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松平忠弘
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 松平 忠弘 | 時代 = [[江戸時代]]前期 - 中期 | 生誕 = [[寛永]]8年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]([[1631年]][[12月30日]]) | 死没 = [[元禄]]13年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]([[1700年]][[8月16日]]) | 改名 = 鶴松丸(幼名)→清良(初名)→忠弘 | 別名 = | 戒名 =枴伽院殿前四品拾遺端翁道厳大居士 | 墓所 =[[和歌山県]][[伊都郡]][[高野町]][[高野山]]の中性院 | 官位 = [[従五位]]下、[[下総国|下総]]守、[[従四位]]下、[[侍従]] | 幕府 = [[江戸幕府]] | 主君 = | 藩 = [[播磨国|播磨]][[姫路藩]]主→[[出羽国|出羽]][[山形藩]]主→<br />[[下野国|下野]][[宇都宮藩]]主→[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]主 | 氏族 = [[奥平氏|奥平松平家]] | 父母 = 父:[[松平忠明]]、母:三好氏(側室) | 兄弟 = '''忠弘'''、[[松平清道|清道]] | 妻 = 正室:'''藤姫'''([[細川忠利]]の娘) | 子 = [[松平清照|清照]]、娘([[四条隆音]]室)、娘([[松平忠尚]]正室)、娘([[大久保忠増]]正室)、<br />娘([[桑山一尹]]正室のち[[大沢基恒]]正室)<br />養子:''[[松平忠尚|忠尚]]''、'''''[[松平忠雅|忠雅]]''''' | 特記事項 = }} '''松平 忠弘'''(まつだいら ただひろ)は、[[江戸時代]]前期から中期の[[大名]]。[[播磨国|播磨]][[姫路藩]]主、[[出羽国|出羽]][[山形藩]]主、[[下野国|下野]][[宇都宮藩]]主、[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]主。奥平松平家2代。 == 生涯 == === 家督相続から転封 === [[大和国|陸奥]][[大和藩]]主・[[松平忠明]]の長男として生まれる。父の死去により12歳で姫路藩18万石の家督を相続し、直後に弟に3万石を分地する。4年後、年少を理由に山形に転封を命じられるが、のちに宇都宮への転封となる。 この転封に忠弘の非はなく、宇都宮藩の前任・[[奥平昌能]](忠弘の従兄・[[奥平忠昌]]の子)の家中不祥事である[[追腹一件]]・[[興禅寺刃傷事件]]による。奥平家は忠弘の本家筋に当たり、寛文8年([[1668年]])に山形藩と入替転封となっている。宇都宮藩では領内の新田検地を行なったが、わずか13年の支配に終わったため、特段する治績はない<ref name="宇都宮・高徳藩60">坂本『シリーズ藩物語 宇都宮藩・高徳藩』 P60</ref>。[[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]])に陸奥[[白河藩|白河]]へ移封された。 === 白河騒動 === 宇都宮を経て白河に入封するが、白河藩時代に、忠弘の後継者をめぐって家臣団を巻き込む騒動が勃発する。 長男の鶴千代(長じて[[松平清照|主税清照]])の他にも3人の男子がいたと言われるが、いずれも夭逝しており、頼みの清照も健康面で不安があった。そこで次女・長福姫の婿の乗守([[松平乗久]]の長男)を無理を承知で頼み込み、養嗣子として貰い受けた(忠尚)。だが、忠尚の子・仙千代が夭逝、さらに長福姫もその半年後に死去し、忠尚の存在価値は薄れた。50歳を過ぎた忠弘の跡目が定まらない深刻な事態は、家臣たちにも焦りを生んだ。しかも騒動の決め手となったのは、家督から遠ざけられていた清照に男子・斎宮(後の[[松平忠雅|左膳忠雅]])が誕生したことである。おかげで家臣は婿派と孫派に分裂し、白河騒動と呼ばれる対立関係にまで悪化した。家臣が続々と退去し、その総勢が93名に及んだという。 これが幕府の知るところとなる。忠弘の遠縁でもある[[老中]]・[[大久保忠朝]]は先んじて忠弘の家臣を呼びつけ、幕閣の正式決定が下る前に忠弘の自主的隠居を勧めている。だが、その後に決定された処分内容は、両派の首魁であった家老両名を遠島流罪、それだけに留まらず所領も召し上げという厳しいものであった。 翌月には決定が一部、覆された。10万石に減封された上に、山形への国替え処分に軽減されたため、改易の危機だけは免れた。父祖たちの忠勤、加えて[[徳川家康|神君家康]]の血統でもあった点が考慮されたものと考えられている。 騒動の責を重く受け止めて、忠弘は同時に隠居し、家督は孫の斎宮に継がせた。9歳の斎宮には将軍・[[徳川綱吉]]からの拝謁を賜ると同時に、忠弘自身の隠居も承認されている。当家においては下総守が当主を示すものでもあるため、隠居後の忠弘は刑部大輔となった。 == 経歴 == *[[1631年]]([[寛永]]8年) :出生([[11月8日 (旧暦)|11月8日]]) *[[1634年]](寛永11年) :父に伴われて将軍[[徳川家光]]に拝謁。この時、印籠を下賜される。 *[[1644年]]([[正保]]元年) :家督相続([[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) *[[1648年]]([[慶安]]元年) :[[出羽国|出羽]][[山形藩|山形]]15万石に国替([[6月14日 (旧暦)|6月14日]]) *[[1652年]](慶安5年) :江戸藩邸で嫡男・鶴千代(のちの主税清照)が出生。([[8月20日 (旧暦)|8月20日]]) *[[1668年]]([[寛文]]8年) :[[下野国|下野]][[宇都宮藩|宇都宮]]に国替([[8月3日 (旧暦)|8月3日]]) *[[1681年]]([[天和 (日本)|天和]]元年) :[[陸奥国|陸奥]][[白河藩|白河]]に国替([[7月27日 (旧暦)|7月27日]]) *[[1692年]]([[元禄]]5年) :減封のうえ山形10万石に国替([[7月21日 (旧暦)|7月21日]])、隠居 *[[1700年]](元禄13年) :死去、享年70 == 官階 == *[[1645年]](正保2年):従五位下下総守 *[[1653年]]([[承応]]2年):従四位下 *[[1663年]](寛文3年):[[侍従]] == 脚注 == === 注釈 === <references group="注釈"/> === 引用元 === <references/> == 参考文献 == * [[坂本俊夫]]『シリーズ藩物語 宇都宮藩・高徳藩』([[現代書館]]、2011年9月) {{姫路藩主|奥平松平氏|2代|1644年 - 1648年}} {{山形藩主|奥平松平氏||1648年 - 1668年,1692年}} {{宇都宮藩主|奥平松平氏||1668年 - 1681年}} {{白河藩主|奥平松平氏||1681年 - 1692年}} {{DEFAULTSORT:まつたいら たたひろ}} [[Category:奥平松平氏|たたひろ]] [[Category:親藩]] [[Category:姫路藩主]] [[Category:山形藩主]] [[Category:宇都宮藩主]] [[Category:白河藩主]] [[Category:1631年生]] [[Category:1700年没]] {{Japanese-history-stub}}
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