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松田憲秀
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{{出典の明記|date=2012年9月|ソートキー=人1590年没}} '''松田 憲秀'''(まつだ のりひで、生年不詳- [[天正]]18年[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]([[1590年]][[7月17日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[後北条氏]]の家臣。[[松田盛秀]](顕秀)の嫡男。母は[[北条為昌]]の娘で、[[北条綱成]]の妹である。叔父に[[松田康定|松田康定(康隆)]]([[松田康長]]・[[松田康郷|康郷]]兄弟の父)がいる。子に[[笠原政尭|笠原政晴(政尭)]]、[[松田直秀]]([[北条氏直]]より偏諱を賜う、[[諱]]は直定・秀治とも、後に憲秀の1字を受け憲定に改名)。娘は松田殿([[北条氏康]]の側室)、[[内藤綱秀]]の子・直行の妻。左衛門佐、後に尾張守を称した。 [[松田氏|松田家]]は[[北条早雲]]以来の譜代の[[家老]]の家柄で、2,798貫という知行を食む[[大身]]である。 憲秀は家老として[[北条氏康]]に仕え、様々な内政政策や[[千葉氏]]・[[里見氏]]などの諸勢力(主に千葉氏重臣・[[原胤栄]]や里見氏重臣・[[安房正木氏|正木氏]]との書状が多く残る)との外交面で辣腕を振るった。また、[[永禄]]12年([[1569年]])には[[駿河国|駿河]][[深沢城]]にて北条綱成と共に籠城して武田勢から守備、[[国府台合戦]]、[[神流川の戦い]]などの諸戦に従軍し、各地を転戦した記録も多く残る。氏康死後は[[北条氏政|氏政]]に仕えた。当時一国の大名ほどの格式を持ち、文書発給の際に印章を使用した。文書に判を押すのは東国の戦国大名の特徴でもあった。 天正8年(1590年)[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]では、当初は徹底抗戦を主張するも、秀吉側の[[堀秀政]]らの誘いを受けて長男の笠原政晴とともに豊臣方に内応しようとした。しかし、次男・直秀の注進があり[[北条氏直]]によって事前に防がれ、憲秀は監禁、政晴は殺害された。この事件は、北条家に降伏を決意させることとなったといわれている。この結果、北条家仕置時に、秀吉にその不忠を咎められて切腹した。 次男・直秀は氏直に従い[[高野山]]に入り、氏直死後、憲定と改名し、[[豊臣秀次]]・[[前田利長]]に仕えて、前田家では4,000石を知行され、[[慶長]]19年([[1614年]])7月に[[金沢市|金沢]]で死去している。 なお、小田原籠城時に豊臣方に内応した説であるが、憲秀は一度は徹底抗戦を主張したものの、秀吉軍の前に抵抗は無理と悟り[[相模国|相模]]・[[伊豆国|伊豆]]の2国の所領安堵と城兵の助命を条件に和睦を打診していたという説もある。しかし、これは憲秀独断の交渉であり、また一度は徹底抗戦を主張した当事者としては許されるべき対応ではなかったために、露見した際に死罪ではなく監禁されたと思われる。子の政晴については積極的に内応をしようと次男・直秀に相談していたという経緯があったために、憲秀とは違い即座に死罪となったと推測される。しかし、政晴が僧になり静岡県三島市の蔵六寺を開山し、[[寛永]]3年([[1626年]])に60歳で病死したという寺伝も残っている。 {{DEFAULTSORT:まつた のりひて}} [[Category:戦国武将]] [[category:松田氏|のりひて]] [[Category:1590年没]]
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