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松平信綱
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{{複数の問題|ソートキー=人1662年没 | 出典の明記 = 2012年5月 | 参照方法 = 2012年5月 | 独自研究 = 2012年5月 | 大言壮語 = 2011年9月 | 言葉を濁さない = 2011年9月 }} {{基礎情報 武士 | 氏名 = 松平 信綱 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 時代 = [[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]前期 | 生誕 = [[慶長]]元年[[10月30日 (旧暦)|10月30日]]([[1596年]][[12月19日]])<ref>10月29日説もある(『信綱記』(『改訂史籍集覧』第26))</ref> | 死没 = [[寛文]]2年[[3月16日 (旧暦)|3月16日]]([[1662年]][[5月4日]]) | 改名 = 長四郎、三十郎(幼名)→正永→信綱 | 別名 = 知恵伊豆 | 戒名 = 松林院殿乾徳全梁大居士 | 墓所 = [[埼玉県]][[新座市]]野火止の[[平林寺]] | 官位 = [[従五位]]下、[[伊豆国|伊豆]]守、[[従四位]]下、[[侍従]] | 幕府 = [[江戸幕府]][[小姓]]→[[小姓組]]番頭→[[若年寄|六人衆]]<br />→[[老中格]]→[[老中]]→老中首座→老中 | 主君 = [[徳川家光]]→[[徳川家綱|家綱]] | 藩 = [[相模国]]内→[[武蔵国|武蔵]][[忍藩]]主→武蔵[[川越藩]]主 | 氏族 = [[大河内氏]]→[[長沢松平家]](大河内松平家) | 父母 = 父:[[大河内久綱]]、母:[[深井好秀]]の娘<br />養父:''[[松平正綱]]'' | 兄弟 = '''信綱'''、[[大河内重綱|重綱]] | 妻 = 正室:[[井上正就]]の長女 | 子 = '''[[松平輝綱|輝綱]]'''、[[松平吉綱|吉綱]]、[[松平伊織|伊織]]、[[松平信定 (大河内松平家)|信定]]、[[松平信興|信興]]、[[松平堅綱|堅綱]]、<br />[[千万 (松平信綱長女)|千万]]([[酒井忠当]]室)、[[亀 (松平信綱次女)|亀]]([[土井利隆]]室)、<br />[[久満 (松平信綱3女)|久満]]([[秋元忠朝]]室)、[[多阿 (松平信綱4女)|多阿]]、[[百 (松平信綱5女)|百]]([[松浦棟]]室)、[[八 (松平信綱6女)|八]] | 特記事項 = }} '''松平 信綱'''(まつだいら のぶつな)は、[[江戸時代]]前期の[[大名]]で[[武蔵国]][[忍藩]]主、同[[川越藩]]初代藩主。[[老中]]。官職名入りの'''松平伊豆守信綱'''の呼称で知られる。 == 生涯 == === 出生 === [[慶長]]元年(1596年)、[[徳川家康]]の家臣・[[大河内久綱]]の長男として[[武蔵国]]<ref>[[遠江国]]徳利里が出生地とも伝わる(『大河内家譜』2)</ref>で生まれる。父の久綱は[[伊奈忠次]]配下の代官として小室陣屋付近([[埼玉県]][[北足立郡]][[伊奈町]]小室)に居住していたので、当地で生まれたとする説が有力である。生母・[[深井氏]]は[[長尾氏|白井長尾氏]]の末裔であり、母方の祖父・[[深井好秀]]は[[長尾景春]]の[[玄孫]]である。 === 養子 === 慶長6年([[1601年]])に叔父・松平右衛門大夫正綱の養子となる。あるとき正綱が1人でいると、当時は三十郎と名乗っていた信綱がやって来て、「私は代官の子で口惜しい。恐れながら名字が欲しいので養子にしてほしいです」と嘆願した。正綱は笑いながら「そなたはまだ幼少の身分で本名を捨て我が名字を望むのはなぜか?」と訊ねた。「私の本名では御上の近習を勤めることは叶い難い。何卒養子にもなれば御座近く御奉公できるかもしれない」と答えた。正綱は不憫に思い、「なるほど、望みのように養子にしよう。けれども1通り父母に申してのとになり字を遣わそう」と挨拶した。