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李鵬
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{{政治家 |人名 =李鵬 |各国語表記 =李鹏<br/>Li Peng |画像 = Li Peng.png |画像説明 = 2000年9月13日、[[ロシア]]・[[クレムリン]]にて |国略称 ={{PRC}} |生年月日 ={{生年月日と年齢|1928|10|20}} |出生地 ={{ROC}}、[[上海市]] |没年月日 = |死没地 = |出身校 = |前職 = |現職 = |所属政党 =[[File:Flag of the Chinese Communist Party.svg|25px]] [[中国共産党]] |称号・勲章 = |親族(政治家) =[[周恩来]](養父) |配偶者 =朱琳 |サイン = Li Peng Sign.png |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 =中華人民共和国 |職名 =第7代[[全国人民代表大会]]常務委員長 |内閣 = |就任日 =[[1998年]][[3月16日]] |退任日 =[[2003年]][[3月15日]] |元首職 =[[中華人民共和国主席|国家主席]] |元首 =[[江沢民]] |国旗2 =中華人民共和国 |職名2 =第4代[[国務院総理]] |内閣2 =李鵬内閣 |就任日2 =[[1988年]][[4月9日]] |退任日2 =1998年[[3月17日]]<br><small>[[1987年]][[11月24日]] - 1988年4月9日まで国務院総理代行 |元首職2 =国家主席 |元首2 =[[楊尚昆]]<br>江沢民 |国旗3 =中華人民共和国 |職名3 =[[中華人民共和国国務院|国務院]]副総理 |内閣3 =[[趙紫陽]]内閣 |就任日3 =[[1983年]][[6月20日]] |退任日3 =1988年4月9日 |元首職3 =国家主席 |元首3 =[[李先念]] |国旗4 =中華人民共和国 |職名4 =初代[[中華人民共和国教育部|国家教育委員会]]主任 |内閣4 =趙紫陽内閣 |就任日4 =[[1985年]][[6月18日]] |退任日4 =1988年4月9日 |元首職4 = |元首4 = |国旗5 =中華人民共和国 |職名5 =第2代電力工業部長 |内閣5 =趙紫陽内閣 |就任日5 =[[1981年]]3月 |退任日5 =[[1982年]]3月 |元首職5 = |元首5 = }} {{中華圏の人物 |名前=李鵬 |画像種別= |画像= |画像の説明= |出生= |死去= |出身地= |職業= |繁体字=李鵬 |簡体字=李鹏 |ピン音=Lĭ Péng |和名=り ほう |発音=リー・ポン }} {{中華人民共和国}} '''李 鵬'''(り ほう、リー・ポン、本名'''李遠芃'''、[[1928年]][[10月20日]] - )は[[中華人民共和国]]の[[政治家]]。[[国務院総理]]([[首相]])、[[全国人民代表大会常務委員会]]委員長(国会議長に相当)、[[中国共産党中央政治局常務委員会|中国共産党中央政治局常務委員]]などを務めた。初代国務院総理の[[周恩来]]・[[鄧穎超]]夫妻の養子となり、建国の元老である養父母を後ろ盾として[[中華人民共和国国務院|国務院]]トップまで上り詰めた二世政治家。 ==経歴== === 生い立ち === 李鵬の父[[李硯勛]]は[[中国共産党]]初期の指導者であったが、[[中国国民党]]に処刑されたといわれる。周恩来とその妻鄧穎超は子供に恵まれなかったため孤児を引き取って養っており、李鵬もその1人であった。 [[1945年]]11月、[[中国共産党]]に入党。[[1948年]]から[[1955年]]まで[[ソビエト連邦|ソ連]]に留学し、モスクワ科学動力学院で水力発電を学ぶ。帰国後、東北電管局所属の豊満水利発電廠や阜新発電廠で発電作業に従事。[[1966年]]からは華北電管局所属の北京供電局に異動。[[1979年]]、電力部に移る。 1979年から[[1983年]]にかけて、電力工業部副部長(次官)、電力工業部長(大臣)、水利電力部副部長を歴任。[[1982年]]9月の第12回党大会で[[中国共産党中央委員会|中央委員]]に選出された。 === 国務院総理へ === [[1983年]]6月に国務院副総理。[[1985年]]の第12期党中央委員会第5回全体会議(第12期5中全会)で[[中国共産党中央政治局|政治局委員]]、[[中国共産党中央書記処|中央書記処]]書記に選出。同年6月、[[中華人民共和国教育部|国家教育委員会]]主任(大臣級)に就任。 [[1987年]]11月の[[中国共産党第十三期中央委員会第一回全体会議|第13期1中全会]]で[[中国共産党中央委員会総書記|党総書記]]に就任した[[趙紫陽]]の後継として、国務院総理に指名され、政治局常務委員に選出される。[[1988年]][[4月9日]]、正式に国務院総理に就任。 経済政策は引き続き趙紫陽が主管していたが、[[鄧小平]]が推進した価格改革によってハイパーインフレが発生し、趙紫陽は経済政策の転換を迫られた。李鵬は趙紫陽に替わって経済政策の実権を握り、1988年9月末の第13期3中全会で党指導部は経済改革をトーン・ダウンし、「調整・引き締め」を行うことを決定した<ref>天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』<中国の歴史11>(講談社、2004年)、282ページ。</ref>。ただし、李鵬も総理就任の活動報告で、価格改革の必要性を訴えていた。 [[1989年]]の[[第二次天安門事件]]では一貫して強攻策を主張している。趙紫陽が北朝鮮の訪問中に留守を託された李鵬ら保守派は鄧小平に事態を誇張して報告し、鄧小平は学生運動を動乱と認定する。その意向は4月26日付『人民日報』社説である「[[旗幟鮮明に動乱に反対せよ]]」に反映された。この社説に対する見解を巡って趙紫陽と決裂し、学生との対話でも小バカにした態度に終始、さらに5月19日、党・国務院・人民解放軍などの幹部を集めた大会で行った講話でも学生たちの不満を煽った。 天安門事件によって趙紫陽総書記と[[胡啓立]]政治局常務委員の失脚が確定的となった後、鄧小平たち[[八大元老]]は総書記の人選に入ったが、李鵬が候補として挙げられた形跡はなく、上海市党委書記で学生デモや『世界経済導報』停刊の対応を評価された[[江沢民]](当時政治局委員)の後塵を拝することになった。学生運動の開始後ずっと前面に出ていたため、国内外に対する印象の悪さも考慮されたと思われる。 李鵬は政局の安定を重視し、経済の自由化には消極的であった。天安門事件以降、李鵬ら保守派の影響力が強まり、改革開放路線は停滞すると、政局安定のために保守派と妥協していた鄧小平もついに業を煮やし、[[1992年]]の旧正月に[[広東省]]や[[深セン市|深圳市]]などの[[経済特区]]を突如訪れ、改革開放路線の推進・加速を訴える談話を発表して回った([[南巡講話]])。これ以降、改革派が勢いづき、李鵬ら保守派は影響力を失っていった。 政局および政策の転換により、[[1993年]]の任期をもって総理を退任し、経済通の[[朱鎔基]]が後継者となるという見解が大勢を占めていたが、これに反して続投が決まった。総理候補として挙がったのが李鵬だけだったため、事実上の信任投票となったが、反対票は[[曽慶紅]]([[2003年]]、[[中華人民共和国副主席|国家副主席]]就任)と同率の12.5%(反対210票)に達した。[[1994年]]、国内の大反対を押し切って、三峡ダムの着工を強行。家族に電力会社関係者が多く、批判を集めた。 [[1993年]]、[[日本]]について、[[オーストラリアの首相|オーストラリア首相]]であった[[ポール・キーティング]]が訪中した時に、「日本は取るに足るほどの国ではない。20年後には地上から消えていく国となろう<ref>参議院議員笠原潤一は「米国人の方はどちらかというと日本人よりも中国人の方に親近感を感じているわけです、長い歴史の上からいっても。中国人社会がいかにアメリカの中に溶け込んでいるかというのは日本人社会以上ですから。そういう点からいえば、時々は米中はぎすぎすしますけれども、お互いの話というのは、コミュニケーションというのは非常にいいわけです、これはもう第二次世界大戦の例を見てもわかるように。ですから、その点では我々はそういう点をもう少し認識しないと、日米というよりも中米の方が本当を言えばタイトなんですよ、いろんなことからいって非常に関係が深いわけですから。そういう点で、その点もしっかり把握しておかないと日米という問題は将来大変なことになるだろう」と米中日の関係を話したうえで、次のように報告している。「この前、ちょうどAPECを控えて、我が自民党で御承知のようにAPECの問題でアメリカとオーストラリアに行ってもらったんです。そのときに、オーストラリアのキーティング首相がこう言ったんです。中国の李鵬さんと会ったらどう言ったかといいますと、日本とのいろんな話をしたら、いや日本という国は四十年後にはなくなってしまうかもわからぬと、そう言ったというんです。これはうそじゃありません、これはほかの先生みんな行って言っているんですから。それくらい軽視されているわけです、ある意味では。」{{cite web|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/134/1540/13411081540002c.html|title=参議院会議録情報 第134回国会 国際問題に関する調査会 第2号|last=参議院|date=1996-11-08|language=日本語 |accessdate=2007年9月4日 }}</ref>」あるいは「30年もしたら日本は大体つぶれるだろう<ref>{{cite web|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/140/0780/14005090780004c.html|title=衆議院会議録情報 第140回国会 行政改革に関する特別委員会 第4号|last=衆議院|date=1998-05-09|language=日本語 |accessdate=2007年9月4日 }}</ref>」といった内容の発言をしたとされている。また、1995年に「'''日本などという国は20年後には消えてなくなる'''」と発言したと、テレビ番組「[[TVタックル]]」([[テレビ朝日]]系)で紹介された。<ref>2006年7月3日の放送</ref>。 === 総理退任後 === [[1998年]]3月、朱鎔基に総理の座を譲り、全人代常務委員長に就任。[[2002年]]4月に全人代常務委員長として訪日し、日中間の友好関係の構築について発言した<ref>[http://j.peopledaily.com.cn/zhuanti/Zhuanti_47.html]</ref>。[[2003年]]に退任し、政界から引退した。 [[2008年]][[2月5日]]、脳梗塞を起こし[[北京301医院]]に搬送された。半年後の[[9月25日]]、高速鉄道「[[中国鉄路高速|和諧号]]」に乗車しているところを報じられ、健在が確認された。[[2009年]]3月に開かれた全人代にも出席している。 