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林則徐
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{{政治家 |人名 = 林 則徐 |各国語表記 = 林 则徐<br />Lín Zéxú |画像 = Lin Zexu 1.jpg |画像説明 = |国略称 = {{PRC1889}} |生年月日 = [[1785年]]([[乾隆]]50年)[[8月30日]] |出生地 = [[ファイル:China Qing Dynasty Flag 1889.svg|25px|清国旗]] [[清|清国]][[福建省]][[ビン侯県|閩侯県]](現福州市閩侯県) |没年月日 = [[1850年]]([[道光]]30年)[[11月22日]](満65歳没) |死没地 = [[ファイル:China Qing Dynasty Flag 1889.svg|25px|清国旗]] [[清|清国]][[普寧市|普寧]] |出身校 = |称号・勲章 = 文忠([[諡]]) |親族(政治家) = |配偶者 = |サイン = |国旗 = |職名 = [[ファイル:China Qing Dynasty Flag 1889.svg|25px|清国旗]] [[清|清国]]<br />[[欽差大臣|欽差大臣(太平天国鎮圧担当)]] |就任日 = [[1850年]] |退任日 = [[1850年]][[11月22日]] |退任理由 = |元首職 = |元首 = [[道光帝]] |国旗2 = |職名2 = [[ファイル:China Qing Dynasty Flag 1889.svg|25px|清国旗]] [[清|清国]]<br />第8代 [[雲貴総督]] |就任日2 = [[1847年]] |退任日2 = [[1849年]] |退任理由2 = |元首職2 = |元首2 = [[道光帝]] |国旗3 = |職名3 = [[ファイル:China Qing Dynasty Flag 1889.svg|25px|清国旗]] [[清|清国]]<br />[[陝西省|陝西]][[巡撫]] |就任日3 = [[1846年]] |退任日3 = 1847年 |退任理由3 = |元首職3 = |元首3 = [[道光帝]] |国旗4 = |職名4 = [[ファイル:China Qing Dynasty Flag 1889.svg|25px|清国旗]] [[清|清国]]<br />第38代 [[両広総督]] |就任日4 = 1840年[[1月21日]] |退任日4 = 1840年[[10月3日]] |退任理由4 = |元首職4 = |元首4 = [[道光帝]] |国旗5 = |職名5 = [[ファイル:China Qing Dynasty Flag 1889.svg|25px|清国旗]] [[清|清国]]<br />第53代 [[両江総督]] |就任日5 = 1840年[[4月22日]] |退任日5 = 1840年4月22日 |退任理由5 = |元首職5 = |元首5 = [[道光帝]] |国旗6 = |その他職歴1 = [[ファイル:China Qing Dynasty Flag 1889.svg|25px|清国旗]] [[清|清国]]<br />[[欽差大臣|欽差大臣(阿片禁輸担当)]] |就任日6 = [[1838年]] |退任日6 = [[1840年]] |国旗7 = |その他職歴2 = [[ファイル:China Qing Dynasty Flag 1889.svg|25px|清国旗]] [[清|清国]]<br />第3代 [[湖広総督]] |就任日7 = [[1837年]][[3月]] |退任日7 = [[1839年]][[1月]] |その他職歴3 = [[ファイル:China Qing Dynasty Flag 1889.svg|25px|清国旗]] [[清|清国]]<br />[[江蘇省|江蘇]][[巡撫]] |就任日8 = [[1832年]] |退任日8 = [[1837年]] |国旗9 = |その他職歴4 = [[ファイル:China Qing Dynasty Flag 1889.svg|25px|清国旗]] [[清|清国]]<br />[[河道総督|東河河道総督]] |就任日9 = [[1831年]] |退任日9 = [[1832年]] |国旗8 = }} '''林 則徐'''(りん そくじょ、Lín Zéxú、[[1785年]][[8月30日]] - [[1850年]][[11月22日]])は、[[中国]][[清]]代の[[官僚]]、[[政治家]]。