両親にもこの旨を話して事が済むと、信綱は大いに喜んで「今日よりは松平三十郎なり」と述べたという<ref>[[大野瑞男]]『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P20。『名将言行録』。[[朝倉治彦]] [[三浦一郎]] 『世界人物逸話大事典』 [[角川書店]] 平成8年2月、P936</ref>。 === 家光の小姓・元服 === 慶長8年([[1603年]])9月3日、将軍世子の[[徳川秀忠]]に、11月には正綱に従って[[伏見城]]に赴き、11月15日に[[徳川家康]]と初めて拝謁した<ref>(『豊橋市史』第6巻。『大河内家譜』2)</ref>。慶長9年(1604年)7月17日に秀忠の嫡男・[[徳川家光]]が誕生すると、7月25日に家光付の小姓に任じられて合力米3人扶持になった。慶長10年([[1605年]])12月3日に5人扶持となる。 慶長16年([[1611年]])11月15日に前髪を落として[[元服]]する。慶長18年([[1613年]])1月28日に[[井上正就]]の娘と結婚した。ただし慶長15年([[1610年]])から慶長16年(1611年)にかけて胃病を患い在郷で養生していたという。 === 出世の道 === [[元和 (日本)|元和]]6年([[1620年]])1月20日に500石を与えられた<ref>ただしこれまでの扶持米は幕府に収公された。なお、この500石は家光が信綱を特に評価して与えたという</ref>。 このとき家紋も三本扇とした<ref>『信綱記』『明良洪範』『家乗附録』</ref>。この年の12月下旬に養父の正綱に実子の[[松平利綱]](正次・左門)が生まれると、信綱は名跡を継ぐのは利綱であるとして自らは名を正永から信綱と改め、元和9年([[1623年]])6月15日に御小姓組番頭に任命され、新たに300石の加増を受けた。7月には家光の将軍宣下の上洛に従い、[[従五位|従五位下]][[伊豆国|伊豆守]]に叙位・任官された。 [[寛永]]元年([[1624年]])5月16日には1,200石を加増された。寛永3年([[1626年]])7月には家光の上洛に再度従った。寛永5年([[1628年]])1月5日には[[相模国]][[高座郡]]・[[愛甲郡]]で8,000石の所領を与えられて<ref>『寛政重修諸家譜』に記録がある。ただし『神奈川県史』通史編2などは相模に当時与えられるほどの領地の余裕は無く否定されており、寛永10年([[1633年]])といわれる</ref>、合計1万石の[[大名]]となった。このときに一橋門内において屋敷を与えられた。寛永7年([[1630年]])5月17日には[[上野国]]白井郡・阿保郡などで5,000石を加増される。 寛永9年([[1632年]])1月に[[大御所]]だった秀忠が死去すると、信綱は養父と共に遺銀400枚を賜った<ref>『徳川実紀』第2篇</ref>。 4月13日に家光の日光山参詣に従う。11月18日には老中と小姓組番頭を兼務した<ref>このとき[[細川忠利]]が信綱に祝儀の品を贈っている</ref>。 寛永10年(1633年)3月23日、[[阿部忠秋]]や[[堀田正盛]]、[[三浦正次]]、[[太田資宗]]、[[阿部重次]]らと共に6人衆<ref>のちの[[若年寄]]</ref>に任命された。5月5日、阿部忠秋や堀田正盛らと共に家光より老中に任じられ<ref>『江戸幕府日記』</ref>、同時に1万5,000石を加増されて3万石で武蔵[[忍藩|忍]]に移封され、[[忍城]]付の与力20騎・同心50人を預けられた。この年の5月から[[井上正重]]らと[[近江国]]や大坂・奈良などを巡検した。11月には[[徳川忠長]]配流の地を予定してか[[上総国]]佐貫を巡検している。 寛永11年([[1634年]])3月3日に「老中職務定則」と「若年寄職務定則」を制定。6月には家光の上洛に嫡男・輝綱と共に従い、6月27日に家光より[[駿府城]]で刀と盃を賜った。閏7月29日に[[従四位|従四位下]]に昇叙される。 寛永12年([[1635年]]10月29日、それまで兼務していた小姓組番頭を罷免された<ref>これは家光が行政事務の停滞に苛立って老中の任のみに専念させるためといわれる</ref>。 11月には[[寺社奉行]]や勘定頭、留守居などの職制を制定。