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東胤頼
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{{Otheruses|鎌倉時代の武将で[[千葉常胤]]の六男|戦国時代の武将|千葉胤頼}} {{基礎情報 武士 | 氏名 = 東胤頼 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 時代 = [[平安時代]]末期 - [[鎌倉時代]]前期 | 生誕 = [[久寿]]2年([[1155年]]) | 死没 = [[安貞]]2年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]([[1228年]][[11月10日]]) | 改名 = | 別名 = 千葉胤頼 | 諡号 = | 戒名 = | 墓所 = | 官位 = [[従五位下]] | 幕府 = [[鎌倉幕府]] | 主君 = [[源頼朝]] | 氏族 = [[千葉氏]]、[[東氏#東氏 (千葉氏一族)|東氏]] | 父母 = 父:[[千葉常胤]] | 兄弟 = [[千葉胤正|胤正]]、[[相馬師常]]、[[武石胤盛]]、[[大須賀胤信]]、<br/>[[国分胤通]]、'''胤頼'''、[[律静房日胤|日胤]] | 妻 = | 子 = '''[[東重胤|重胤]]''' | 特記事項 = }} '''東 胤頼'''(とう たねより)は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期の武将。[[千葉氏]]の一族。[[千葉常胤]]の六男。[[東氏#東氏 (千葉氏一族)|東氏]]、[[遠藤氏]]の祖。胤頼は六男であり[[従五位]]の別称[[大夫]]を付し、東六郎大夫と称した。 == 生涯 == [[以仁王の挙兵]]時には[[大番役]]として在[[京都|京]]していた。[[吾妻鏡]]によると収束後[[関東]]に下り、共に大番役を終えたばかりの[[三浦義澄]]と[[伊豆国]]の[[源頼朝]]の下に参上している。この際に以仁王の挙兵の詳細を報告し、頼朝に対して何らかの決断を促した、もしくは既に決起を決心していた頼朝から何らかの指示を受け取ったと考えられている<ref>三浦の次郎義澄・千葉の六郎大夫胤頼等北條に参向す。日来京都に祇侯す。去る月中旬の比、下向せんと欲するの刻、宇治合戦等の事に依って、 官兵の為抑留せらるの間、今に遅引す。数月の恐鬱を散ぜんが為参入するの由これを申す。日来番役に依って在京する所なり。武衛件の両人に対面し給う。御閑談刻を移す。他人これを聞かず。…(『吾妻鏡』治承4年6月27日条)</ref>。 後[[下総国]]に戻り、父常胤に対して[[安房国]]へ逃れた頼朝への加勢と下総[[目代]]を誅することを主張、常胤もこれを認めて頼朝の軍に合流する事を決定し、胤頼は[[千葉荘]]を後にするに際し長兄[[千葉胤正|胤正]]の子[[千葉成胤|成胤]]と共に下総目代を襲い攻め滅ぼした<ref>安房国を出て、[[上総国]]に赴かしめ給う。所從の精兵三百餘騎に及ぶ。而るに廣常、軍士等を聚めるの間、猶遅参すと。今日、千葉介常胤子息親類を相具し、[[源家]]に參らんと欲す。爰に東六郎大夫胤頼父に談りて云く、當國目代は平家の方人なり。吾等一族悉く境を出て源家に參らば、定めて凶害を插むべし。先ずこれを誅すべきかと。…(『吾妻鏡』治承4年9月13日条)</ref>。そのため下総国[[千田荘]][[領家]]で[[皇嘉門院]][[判官代]]の[[藤原親政]]が千余騎を率いて千葉荘に侵入、千葉荘に戻った成胤と合戦になり、わずか七騎で迎え撃った成胤が絶体絶命のなか遂に親政を生虜にしたと言う<ref>下総国千田荘領家判官代親政は、[[平忠盛|刑部卿忠盛朝臣]]の聟なり。平相国禪閤に其の志を通ずるの間、目代誅せらるの由を聞き、軍兵を率い常胤を襲わんと欲す。之に依って、常胤孫子小太郎成胤相戰う。遂に親政を生虜らん。…(『吾妻鏡』治承4年9月14日条)</ref>。[[平家]]の総帥[[平清盛|清盛]]の姉婿親政を生虜にしたことで様子見していた[[上総広常]]など[[坂東]]の[[武士団]]がこぞって頼朝の軍に合流、関東における頼朝の軍事力は平家方の勢力を大きく上回る事になった。 この後、頼朝は[[治承・寿永の乱]]を制し、下総国を掌握した常胤より[[東荘]]を相続され、以降胤頼の子孫は東氏を名乗る事になる。 その他『吾妻鏡』には[[一ノ谷の戦い]]、[[奥州合戦]]などに名を残す。また[[建久]]元年([[1190年]])の頼朝の上洛にも随員として記されている。以降記録から胤頼の名は消え、子、[[東重胤|重胤]]に[[家督]]を譲ったと考えられている。 大番役の際、胤頼が叙された位は[[貴族]]とされ[[昇殿]]を許されるとされる[[従五位下]]であり、これは父常胤の位の[[正六位上]]とは歴然とした違いがある。また[[上西門院]]に[[院司|仕える]]ことでは同じであり、頼朝は「官位は朝廷より賜った物であるので、これに従う事」とし、公の場でも胤頼が常胤より上座に位置する事もあり、信頼が厚かったと言う。胤頼が父より高位を贈られた理由として、[[和歌]]などの文芸に通じていたともされ、後に東氏は歌道において[[古今伝授]]を行いうる地位を確立するが、その源流がここに見て取れる<ref>御奉幣の事終わり還御の後、椀飯有り。抑も今日御神拜之間、供奉人等、廟庭の左右に相分かれ著座す。而るに胤頼父常胤に相對して着す。聊か座の下方に寄ると、人甘心せず。是れ仰せに依って此の如しと。常胤は父たりと雖も六位なり。胤頼は子たりと雖も五品なり。官位は君の授く所なり。何ぞ賞せざるやの由仰せ下さると。この胤頼は、平家天下の権を執る時、京都に候すと雖も、更にその榮貴に諂わず。遠藤左近將監持遠の擧に依って、上西門院に仕う。御給を被り從五位下に叙す。また持遠の好に就いて、神護寺の文學上人を以て師檀と為す。文學伊豆国に在る時同心せしめ、二品に示し申すの旨有り。遂に義兵を擧げ給うの比、常胤に勸め最前に参向せしむ。兄弟六人の中殊に大功を抽んずる者なり。…(『吾妻鏡』文治2年正月3日条)</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:とう たねより}} [[Category:東氏 (千葉氏)|たねより]] [[Category:平安時代の武士]] [[Category:鎌倉時代の武士]] [[Category:1155年生]] [[Category:1228年没]] [[Category:下総国の人物]]
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