[[欽差大臣]]を二回務めている。 [[字]]は'''少穆'''(しょうぼく、Shǎomù)。[[諡]]は'''文忠'''(ぶんちゅう、Wénzhōng)。[[イギリス]]による[[阿片]][[密輸]]の取り締まりを強行し、これに対する制裁としてイギリスは[[阿片戦争]]を引き起こした。 ==経歴== [[File:Lin-Zexu.jpg|left|thumb|林則徐]] [[File:Penmanship of Lin Zexu 5.jpg|left|thumb|150px|林則徐の書]] [[File:Lin Zexu.jpg|right|thumb|林則徐|150px]] [[File:Penmanship of Lin Zexu 16.jpg|right|thumb|150px|林則徐の書]] [[福建省]][[ビン侯県|閩侯県]](現福州市閩侯県)に生まれる。父は[[科挙]]に挑戦してことごとく失敗したため、貧しい教師生活をしていた。林則徐はこの父の無念を晴らすべく学問に励み、[[1811年]]([[嘉慶 (中国)|嘉慶]]16年)、27歳の時に科挙に合格し進士となる。北京の[[翰林院]]に入った林則徐は、多くの行政資料を目の当たりにしてその研究に励んだという。その後地方官を歴任し、当時問題とされてきた農村の再建と、それに欠かせない治水問題に積極的に関わるとともに、不正な官吏の大量処分を断行した。彼の地方行政官としての手腕は今日でも高く評価されている。また、彼の阿片根絶の取り組みもこの時の経験から強く意識されたものであると考えられている。 [[1837年]]([[道光]]17年)に'''[[湖広総督]]'''(現在の[[湖北省]]と[[湖南省]]を合わせた地方の長官)になる。この時に管内での阿片根絶に実績を上げ、[[黄爵滋]]の「阿片厳禁論」に賛同し上書した。その実績と議論の精密さを[[道光帝]]は評価し、[[1838年]]に林則徐を阿片禁輸の[[欽差大臣]]に任命した。 [[1839年]]([[道光]]19年)、[[広東省|広東]]に到着した林則徐は、イギリス商人が持っている阿片を全て没収し、処分した。これに怒ったイギリス商人たちは林則徐に抗議し、最終的に阿片戦争を引き起こすことになった(詳しくは[[阿片戦争]]の項を参照)。 [[File:Destroy opium 2.jpg|left|thumb|300px|阿片を処分する林則徐]] 現地のイギリス商人を支援するために派遣されたイギリスの東洋艦隊は、広東ではなく[[北京市|北京]]に近い[[天津市|天津]]に現れた。間近に艦隊を迎えた清の上層部は狼狽し、慌てて林則徐を解任し、イギリスの意を迎えることに必死になった。林則徐の後任の[[キ善|琦善]]はひたすらイギリスに低姿勢で臨み、結果清が大幅に譲歩した[[南京条約]]を結ぶ事になった。 [[穆彰阿]]によって欽差大臣を解任された林則徐は[[新疆ウイグル自治区|新疆]]に左遷された。しかし、林則徐はここで農地改革を行い、善政を布いた事で住民から慕われた。林則徐にとってもこの場所で南下する[[ロシア帝国]]の脅威を実見できた事は大きな収穫であり、進士の後輩に対し「将来清の最大の脅威となるのはイギリスよりもむしろロシアだろう」と言い残した。これが後の[[左宗棠]]らの'''塞防派'''を形作る事になった。 [[1849年]](道光29年)に隠棲したが、[[太平天国の乱]]が勃発すると召し出され、太平天国に対する欽差大臣に任命された。そして任地に赴く道中に[[普寧市|普寧]]で病死した。[[両広総督]]兼南洋大臣などをつとめた[[沈葆楨]](1820年 - 1879年)の妻は、林則徐の娘、林普晴(1821年 - 1873年)である。 == 評価 == [[File:Fuzhou Linzexu.jpg|left|thumb|[[福州市|福州]]の林文忠公祠]] 林則徐が解任された理由の一つとして、当時の清の官僚には広東の商人から賄賂を受け取っている者が多く、林則徐によりその金が絶たれた事を恨む者がいた事がある。