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松平綱昌
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'''松平 綱昌'''(まつだいら つなまさ、[[1661年]][[6月4日]]([[寛文]]元年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[1699年]][[3月12日]]([[元禄]]12年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]))は、[[越前国|越前]][[福井藩]]の第6代藩主<ref>一般には福井藩第3代と数える[[松平忠昌]]以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第4代となる。</ref>。越前[[越前松岡藩|松岡藩]]主・[[松平昌勝]]の長男。母は久松[[松平定行]]の娘・菊姫。正室は[[飛鳥井雅直]]の娘・清姫。側室に竹村氏。子に[[本多長教|長教]](長男・[[本多長員]]養子)、娘([[烏丸光栄]]室)。官位は従四位下、左近衛権少将。名は'''綱宣'''(つなのぶ)とも<ref>「[[系図纂要]]」</ref>。「綱」の字は将軍[[徳川家綱]]より賜ったものである。 寛文元年(1661年)5月8日、[[江戸]]に生まれる。幼名は仙菊。[[延宝]]2年([[1674年]])7月3日(5月12日とも)、先代藩主・[[松平昌親]]の養嗣子となる。これは昌親の代に起こった家督騒動が原因で、藩内においても昌親に対する反発があったため、昌親の兄に当たる昌勝の子・綱昌を養嗣子として藩内の鎮静化を図った処置であると推測されている。延宝3年(1675年)年11月23日、元服し従四位下侍従に叙任。越前守と名乗ったのち、延宝4年([[1676年]])7月21日、昌親から家督を譲られて藩主となった。延宝8年(1680年)8月18日、左近衛少将に任じられた。しかし綱昌は延宝9年([[1681年]])3月に理由も無く側近を殺害するなど、次第に奇怪な行動を取り始めたと伝わる。治世においても[[飢饉]]に上手く対応できず、藩内に多数の餓死者を出した。[[貞享]]2年([[1685年]])には江戸城登城をも怠ったため、貞享3年([[1686年]])閏3月6日、遂に幕府は綱昌の狂気を理由に[[蟄居]]を申し渡し、綱昌は江戸鳥越の屋敷へ身柄を移された。しかし、[[徳川家康]]の次男[[結城秀康]]の子孫である[[御家門]]の[[越前松平家]]を取り潰すわけにもいかず、幕府は前藩主・昌親に知行半減(25万石)というペナルティを与えた上で存続を許した。この際、附家老である府中本多家も知行半減(4万石→2万石)とされた。 綱昌はその後、江戸鳥越の屋敷に蟄居となり、幕府から給金を支給されながら元禄12年(1699年)2月11日、39歳で死去した。法名は清浄院殿明譽光巌照哲大居士。 綱昌が奇怪な行動を取った理由は不明である。そもそも前藩主の相続時から続く藩内の対立があり、その影響で前藩主である昌親の藩内権力が依然として保持されており、綱昌の思い通りに藩政が動かせなかったためとも言われている。また、昌親(派)も次第に綱昌(およびその父親である昌勝)を疎ましく思い始め、その失脚を策動していたとも言われている。 この間に福井藩は幕府から越前国絵図の編纂を命じられ、「越前地理指南」「越前地理梗概」「越前地理便覧」の3冊を完成させている。また、儒者の[[野路汝謙]]に藩の史料の整理を命じてこれをまとめ、幕府に呈上した。 == 脚注 == <div class="references-small"><references /></div> {{福井藩主|6代|1676年 - 1686年}} {{DEFAULTSORT:まつたいら つなまさ}} [[Category:福井藩主|つなまさ]] [[Category:越前松平氏|つなまさ]] [[Category:1661年生]] [[Category:1699年没]]
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