コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
松平康長のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
松平康長
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{基礎情報 武士 |氏名=松平 康長 |時代=[[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]前期 |生誕=[[永禄]]5年([[1562年]]) |死没=[[寛永]]9年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]([[1633年]][[1月21日]]) |改名=虎千代(幼名)→康長 |別名=孫六郎(通称) |神号=洪武神 |戒名=祥雲院殿一運宗智大居士 |墓所=[[長野県]][[松本市]]県の戸田家廟園 |官位=[[従五位]]下、[[丹波国|丹波]]守、[[従四位]]下 |幕府=[[江戸幕府]] |主君=[[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]→[[徳川家光|家光]] |藩=[[武蔵国|武蔵]][[東方藩]]主→[[上野国|上野]][[白井藩]]主→[[下総国|下総]][[古河藩]]主→[[常陸国|常陸]][[笠間藩]]主→上野[[高崎藩]]主→[[信濃国|信濃]][[松本藩]]主 |氏族=[[戸田氏#康長の家系(戸田松平氏、宗家)|戸田宗家]]→戸田松平家 |父母=父:[[戸田忠重]]、母:[[戸田吉光]]の娘 |兄弟= |妻=正室:'''松姫'''([[久松俊勝]]の娘、徳川家康の養妹<ref name="松本藩31">田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P31</ref>) |子=[[松平永兼|永兼]]、[[松平忠光|忠光]]、'''[[松平庸直|庸直]]'''、娘([[戸田氏鉄]]正室、徳川家康養女)、娘([[松平乗寿]]正室)、娘([[阿部忠秋]]継室)ら |特記事項= }} '''松平 康長'''(まつだいら やすなが)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]、[[大名]]。[[徳川氏]]の家臣。[[戸田氏#康長の家系(戸田松平氏、宗家)|戸田宗家]]16代当主。[[松平氏]]の姓を賜り、戸田松平家の祖となる。 家紋は松平姓とともに下賜された[[三つ葉葵]]と戸田氏歴代の[[六曜]]紋である。なお、名前の表記について、書籍によっては'''戸田康長'''と載せるものもある。 == 生涯 == [[戸田忠重]]の長男として生まれる。[[三河国]]の[[朝倉川]]南岸から半島にかけての[[渥美郡]]一帯を支配した[[戸田氏]]の嫡流である。15代当主の叔父[[戸田重貞|重貞]]の戦死により、主君・[[徳川家康]]の命令でその跡目を継いだ。天正2年([[1574年]])に元服し、家康より「康」の偏[[諱]]を受け康長と名乗る。また、家康の異父妹・松姫と婚姻し、松平姓を賜ったとされる。 [[天正]]9年([[1581年]])に[[今川氏]]の[[遠江国]][[高天神城]]攻めにて初陣を果たし、天正12年([[1584年]])[[小牧・長久手の戦い]]では[[酒井忠次]]に附属、天正18年([[1590年]])[[小田原征伐]]では[[上野国]][[白井城]]を落とす武功を発揮した。同年、徳川氏の関東への移封に従い、三河国渥美郡仁連木([[愛知県]][[豊橋市]]仁連木町)の[[二連木城]]を離れ、[[武蔵国]][[東方藩|東方]]に1万石を領する。 [[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では[[水野勝成]]らと共に[[大垣城]]を攻略し、その功で慶長6年([[1601年]])に[[上野国|上野]][[白井藩]]に封じられるが、翌慶長7年([[1602年]])に[[下総国|下総]][[古河藩]]へ移封される。慶長10年([[1605年]])4月に[[従五位]]下[[丹波国|丹波]]守を叙任(寛永3年([[1626年]])[[従四位]]下に昇叙)。慶長17年([[1612年]])に[[常陸国|常陸]][[笠間藩]]へ移封。[[大坂の陣]]では2度従軍し、その功で[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])に上野[[高崎藩]]5万石へ移封される。 元和3年([[1617年]])に[[信濃国|信濃]][[松本藩]]7万石に加増移封された<ref name="松本藩31"/><ref name="松本藩32">田中『シリーズ藩物語、松本藩』、P32</ref>。 元和9年([[1623年]])には[[徳川家光]]の守役となり<ref name="松本藩31"/>、[[江戸城]]西の丸の警護を努めた。