林柳波のソースを表示
←
林柳波
移動先:
案内
、
検索
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
'''林 柳波'''(はやし りゅうは、[[1892年]]([[明治]]25年)[[3月18日]] - [[1974年]]([[昭和]]49年)[[3月27日]])は[[詩人]]。兄は陸軍獣医少将の[[林里二]]。 == 人物 == 林柳波は1892年(明治25年)、[[群馬県]][[沼田市]]に農家の三男として生まれた。本名は林照壽(てるとし)。一時、柴田姓を名乗ったこともある。早くから雑誌へ童謡詩の投稿を行う文学少年だった。13歳のとき、兄を頼って上京。[[1910年]](明治43年)明治薬学校(現・[[明治薬科大学]])を卒業。同年[[薬剤師]]の国家試験に合格すると、やがて明治薬学校の講師となった。 他方、[[1911年]](明治44年)から東京[[本郷 (文京区)|本郷]]で薬局を開業。[[1916年]]([[大正]]5年)に最初の結婚をしたが、翌年死別した。また、健康上の理由をきっかけに宗教・哲学にも興味を持ち、神霊万能を説く「健全哲学 (哲理療法)」の普及活動を行ったこともあった。 [[1919年]](大正8年)[[1月13日]]、9つ年上の未亡人、[[林きむ子|日向(ひなた)きむ子]]と再婚。きむ子は大正3美人の1人として名高く、代議士[[日向輝武]]の妻で、社交界の花形だった。きむ子はその美貌を看板に化粧品の製造・販売も行っており、柳波は薬剤師として化粧品の改良に助言を行うことなどで、きむ子との繋がりを強めたと思われる。きむ子は夫輝武との間に既に6人の子があったが、輝武は疑獄事件([[大浦事件]])に巻き込まれ、[[1918年]](大正7年)[[5月28日]]、狂死。夫の死から1年も経たぬうちの再婚は、夫の死で世間の同情を集めていたきむ子の評判を落とした。折りしも[[1月5日]]、愛人[[島村抱月]]を追って自殺した[[松井須磨子]]と比較されて一大スキャンダルとなったが、柳波は渦中のきむ子をよく支えた。柳波ときむ子は本郷にあったきむ子の化粧品店「瓢々堂」に新居を構え、2人の子をもうけた。 1918年(大正7年)、[[鈴木三重吉]]が創刊した『[[赤い鳥]]』を契機に童謡運動が盛んとなった。[[童謡]]の代表的詩人として知られる[[野口雨情]]の依頼により、林きむ子は[[1925年]](大正14年)頃から童謡に振付けを行い、雑誌『[[金の星]]』に写真入り解説の掲載を始めた。これが縁となって、林柳波も雨情の影響で再び詩作を行うようになり、娘たちと共に公演旅行を行って「童謡舞踊」を広めたきむ子と共に、童謡運動に貢献した。 昭和に入ると童謡運動は下火となったが、柳波は詩集の出版を行う一方、[[1937年]](昭和12年)、[[音楽著作権協会]]設立委員、文部省[[国民学校]]教科書芸能科編纂委員となった。当時[[文部省唱歌]]は作者名を公表しないことになっていた。柳波は、野口雨情の弟子、[[権藤花代]]の童謡詩『タナバタサマ』が選考に漏れたのを補作して委員会で再議し、採用された。これは後に、[[第二次世界大戦]]後、作者名が公表されるに及んで、林柳波が盗作疑惑を受ける原因となった。 レコード作家としての才能も開花させ、1929年(昭和4年)、ヒコーキレコードから「まぼろしの泉」で作詞家デビュー。その後、「[[ああ我が戦友]]」、「野営の夢」などの軍国物から、「田植歌」、「お六娘」などのオペラを幅広く作詞。 [[1945年]](昭和20年)[[4月13日]]に空襲を受け、娘の療養先であった[[長野県]][[上高井郡]]小布施村(現[[小布施町]])に疎開。請われて地元の校歌や青年団歌、『小布施音頭』などを作詞し、小布施村公民館の初代館長(図書館長も兼任)にもなった。[[1949年]](昭和24年)、帰京。しかし、このころから次第に妻きむ子と疎遠になり、他の女性との間に子ができるに至って別居。以後、きむ子に繋がる童謡関係者との交友を断った。 [[1950年]](昭和25年)、明治薬科大学の図書館長に就任。以後も日本詩人連盟相談役、日本音楽著作権協会会員など、多くの公職を歴任した。[[1972年]](昭和47年)、勲四等瑞宝章受章。 妻の林きむ子は、[[1967年]](昭和42年)に死去。林柳波は1974年(昭和49年)に死去。[[1989年]]([[平成]]元年)沼田市名誉市民に顕彰された。 == 作品 == 代表作に『[[おうま|オウマ]]』、『[[海 (1941年の歌曲)|ウミ]]』、『うぐいす』、『羽衣』、『スキーの歌』など。他に『[[春の小川]]』([[高野辰之]]作詞)の口語訳や『たなばたさま』(権藤花代作詞)、『[[みなと (唱歌)|港]]』([[旗野十一郎]]作詞)の補作などでも知られる。 == 著書 == * (林照壽名義) 『無機化学要訣』 宮沢書店、1912年。 * (林照壽名義。[[藤井太吉]]との共著) 『新有機化学粋. 芳香体編,脂肪体編』 明治薬学校、1915年。 * (柴田照壽名義) 『受験記憶無機化学表解』 明治薬学校、1916年。 * (柴田照壽名義) 『薬剤師受験術』 宮沢書店、1917年。 * (柴田照壽名義。[[矢島襄二]]との共著) 『新製薬化学粋. 無機編,有機編』 明治薬学校、1917年-1918年。 * (林照壽名義) 『第四改正日本薬局方註解全集』 山百合庵書房、1921年。 * (林照壽名義) 『有機化学』 山百合庵書房、1924年。 * (林柳波名義) 『(詩集) 木蓮華』 秋山書房、1929年。 * (林照壽名義) 『黙示療法』 シンフオニー出版社、1931年。 * (林柳波名義) 『山彦』 京文社、1937年。 * (林柳波名義) 『剛堂恩田重信』 明友薬剤師会、1944年。 == 外部リンク == * [http://www.city.numata.gunma.jp/news/nenpu.html 沼田市ホームページ 林柳波 略年譜] == 参考文献 == * [[森まゆみ]]『大正美人伝 林きむ子の生涯』[[文春文庫]]、2003年、ISBN 4167421038 {{DEFAULTSORT:はやし りゆうは}} [[Category:日本の詩人]] [[Category:日本の薬剤師]] [[Category:NHK全国学校音楽コンクール課題曲作詞者・作曲者]] [[Category:明治薬科大学の教員]] [[Category:群馬県出身の人物]] [[Category:1892年生]] [[Category:1974年没]]
林柳波
に戻る。
案内メニュー
個人用ツール
ログイン
名前空間
ページ
議論
変種
表示
閲覧
ソースを表示
履歴表示
その他
検索
案内
メインページ
コミュニティ・ポータル
最近の出来事
新しいページ
最近の更新
おまかせ表示
sandbox
commonsupload
ヘルプ
ヘルプ
井戸端
notice
bugreportspage
sitesupport
ウィキペディアに関するお問い合わせ
ツール
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ
ページ情報