もしも林則徐がそのまま広東で指揮を取り続けていれば、イギリスを撃退できたのではないかという仮定はそれほど無理なものとも言えず、後世の中国人は強く惜しんだ。また、[[直隷]](首都圏、現在の[[河北省]])の再開発を行って財政・国防上に資するべきであるという長年温めてきた構想(『畿輔水利議』)を欽差大臣就任直後に上奏したために、他の高官(当時の出世コースであった[[直隷総督]]経験者が多かった)から「自分達の直隷での仕事ぶりを怠慢だと誹謗された」との恨みを買った事も原因の一つであるとされている。 常に清廉潔白で私事を省みず、左遷されても常に国家の事を考え続けた姿は後世の人間から強く尊敬されている。 == 子息 == *長男:[[:zh:林汝舟|林汝舟]]([[1814年]] - [[1861年]]) 道光18年(1838年)に科挙に合格し進士となった。同期には[[曽国藩]]がいる。 *三女:林普晴 [[沈葆楨]]の妻。沈葆楨は道光27年([[1847年]])に科挙に合格し進士となった。同期には[[李鴻章]]がいる。 == 林則徐の印 == [[File:Signet of Lin Zexu.jpg|right|thumb|150px|林則徐の印章]] 林則徐の印(1833年 [[趙之琛]] 刻:印譜所載)が2007年に日本国内で発見された。<ref>Five S Corporation,Inc[http://www.sssss.jp/scott/index.html]</ref> ==参考文献== *林則徐 [[堀川哲男]] 人物往来社, 1966. 中国人物叢書 のち中公文庫 *林則徐 [[井上裕正]] 白帝社, 1994.11. 中国歴史人物選 ==演じた俳優== *[[市川猿翁 (初代)|市川猿之助 (2代目)]] - 『[[阿片戦争 (1943年の映画)|阿片戦争]]』([[1943年]]日本、監督:[[マキノ正博]]) *[[趙丹]] - 『[[阿片戦争 (1959年の映画)|阿片戦争]]』([[1959年]]中国、監督:[[鄭君里]]、[[岑範]]) *[[鮑国安]] - 『[[阿片戦争 (1997年の映画)|阿片戦争]]』([[1997年]]中国、監督:[[謝晋]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == [[File:Letter by Lin Zexu to Queen Victoria of the United Kingdom.jpg|right|thumb|[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]にあてた書簡]] *[[阿片戦争]] *[[林則徐 (小惑星)|林則徐(7145 Linzexu)]] - [[1996年]]に[[北京天文台]]が発見した[[小惑星]]。 == 外部リンク == *[http://www.asahi.com/international/history/chapter01/01.html アヘン戦争 どう伝わったか] {{先代次代|[[河道総督]]|1831-1832|[[厳烺]]|[[呉邦慶]]}} {{先代次代|[[江蘇省|江蘇]][[巡撫]]|1832-1837|[[程祖洛]]|[[陳鑾]]}} {{先代次代|[[湖広総督]]|1837-1839|[[ナルチンア]](訥爾経額)|[[桂良]]}} {{先代次代|[[両江総督]]|1839-1840|[[陶ジュ|陶澍]]|[[イリフ]](伊里布)}} {{先代次代|[[両広総督]]|1840|[[トウ廷楨|鄧廷楨]]|[[キ善|琦善]]}} {{先代次代|[[陝西省|陝西]][[巡撫]]|1846-1847|[[トウ廷楨|鄧廷楨]]|[[楊以増]]}} {{先代次代|[[雲貴総督]]|1847-1849|[[李星沅]]|[[程矞采]]}} {{DEFAULTSORT:りんそくしよ}} [[Category:清朝の人物]] [[Category:福州出身の人物]] [[Category:1785年生]] [[Category:1850年没]] [[Category:清代の進士]] [[Category:中国の詩人]] {{Link FA|zh}} {{Link GA|zh-classical}}
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