コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
松平定国のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
松平定国
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 松平 定国 | 時代 = [[江戸時代]]中期 | 生誕 = [[宝暦]]7年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]([[1757年]][[7月28日]]) | 死没 = [[文化 (元号)|文化]]元年[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]([[1804年]][[7月22日]]) | 改名 = 田安辰丸→豊丸→松平定国 | 別名 = | 戒名 = 瑞龍院殿故左近衛権少将前隠岐守<br />従四位下源朝臣定誉戒雲慧空大居士 | 墓所 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[三田 (東京都港区)|三田]]の[[済海寺]] | 官位 = [[従四位]]下、[[中務省|中務大輔]]、[[隠岐国|隠岐]]守、[[侍従]]<br />[[近衛府|左近衛権少将]] | 幕府 = [[江戸幕府]] [[伺候席|溜間詰]] | 主君 = | 藩 = [[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]主 | 氏族 = [[田安徳川家]]→[[久松氏|久松松平氏]] | 父母 = 父:[[徳川宗武]]、母:香詮院<br />養母:''近衛通子(御簾中近衛氏・宝蓮院殿)''<br />養父:''[[松平定静]]'' | 兄弟 = [[徳川小次郎|小次郎]]、[[徳川英菊|銕之助]]、[[徳川友菊|友菊]]、[[徳川乙菊|乙菊]]、[[徳川治察]]、<br />'''定国'''、[[松平定信|定信]] | 妻 = 正室:[[松平定静]]の養女・'''鉄姫'''<br />側室:靖操院、祐光院 | 子 = '''[[松平定則|定則]]'''、[[松平定通|定通]]、娘([[酒井忠順]]室)<br />養女:''[[松平定謚]]の娘([[堀田正民]]室)'' | 特記事項 = }} '''松平 定国'''(まつだいら さだくに)は、[[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]第9代藩主。定勝系久松松平家宗家10代。[[江戸幕府]]第8代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川吉宗]]の孫にあたる。 == 生涯 == [[宝暦]]7年([[1757年]])6月13日、[[御三卿]][[田安徳川家]]初代当主・[[徳川宗武|田安宗武]]の六男として生まれる。[[幼名]]は辰丸。母は香詮院殿(山村氏)で、後に御簾中近衛氏(宝蓮院殿)が養母となる。 明和5年([[1768年]])、[[伊予国]][[伊予松山藩|松山藩]]第8代藩主・[[松平定静]]の嫡男・[[松平熊太郎|熊太郎]]が夭折すると、幕命によって定静の養嗣子となる。[[安永]]元年([[1772年]])、従四位下[[中務省|中務大輔]]に叙任。安永8年([[1779年]])7月、養父定静の卒去により遺領松山藩15万石を継承する。同年9月、[[隠岐国|隠岐守]]に転任。続いて11月には[[伺候席|溜間詰]]に任ぜられ、さらに[[侍従]]に昇進。在国中、[[天明]]4年([[1784年]])元旦夜中に、[[松山城 (伊予国)|松山城]][[天守]]に落雷。天守をはじめとした本壇が焼失する。定国は直ちに急使を[[江戸]]へ派遣、遅参を請う。さらに、松山城の再建を[[江戸幕府|幕府]]に願い上げ、許可される。[[寛政]]6年([[1794年]])、[[光格天皇]]に拝謁。その後、[[近衛府|左近衛権少将]]に昇進。 弟の定信とはもともと不和だったこともあり、天明7年([[1787年]])、老中に就任した定信の家臣を呼び付け、政治方針に異論を唱えている。また、御三家[[徳川宗睦]]らに定信が政治的な失敗を犯した場合には退任させること、そうならないようにするため、自らも老中に就任したいと述べている。宗睦らは、定国の性格を「気強成生質ニ而少々卒忽成ル処も御座候」(気が強く少し軽率なところもある)と評している。 [[文化 (元号)|文化]]元年([[1804年]])6月14日、[[脚気]]により体調すぐれずとの旨、嫡男・立丸(のちの[[松平定則]])より幕府に届けられる。同日、立丸に家督を譲る旨の遺言を認め、同月16日に江戸松山[[江戸藩邸|藩邸]]愛宕下上屋敷にて卒去。実は6月11日に卒したという。[[享年]]48。法号は瑞龍院殿故左近衛権少将前隠岐守従四位下源朝臣定誉戒雲慧空大居士。江戸三田[[済海寺]]に葬られる。遺髪が松山古町大林寺へ送られ、埋葬された。 == 系譜 == * 正室:[[松平定静]]の養女・鉄姫([[松平定喬]]の娘、柔輭院殿、[[安永]]9年([[1780年]])卒去) * 側室:靖操院殿(藤田氏) * 側室:祐光院殿(林氏) * 子女 ** 次男:[[松平定則]] ** 五男:[[松平定通]] ** 娘([[酒井忠順]]正室) * 養女 ** [[松平定謚]]の娘([[堀田正民]]正室) {{伊予松山藩主|[[久松氏|久松松平家]]|9代|1779年 - 1804年}} {{DEFAULTSORT:まつたいら さたくに}} [[Category:久松松平氏|さたくに]] [[Category:田安徳川氏|さたくに]] [[Category:親藩]] [[Category:伊予松山藩主|松09]] [[Category:1757年生]] [[Category:1804年没]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:伊予松山藩主
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:基礎情報 武士
(
ソースを閲覧
)
松平定国
に戻る。
検索
検索
松平定国のソースを表示
話題を追加