11月15日には月番制も定め、将軍直轄の体制を固めて職務を円滑に進めることができるように改革を進めた。 寛永13年([[1636年]])4月に家光が日光参詣に赴いた際、信綱は江戸に留まって[[江戸城]]普請監督を務め、12月の[[朝鮮通信使]]の日光参詣では惣奉行として随行した。 寛永14年([[1637年]])10月16日には家光を自邸に迎えて盛大に饗応した。 === 島原の乱 === 寛永14年(1637年)10月末に[[肥前国]][[島原藩|島原]]や[[肥後国]][[天草郡]]などでキリシタン一揆が発生した([[島原の乱]])。信綱ら首脳陣は当初、[[板倉重昌]]<ref>重昌の嫡男・[[板倉重矩]]が父と共に出陣を信綱に嘆願したが信綱は拒絶した</ref>と[[石谷貞清]]を派遣し、さらに[[日根野吉明]]や[[鍋島勝茂]]、[[寺沢堅高]]、[[松倉勝家]]ら九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じた。しかし一揆勢は[[原城]]に立て籠もって抗戦し、戦闘は長期化した。 当初、幕府軍の総大将は板倉重昌であり<ref>11月28日付の[[土井利勝]]・[[阿部忠秋]]ら連署による[[水野勝成]]宛の老中奉書では「今度嶋原天草きりしたん蜂起之儀今程は相済み申すべく候。然れば彼の跡以下御仕置として、上使松平伊豆守ならびに戸田左門これを差し遣はされ候」とある(『下総結城水野家文書』)</ref>、信綱は[[戸田氏鉄]]と共に一揆鎮圧後の仕置・戦後処理のために派遣されていた<ref>信綱には実戦経験が無く、九州の地理も事情も詳しくなかったためといわれる</ref>。だが寛永15年([[1638年]])1月1日に重昌が戦死。石谷貞清も重傷を負ったため、代わって信綱が幕府軍の総大将に就任することになった。 1月11日には篭城する一揆軍に対してオランダ船のデ・ライブ号に要請して援護射撃をさせた<ref>[[熊本藩]]主の[[細川忠利]]には日本の恥辱であると批判された。ただし信綱は城内のキリシタンに衝撃を与えるために行なったのである。だがオランダ側も2人が戦死し、城内の一揆側からも矢文で誹謗されて中止を余儀なくされた(『通航一覧』第6)</ref>。 1月28日に副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆の抵抗も激しく、信綱は兵糧攻めに持ち込んだ。この結果、2月下旬には一揆の兵糧はほぼ尽きてしまい、2月28日までに原城を陥落させた。信綱は一揆の総大将である[[天草時貞]]の首実検を行ない曝し首とした。このとき信綱の家臣6名も戦死<ref>杉山頼母、西村半三郎、野間市兵衛、ほか3名</ref>し、手負い103名であった。3月1日には原城を破却して捕らえた者は斬首して曝した。また松倉勝家・寺沢堅高両名も一揆を招いた責任ありとして処罰を言い渡した。 === 幕藩体制の完成 === 戦後、一揆鎮圧の勲功を賞され寛永16年([[1639年]])1月5日には3万石加増の6万石で[[川越藩]]に移封された。信綱は城下町川越の整備、江戸とを結ぶ[[新河岸川]]や[[川越街道]]の改修整備、[[玉川上水]]や[[野火止用水]]の開削、農政の振興などにより藩政の基礎を固めた。 島原の乱後、信綱はキリシタン取締りの強化や[[武家諸法度]]の改正、[[ポルトガル]]人の追放を行なった。またオランダ人を長崎の出島に隔離して[[鎖国]]制を完成させた。 寛永15年(1638年)11月に[[土井利勝]]らが[[大老]]になると、信綱は老中首座になって幕政を統括した。寛永16年(1639年)8月に江戸城本丸が焼失すると、その再建の惣奉行を務めた。[[慶安]]元年([[1648年]])4月に養父の正綱が死去した際には銀100枚を賜ったが、その遺領は実子の[[松平正信]]や[[松平正朝 (大河内松平家)|松平正朝]]に継がせて自らは拒絶した。この頃は家光実父の台徳院(秀忠)、生母の[[崇源院]]の法事奉行を務めている。 === 家綱時代 === 慶安4年([[1651年]])4月の家光没後はその息子で第4代将軍となった[[徳川家綱]]の補佐に当たり<ref>信綱は[[井伊直孝]]、阿部忠秋、[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]らと協力して補佐した(『徳川実紀』第4篇)</ref>、家光没後の直後に起こった[[慶安の変]]<REF>[http://www.geocities.jp/takesanwind/book/doumon/sararimandesourou2.html##5 幕府不満の弾圧に利用された由井正雪の叛乱計画]</ref>を7月に鎮圧した。[[承応]]元年([[1652年]])9月に老中暗殺を目的とした[[承応事件]]も鎮圧した。明暦3年([[1657年]])1月の[[明暦の大火]]などの対応に務めた。 === 最期 === 寛文2年(1662年)1月18日に病気に倒れて出仕できなくなり、嫡男の輝綱が代理として出仕した。1月19日に小用がつかえたが服薬して回復した<ref>[[山内忠直]]書状</ref>。1月21日には将軍の上使として[[大久保忠朝]]が派遣された。1月26日には病が再発し、死を悟った信綱は他の老中へ暇乞いして遺言まであった<ref>1月26日付の忠直書状</ref>。1月27日には[[久世広之]]、1月29日に[[本多忠隆]]らが派遣されて茶・菓子・薬を賜った。このため見舞いの使者がおびただしく訪れ<ref>忠直書状、2月6日付</ref>た。3月になると危篤状態となり、3月15日に老中の阿部忠秋に嫡子・輝綱のことを頼んだという。 3月16日の夕刻に老中在職のまま死去した。[[享年]]67(満65歳没)。跡を長男の輝綱が継いだ。 == 人物・逸話 == {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2011年9月}} === 才智と評価 === * 幼少の頃より才知に富んでおり、官職の伊豆守から「'''知恵伊豆'''」('''知恵出づ'''とかけた)と称された<ref>NHK [[Eテレ]]の番組『[[先人たちの底力 知恵泉]]('''ちえいず''')』の名称は、この別名にちなむ。</ref>。 * 家光は「いにしへよりあまたの将軍ありといへども、我ほど果報の者はあるまじ。右の手は讃岐([[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]])、左の手は伊豆」(『空印言行録』)と評し、忠勝と信綱が幕府の確立に大きく寄与したことを評価している。また「伊豆守ごとき者を今1人持ったならば心配は無いのだが」と小姓の[[三好政盛]]に語った<ref>[[大野瑞男]]『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P285。</ref>。 * [[柳生宗矩]]、[[春日局]]と共に家光を支えた「[[鼎]]の脚」の1人に数えられた。 * 酒井忠勝は阿部忠秋に「信綱とは決して知恵比べをしてはならない。あれは人間と申すものではない」と評している<ref>大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P285。</ref>。 * 阿部忠秋は「何事にもよらず信綱が言うことは速い。自分などは後言いで、料簡が無いわけではないが、2つ3つのうちいずれにしようかと決断しかねているうち、信綱の申すことは料簡のうちにある」とその才智を認めている(『事後継志録』)<ref>大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P286。</ref>。 * 行政では民政を得意としており、幕藩体制は信綱の時代に完全に固められたと言ってよい。また、慶安の変や明暦の大火などでの善処でも有名で、政治の天才とも言える才能を持っていた。幕政ばかりではなく藩政の確立・発展にも大きく寄与しており、川越を小江戸と称されるまでに発展させる基礎を築き上げ、のちの[[大正]]11年([[1922年]])12月に[[埼玉県]]で最初の市制を布かれるきっかけになった。信綱は現在でも川越市民に最も記憶されている藩主である<ref>大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P287。</ref>。 * 政治の取り締まりに関して信綱は「重箱を摺子木で洗うようなのがよい。摺子木では隅々まで洗えず、隅々まで取り締まれば、よい結果は生まれないからである」と述べている。