物を与え、功績を労った。 [[230年]]に亡くなり、子の梁施が後を継いだ。 小説『[[三国志演義]]』には登場しない。 == 参考資料 == *『三国志』 {{DEFAULTSORT:りよう しゆう}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:230年没]]
梁習
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