一方で、2009年11月にカナダの明鏡網が、李鵬が重病との情報を伝えている<ref>[http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=1118&f=politics_1118_011.shtml]</ref>。 [[2010年]]6月、李鵬自身が第二次天安門事件勃発直前の動向についてまとめた手記が、香港にある新世紀出版社から出版されるとの報道があった。この手記は[[2004年]]に書き上げられたものの、党政治局によって発行禁止とされたために香港での出版となったが、直前になって版権を理由に出版が差し止められた。なお、同書はアメリカで出版にこぎつけているが、香港版と内容が同一であるかについては確認が取れていない。 長男の[[李小鵬 (中華人民共和国の政治家)|李小鵬]]は[[太子党]]の一員で、現在は[[山西省]]省長である。 == 年譜 == *[[1928年]] [[中華民国]][[上海市]]に生まれる(原籍:[[四川省]][[成都市]]) *[[1941年]] - [[1955年]] [[延安]]中学、延安自然化学院、[[張家口]]工業専門学校、[[北京工業学院]]、[[モスクワ]]動力学院 卒業 *[[1945年]] [[中国共産党]]入党 *[[1948年]] - [[1955年]] ソ連モスクワ動力学院留学 *[[1955年]] 豊満発電工場副工場長、東北電業管理局 *[[1966年]] 北京供電局党委代理書記、革命委員会主任、北京電業管理局長 *[[1979年]] - [[1983年]] 電力工業部副部長、部長、水利電力部副部長などを歴任 *[[1983年]] 国務院副総理 *[[1985年]] 政治局委員、中央書記処書記(第12期5中全会)、国家教育委員会主任 *[[1987年]] 政治局常務委員([[中国共産党第十三期中央委員会第一回全体会議|第13期1中全会]]) *[[1988年]] 国務院総理、国家経済体制改革委員会主任 *[[1998年]] 第9期全人代常務委員長 *[[2003年]] 全人代常務委員長退任 ==「元宵」事件== 『[[人民日報]]』海外版[[1990年]][[3月20日]]号に、美国([[アメリカ合衆国]])留学生の作として、以下の七言[[律詩]]が掲載された。 東風拂面催桃'''李'''<br /> 鷂鷹舒翅展'''鵬'''程<br /> 玉盤照海'''下'''熱涙<br /> 遊子登'''台'''思故國<br /> 休負'''平'''生報國志<br /> 人'''民'''育我勝萬金<br /> '''憤'''起直追振華夏<br /> 且待神洲遍地春<br /> そのまま読めば、春の訪れを待つ愛国的な留学生の気持ちを詠ったものである。しかし、右斜め上から下に「李鵬下台平民憤」(李鵬が辞めれば民の憤りは収まる)という文が隠されていたため大騒ぎになった。「人民'''育'''我勝萬金」の列は、「人民'''有'''我勝萬金」と誤って紹介されることがある。 中文版[http://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%8E%E9%B9%8F%E4%B8%8B%E5%8F%B0%E5%B5%8C%E5%AD%97%E8%AF%97&variant=zh-cn 李鹏下台嵌字诗]も参照。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} <div class="references-small"><references /></div> == 関連項目 == *[[太子党]] *[[縦読み]] *[[折句]] *[[蔵頭詩]] *[[文字の獄]] == 外部リンク == *[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/index.html 外務省各国インデックス] *:[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/kokka.html 中国国家機関組織図] *[http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/ziliao/2002-01/15/content_238495.htm 略歴(中国語)] {| class="wikitable" style="margin:0 auto" |- ! {{Flagicon|CHN}}[[中華人民共和国]] {{先代次代|[[全国人民代表大会]]<br>常務委員長|[[1998年]] - [[2003年]]|[[喬石]]|[[呉邦国]]}} {{先代次代|[[国務院総理]]|[[1988年]] - [[1998年]]|[[趙紫陽]]|[[朱鎔基]]}} {{先代次代|[[中華人民共和国教育部|国家教育委員会主任]]|[[1985年]] - [[1988年]]|[[何東昌]]|[[李鉄映]]}} {{先代次代|電力工業部長|[[1981年]] - [[1982年]]|劉瀾波|水利電力部に再編}} |- |} {{中華人民共和国国務院総理}} {{DEFAULTSORT:りほう}} [[Category:中華人民共和国の政治家]] [[Category:国務院総理]] [[Category:太子党]] [[Category:六四天安門事件の人物]] [[Category:中国共産党の人物]] [[Category:上海出身の人物]] [[Category:1928年生]] [[Category:存命人物]] {{Politician-stub}}
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