それに対してある人が「世の禁制は3日で変わってしまうことが多い」と嘆いていると「それは2日でも多いのだ」と言ったという(『[[名将言行録]]』)<ref name="世界人物逸話大事典P260">朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、937頁。</ref>。 * ただしこれだけ多くの人々に評価されていながら、人望は今ひとつで「才あれど徳なし」と評されてもいる。老中首座時代には同僚であった[[堀田正盛]]の子・[[堀田正信]]にその幕政を批判されてもいる。これは信綱が茶の湯や歌会、舞、碁、将棋などを好まずくそ真面目に政務を行なっていたためともいわれている。また信綱は下戸で酒を嗜まなかったといわれており、ここにも一因している。信綱の好きなことは暇なときに心を許した者を集めて政治などの話を問答することだったという<ref>大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P286。</ref>。 * 明暦の大火の際、信綱は老中首座の権限を強行して1人で[[松平光長]]ら17人の大名の参勤を免除した。[[徳川頼宣]]は信綱が勝手に決めたことを非難したが、「このようなことを議すると、何かと長談義に日を費やし無益です。後日お咎めあれば自分1人の落度にしようとの覚悟で取り計らいました。今度の大災害で諸大名の邸宅も類焼して居場所も無く、府内の米蔵も焼けました。このようなときに大名が大勢の人数で在府すれば食物に事欠き、飢民も多くなるでしょう。よって江戸の人口を減少させて民を救う一旦となります。万一この機に乗じ逆意の徒があっても、江戸で騒動を起こされるより地方で起こせば防ぐ方策もあろうかとこのように致しました」と述べた。頼宣は手を打って感嘆したという。ちなみに飢民救済のため、信綱は米相場高騰を見越して幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金として渡した。そのため江戸で大きな利益を得られると地方の商人が米を江戸に送ってきたため、幕府が直接に商人から必要数の米を買い付け府内に送るより府内は米が充満して米価も下がったという<ref>大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P242、P243。</ref>。 * 明暦の大火の時、大奥女中らは表御殿の様子がわからず出口を見失って大事に至らないように信綱は畳一畳分を道敷として裏返しに敷かせて退路の目印とし、その後に大奥御殿に入って「将軍家(家綱)は西の丸に渡御された故、諸道具は捨て置いて裏返した畳の通りに退出されよ」と下知して大奥女中を無事に避難させたという(『[[名将言行録]]』)<ref name="世界人物逸話大事典P260">朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、937頁。</ref>。 * [[慶安の変]]で[[丸橋忠弥]]を捕縛する際、丸橋が槍の名手であることから捕り手に多数の死者が出ることを恐れた信綱は策を授けた。丸橋の宿所の外で夜中に「火事だ」と叫ばせた。驚いた丸橋が様子を見ようとして宿所の2階に上ってくると、その虚をついて捕り手が宿所内に押し寄せて丸橋を捕らえたという(『[[名将言行録]]』)<ref name="世界人物逸話大事典P260">朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、937頁。</ref>。 === 信綱の忠義 === * 慶安4年(1651年)の家光の死の際に殉死しなかったことを江戸市民は非難し、「伊豆まめは、豆腐にしては、よけれども、役に立たぬは切らずなりけり」と皮肉ったという。他にも「弱臣院前捨遺豆州太守弱死斟酌大居士」と称され、「仕置きだて、せずとも御代は、まつ平、ここに伊豆とも、死出の供せよ」と皮肉られている。ただし信綱が殉死しなかったのは、家綱の補佐を家光から委託されていたためであり、信綱は「二君にまみえず」とは違う家中に仕えることを指しており、先代に御恩を蒙っている者が皆殉死したら誰が徳川家を支えるのかと反論している<ref>大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P216、P217、P286</ref>。 * 武田流兵法を教える[[小幡景憲]]と学問の話をしたとき、信綱は「[[武田信玄]]は名将であっても、終に天下を取る人ではなかった。家康公は古今の名将である。よって信玄の兵法を習はんより聞かんより権現様の御武略の事を聞、四書五経をきかんより御代々の御法度を知たる人に聞給はば差当りて身の徳と成へし」と言った<ref>大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P42</ref>。 * 家光の小姓の時代のとき、他の小姓が務めをさぼりがちだったのに対し、信綱は常に詰所にあって主君の御用に間に合わないことは無かったという<ref>『名将言行禄』。朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、P936</ref>。 * 家光が竹千代と名乗っていた頃、将軍の秀忠の寝殿の軒端でスズメが巣を作り、子がかえった。当時は11歳だった三十郎こと信綱は家光から「巣を取ってまいれ」と申し付けられたので、日が暮れてから寝殿の軒に忍んだ。ところが巣を取るとき、誤って足を踏み外して中庭に落ちてしまい、寝殿にいた秀忠に気づかれてしまった。秀忠は刀を手にして「誰の命令でここに来た?」と問い詰めたが信綱は「自分がスズメの巣が欲しかっただけでございます」と答えるのみであった。秀忠は誰の命令か事情を察していたが強情な信綱を見て、「年齢に似ず不敵な奴だ」と信綱を大きな袋に入れて口を封じて縛りつけた。秀忠の正室で家光の生母である於江も事情を察して、夜が明けると侍女に命じて密かに信綱に朝食を与えた。昼に秀忠は再び誰の命令か言うように問い詰めたが、信綱は前と同じように答えるだけだった。秀忠はその態度を見て怒るどころか今後を戒めた上で解放した。のちに秀忠は江に向かって「(信綱が)今のまま成長したら、竹千代の並びなき忠臣となるだろう」と言って喜んだという<ref>『名将言行禄』。朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、P936、P937</ref>。 === その他 === * [[比企郡]][[川島町]]には「出丸」という地名があり、一説によれば、これは信綱の政治手腕に感激した出丸村の農民たちが信綱の事を「いでまる(伊豆丸)」と呼びそれがそのまま地名になって定着したという。 * 幕府の実力者として諸藩より評価されており、依頼を受けた場合は幕藩関係で事前の根回しや指南を行う[[取次の老中]]となってその藩の指導をおこなった。 == 略年譜 == (老中就任の年月日は諸説あり、略年譜の日付は代表的と思われる説をあげてある)。 * 慶長元年10月30日(1596年12月19日)、現在の[[埼玉県]][[伊奈町]]に誕生。 * 慶長6年([[1601年]])、叔父[[松平正綱]]の養子となる(慶長8年([[1603年]])説あり)。 * 慶長9年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]([[1604年]][[8月20日]])、[[徳川家光]]の小姓となる。 * [[元和 (日本)|元和]]9年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]([[1623年]][[8月23日]])、従五位下伊豆守に叙任。 * [[寛永]]4年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]([[1627年]][[2月19日]])、1万石となり、大名に列する。 * 寛永9年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]([[1632年]][[12月29日]])、[[老中格]]となる。 * 寛永10年[[3月23日 (旧暦)|3月23日]]([[1633年]][[5月1日]])、松平信綱・[[阿部忠秋]]・[[堀田正盛]]・[[三浦正次]]・[[太田資宗]]・[[阿部重次]]が六人衆となる(後年の[[若年寄]]に相当する)。 * 寛永10年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]](1633年[[6月11日]])、老中に任ぜられる。同日、[[忍藩]]3万石に封ぜられる。 * 寛永11年[[7月29日 (旧暦)|閏7月29日]]([[1634年]][[9月21日]])、従四位下に昇叙。 * 寛永14年([[1637年]]) - 寛永15年([[1638年]])、[[島原の乱]]の鎮圧のため、[[九州]]に赴く。 * 寛永15年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]](1638年[[12月12日]])、老中首座となる。 * 寛永16年1月5日([[1639年]][[2月7日]])、[[川越藩]]6万石に転封。 : 川越藩主時代には、[[川越街道]]や城下町の整備、[[野火止用水]]の開削などに手腕を発揮している。 * 寛永20年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]([[1643年]][[12月14日]])、侍従を兼任。 * [[慶安]]4年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]([[1651年]][[6月8日]])、徳川家光、没。 * 慶安4年([[1651年]])7月、[[慶安の変]]。 * [[承応]]2年[[6月5日 (旧暦)|閏6月5日]]([[1653年]][[7月29日]])、老中首座から老中次座(首座に次ぐ席次)となる。 * 寛文2年3月16日(1662年5月4日)、病没。 == 登場作品 == ;信綱を題材とした作品 :* 書籍 :** 中村彰彦『知恵伊豆に聞け』(実業之日本社、2003年) ISBN 4408534390 :* テレビドラマ :** 『[[寛永風雲録 (テレビドラマ)|寛永風雲録 激突!知恵伊豆対由比正雪]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[1991年]]、演:[[里見浩太朗]]) :<!-- この「:」は削除しないでください。[[Help:箇条書き]]参照 --> ;その他の作品 :* 漫画 :** [[よしながふみ]]『[[大奥 (漫画)|大奥]]』([[白泉社]]) :* テレビドラマ :** 『[[大奥 (1968年のテレビドラマ)|大奥 (1968年版)]]』(関西テレビ、1968年、演:[[中村錦司]]) :** 『[[大奥 (1983年のテレビドラマ)|大奥(1983年版)]]』(関西テレビ、1983年、演:[[平幹二朗]]) :** 『[[大奥〜誕生[有功・家光篇]]]』(TBS、2012年、演:[[段田安則]]) == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == * 岩田祐作『<small>鎖国を完成させた男</small> 松平伊豆守信綱』(文芸社、2004年) * [[中村彰彦]]『知恵伊豆と呼ばれた男 <small>老中松平信綱の生涯</small>』(講談社、2005年)のち文庫 ==関連文献== *[[大野瑞男]]『松平信綱』(吉川弘文館人物叢書、2010年) *[[朝倉治彦]] [[三浦一郎]]『世界人物逸話大事典』角川書店 1996年、P664 == 関連項目 == *[[川越五河岸]] *[[隠密]] *[[中根正盛]] {{大河内(大河内松平)氏歴代当主|松平伊豆守系|1620年 - 1662年|初代}} {{忍藩主|[[大河内氏|大河内松平氏]]||1633年 - 1639年}} {{川越藩主|大河内松平氏|初代|1639年 - 1662年}} {{DEFAULTSORT:まつたいら のふつな}} [[Category:大河内松平氏|のふつな]] [[Category:大河内氏|のふつな]] [[Category:江戸幕府旗本]] [[Category:譜代大名]] [[Category:忍藩主]] [[Category:川越藩主]] [[Category:江戸幕府老中]] [[Category:日本の財政家]] [[Category:1596年生]] [[Category:1662年没]]
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