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[[画像:Shishou Ka.jpg|thumb|180px|柯子彰]] '''柯 子彰'''('''か ししょう''' [[1910年]] - [[2001年]])は、[[ラグビー]]の選手、指導者。ポジションは[[ラグビーのポジション#スリークォーターバック|センター]]。 == 人物 == [[台湾]]出身。中国大陸[[福建省]]で育ち、13歳で来日。父方の伯父の妻は、台湾の医学界でも有名なカナダ人宣教師[[馬偕]]博士(Dr.Mackay)の娘という敬虔なキリスト教家庭に育ったことから、 旧制[[同志社高等学校|同志社中学]]に進学。その後、[[早稲田大学]]に進み、[[早稲田大学ラグビー蹴球部]]に入部。1930年(昭和5年)にはラグビー全日本のカナダ遠征選手に選抜される。1934年(昭和9年)の豪州学生選抜戦では23歳3ヶ月20日の若さで日本代表のキャプテンを務め、これは現在に到るまで歴代日本代表の最年少主将として記録されている。 早稲田ラグビーのお家芸といわれる「揺さぶり戦法」を生み出した。最終学年では主将に就任。昭和初期の早稲田ラグビー黄金期を飾る名プレーヤーとして名を馳せる。日本代表CTBとして4キャップを得た。「柯子彰の前に柯子彰なく、柯子彰の後に柯子彰なし」と言われた。大学卒業後は[[南満州鉄道|満鉄]]に勤務。そこでもラグビーの普及に尽力。戦後は台湾に戻り、1946年11月1日には[[中華民国ラグビーフットボール協会|台湾ラグビー協会]]を設立。台湾でラグビーを普及するために奔走したことから「台湾ラグビーの父」と呼ばれる。 2001年4月、台北にて没。 なお、[[森喜朗]]元首相は2003年12月の台湾訪問の目的のひとつとして、父のラグビー仲間であった柯子彰の墓参りを挙げている。 [[2002年]]に台湾の[[公共電視]]が、台湾を代表するラガーマン柯子彰のドキュメンタリー番組「永遠の13番」を製作。 == 外部リンク == *[http://www.ncpfs.gov.tw/museum/museum-1-1.aspx?No=89 柯子彰略歴(中文)] {{DEFAULTSORT:か ししよう}} [[Category:台湾のラグビー選手]] [[Category:在日外国人のラグビー選手]] [[Category:早稲田大学ラグビー蹴球部の選手]] [[Category:1910年生]] [[Category:2001年没]]
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