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林森
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{{中華圏の人物 | 名前=林森 | 画像=[[Image:Lin sen.jpg|200px]] | 画像の説明= | 出生=[[1867年]][[3月16日]]<br/>([[清]][[同治]]6年2月11日) | 死去=[[1943年]]([[民国紀元|民国]]32年)[[8月1日]]<br/>{{CHN1928}}[[重慶市]] | 出身地={{QIN1890}}[[福建省]][[福州市|福州府]][[ビン侯県|閩侯県]]尚幹郷 | 職業= | 簡体字={{lang|zh-hans|林森}} | 繁体字={{lang|zh-hant|林森}} | ピン音={{lang|zh-hant|Lín Sēn}} | 通用=Lín Sen | 注音=ㄌ|ㄣˊ ㄙㄣ | 注音二式=Lín Sēn | 和名=りん しん | 発音=リン セン | ラテン字=Lin Sen | 英語名= }} '''林 森'''(りん しん)は[[清|清末]][[中華民国|民初]]の[[政治家]]。[[中国同盟会]]以来の古参の革命派人士で、[[中国国民党]]では[[西山会議派]]に加わった右派として知られる。後に[[国民政府]]で長く主席をつとめた。[[字]]は'''子超'''、号は'''長仁'''。 == 事跡 == === 清末の革命活動 === 商人の家庭に生まれ、[[1877年]]([[光緒]]3年)にアメリカの教会が運営する培元学校に入学し、[[1881年]](光緒7年)には鶴齢英華書院に入学した。卒業後の[[1884年]](光緒10年)に[[台北]]の電報局に勤務し、[[1898年]](民国25年)には[[台南市|台南]]法院[[嘉義市|嘉義]]支部で通訳をつとめている。 [[1902年]](光緒28年)に[[上海市|上海]]の[[税関]]である[[江海関]]に異動した。その傍ら革命運動に身を投じ、福建学生会を組織し、そして[[孫文]](孫中山)が[[1905年]](民国31年)に[[中国同盟会]]を組織すると、林と学生会の構成員もこれに加入している。[[1909年]]([[宣統]]元年)、[[江西省]]の[[九江市|九江]]関に異動し、[[呉鉄城]]らと革命派の宣伝や秘密の武装組織設立、他省の革命派との連携に従事した。 [[1911年]](宣統3年)10月の[[武昌起義]]勃発に伴い、林森は江西の新軍統領[[馬毓宝]]に江西省独立を宣言させ(10月23日)、九江軍政府を組織させた。林は民政長に、呉鉄城は総参議に、それぞれ就任している。11月中旬に各省都督府代表連合会が開催されると、林は江西代表としてこれに出席し、臨時政府組織大綱の制定や孫文の臨時大総統選出に携わった。 === 反袁世凱運動と護法運動 === 翌[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)に[[臨時参議院]]が[[南京市|南京]]で成立すると、林森が議長に選出されている。しかし、孫文が臨時大総統の地位を譲ることになった[[袁世凱]]が[[北京市|北京]]遷都を要求してくると、林はこれに反発し、議長を辞任した。[[1913年]](民国2年)4月、林は[[福建省 (中華民国)|福建省]]選出の参議院議員となり、参議院全院委員長に選出された。同年7月、孫が[[第二革命]](二次革命)を発動、失敗したが、林は国会に残って反袁世凱の活動を続ける。しかし11月には国会も停止されてしまい、林は日本へ亡命した。 日本では孫文が結成した[[中華革命党]]に加入し、[[黄興]]支持派の[[欧事研究会]]にも名を列ねた。その後は海外、特にアメリカで反袁世凱のための資金募集、海外支部設立などに従事し、[[1914年]](民国3年)冬に[[国民党 (宋教仁)|国民党]]美洲(南北アメリカ)総支部支部長に選出されている。 袁世凱死後の[[1916年]](民国5年)8月、国会の再開とともに林森は帰国して議員に復帰した。国会では反[[段祺瑞]]の姿勢を明確にし、国民党系の[[憲政商カク会|憲政商榷会]]の中でも特に急進派とされた「丙辰倶楽部」に属している。[[1917年]](民国6年)8月、孫文の[[護法運動]]に参加するため、林は[[広州市|広州]]に向かい、護法軍政府(大元帥府)外交部長に任ぜられた。しかし翌年5月に護法軍政府が7総裁による集団指導制に改められ、[[岑春ケン|岑春煊]]が主席総裁として孫から実権を奪うと、林は怒って[[上海市|上海]]に一時引退している。 [[1920年]](民国9年)11月、孫文が[[陳炯明]]の協力で岑春煊を失脚させると、林森も復帰し、広州非常国会議長に選出された。その後、孫がもくろむ北伐のために海外で資金収集にあたっている。[[1922年]](民国11年)11月、林は[[許崇智]]率いる広東軍の援助を受けて福建省入りし、省長に就任した。しかし、まもなく許は広東へ引き返さざるを得なくなり、後ろ盾を失った林も、[[北京政府]]を支持する[[薩鎮氷]]との政争に敗れて翌年2月に省長を辞任している。7月、大本営建設部長兼治河督弁に任命された。 === 中国国民党での活動 === [[File:林森.jpg|200px|right|thumb|介寿公園内に立つ林森の銅像]] [[1924年]](民国13年)1月、[[中国国民党]]が結成されると、林森は中央執行委員に選出された。しかし林は、孫文が主張する聯ソ、聯共、扶助農工の三大政策には反対の立場をとっている。翌年3月に孫が死去すると、林は[[鄒魯]]らの反共右派に与し、同年11月に北京の西山碧雲寺で開催された右派独自の国民党第1期4中全会(西山会議)に参加した。林は[[西山会議派]]において中央常務委員兼海外部長に任命されている。 [[1927年]](民国16年)9月、西山会議派は反共路線へと転じた[[蒋介石]]・[[汪兆銘]](汪精衛)に合流し、林森も南京の新たな国民政府に参加した。翌年10月、林は[[中華民国立法院|立法院]]副院長に任ぜられ、[[1929年]](民国18年)3月の国民党第3回全国代表大会では、中央監察委員に選出されている。 [[1931年]](民国20年)2月、立法院長[[胡漢民]]が蒋介石との対立の末に軟禁され、これに反発した[[汪兆銘]]らが対抗して5月に[[広州市|広州]]国民政府を樹立する。このとき、林は後任の立法院長に任命されたものの、すでに海外へ視察に赴いており、事務は代理の[[邵元沖]]が担当した。また、林は広州国民政府に名こそ列ねていたものの、積極的な反蒋活動にはかかわらず、同年10月に帰国すると、むしろ両派の調停に尽力している。 === 国民政府主席としての晩年 === 同年12月、[[満州事変]]に伴う大同団結がなり、国民政府は再統一される。このとき、蒋介石は政治的妥協から下野し、林森が後任の国民政府主席に就任した。以後、死去するまでの約12年間、林はこの地位にあり続けたが、実権は蒋介石が握り、林自身が政治的に大きな指導力を発揮する機会は皆無に等しかった。 [[1943年]](民国32年)5月、林森は交通事故で負傷し、それが原因で同年8月1日に[[重慶市|重慶]]で死去した。享年77(満76歳)。 === 人物像その他 === 林森は自ら'''青芝老人'''と自称するほど、福建省[[連江県]]青芝山の自然を愛し、墓所も青芝山の傍らにたてられた。この墓所は[[文化大革命]]期に破壊されたが、後[[1979年]]に修復された。 台湾でも林森の功績を記念して、[[中華民国総統府|総統府]]脇の[[介寿公園]]には彼の銅像が建てられ、また中山区の[[日本人墓地]]跡に立てられた公園は[[林森公園]]と名づけられた。このほか、台湾主要都市に林森の名を冠した道路([[林森路]])が多数存在する。 == 参考文献 == * <span style="font-size:90%;">娄献閣「林森」{{Cite book|和書|author = [[中国社会科学院]]近代史研究所|title = 民国人物伝 第2巻|year = 1980|publisher = [[中華書局]]|isbn = }}</span> * <span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書|author = 劉寿林ほか編|title = 民国職官年表|year = 1995|publisher = 中華書局|isbn = 7-101-01320-1}}</span> {| class="wikitable" style="margin:0 auto" |- ! {{CHN1928}}([[国民政府]]) {{先代次代|南京国民政府常務委員|<small>[[1928年]]1月 - 2月<br>(集団指導制:[[汪兆銘]]、[[譚延ガイ|譚延闓]]、<br>[[胡漢民]]、[[蔡元培]]、[[李烈鈞]]、[[于右任]]、<br>[[蒋介石]]、[[孫科]])</small>|集団指導制:[[汪兆銘]]ら5名|集団指導制:[[譚延ガイ|譚延闓]]ら5名}} {{先代次代|[[中華民国立法院|立法院長]]|<small>[[1931年]]3月 - 12月<br/>([[邵元沖]]代理)</small>|[[邵元沖]]|[[張継 (民国)|張継]]}} {{先代次代|[[国民政府#国民政府主席一覧|主席]]|<small>[[1931年]]12月 - [[1943年]]8月</small>|[[蒋介石]]|[[蒋介石]]}} |} {{DEFAULTSORT:りん しん}} [[Category:中華民国の人物 り|ん しん]] [[Category:中華民国の首相]] [[Category:国民政府の政治家]] [[Category:中国国民党の政治家]] [[Category:立法院長]] [[Category:中国同盟会の人物]] [[Category:欧事研究会の人物]] [[Category:国民党 (宋教仁) の人物]] [[Category:交通事故死した人物]] [[Category:日中戦争の人物]] [[Category:第二次世界大戦期の政治家]] [[Category:福州出身の人物]] [[Category:中国の紙幣の人物]] [[Category:1868年生]] [[Category:1943年没]]
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