寛永元年([[1624年]])に大病に倒れるが回復して出仕すると、[[徳川秀忠]]や家光から快気祝いとして茶壷霧ヶ崎をと行光の短刀を拝領した<ref name="松本藩31"/>。 松本藩では加増分に見合う家臣団の再編成を行ない、城下町の建設や徒士・足軽屋敷を建設して集住させ、在地の豪族が多い信濃で地方知行を廃止して蔵米制に移行した<ref name="松本藩32"/>。また藩内を15組に分けて新しい行政区画を創設した<ref name="松本藩32"/>。寛永3年([[1626年]])からは5年をかけて惣検地を実施し、それに伴って中世以来の郷の大村を廃して200石から400石くらいの小さな行政村を造り上げた<ref name="松本藩33">田中『シリーズ藩物語、松本藩』、P33</ref>。 寛永9年([[1632年]])に死の床につくが、その際にも家光から侍医の[[野間玄沢]]が松本にまで遣わされた<ref name="松本藩32"/>。康長は信濃池田城を建設して隠居城とする予定であったが<ref name="松本藩34">田中『シリーズ藩物語、松本藩』、P34</ref>、この年の12月に松本で死去<ref name="松本藩34"/>。家督は三男の庸直が継いだ<ref name="松本藩34"/>。なお、[[松本神社]]の祭神の一柱として祭られ、[[明治]]には華族組合農場を経営した子孫の[[戸田康泰]]子爵によって建立された[[北海道]]雨竜神社に祭神として祀られている。 == 人物 == 人柄が実直で穏やかだったことから家康・秀忠・家光の3代に厚い信任を受けた。伝わる話も多くあるが、家康の三河時代の時から康長は多くの戦功を挙げたが自分から家康に申し立てたり恩賞を求めたりはしなかったので、家臣はもどかしくなり康長に恩賞を催促するように求めたが、「武功とは人の申すものにて自分より吹聴いたすは甚だ見苦しきこと」と述べて全く取り合わなかった<ref name="松本藩31"/><ref group="注釈">戸田家の事跡書『[[世々のあと]]』</ref>。 この人柄は[[陸奥国|陸奥]][[仙台藩]]主[[伊達政宗]]にも信頼されて懇意の仲になり、何事も語り合える間柄であった<ref name="松本藩32"/>。家臣とも腹蔵なく常に語り合い、わざわざ夜分に迎え入れて酒食でもてなし、藩政や武辺などさまざまな話をしたという(「必ずあぐらにて打ちくつろぎ、腹蔵なくお話相手仕り候」とある)<ref name="松本藩32"/>。 == 脚注 == === 注釈 === <references group="注釈"/> === 引用元 === <references/> == 参考文献 == * [[田中薫]]『シリーズ藩物語 松本藩』([[現代書館]]、2007年5月) {{東方藩主||1590年 - 1601年}} {{白井藩主|戸田松平氏||1601年 - 1602年}} {{古河藩主|戸田松平氏||1602年 - 1612年}} {{笠間藩主|戸田松平氏||1612年 - 1616年}} {{高崎藩主|戸田松平氏||1616年 - 1617年}} {{松本藩主|戸田松平氏|初代|1617年 - 1633年}} {{DEFAULTSORT:まつたいら やすなか}} [[Category:戸田氏|やすなか]] [[Category:戸田松平氏|やすなか]] [[category:戦国武将]] [[Category:白井藩主]] [[Category:古河藩主]] [[Category:笠間藩主]] [[Category:高崎藩主]] [[Category:松本藩主]] [[Category:武蔵国の藩主]] [[Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名)]] [[Category:1562年生]] [[Category:1633年没]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:古河藩主
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:基礎情報 武士
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:東方藩主
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:松本藩主
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:白井藩主
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:笠間藩主
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:高崎藩主
(
ソースを閲覧
)
松平康長
に戻る。
検索
検索
松平康長のソースを表示
話題を追加