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李如松
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'''李如松'''(り じょしょう、[[1549年]] - [[1598年]])は、[[明代]]の武将。 [[遼東]][[鉄嶺市|鉄嶺衛]]の出身で、[[字]]は子茂、[[諡]]は忠烈。遼東安定に多大な功のあった[[李成梁]]の長子。 [[万暦]]2年(1574年)に鉄嶺衛都指揮同知を父より世襲し、同じく[[万暦]]8年(1580年)に寧遠伯を一ヶ月遅れで世襲した。[[万暦]]12年(1584年)に山西総兵、翌[[万暦]]13年(1575年)に京城巡捕[[都督]]僉事、[[万暦]]16年(1578年)に宣府総兵を歴任した。<ref name="wada1986">和田和広「李成梁一族の軍事的台頭」1986年</ref> [[万暦]]20年(1592年)の[[ボハイの乱]]の鎮圧でも戦功を認められ、その直後に始まった[[文禄・慶長の役]]では防海禦倭総兵官として、朝鮮への援軍を率いた。朝鮮に入ると、[[万暦]]21年(1593年、文禄2年)1月に[[平壌]]城に拠る[[小西行長]]の軍勢を急襲して落城寸前まで追い込み、包囲を一部解いて自主撤退を勧告し、平壌を回復した。更に李如松は撤退する小西軍を追撃したが、[[ソウル特別市|漢城]]へ進撃する途上での[[碧蹄館の戦い]]で[[小早川隆景]]、[[立花宗茂]]らの軍勢に大敗を喫し、平壌に撤退した。その後、積極的な攻勢に出ることはなく、和議による事態収拾を図った。9月には朝鮮軍務経略の宋応昌と共に李如松も帰国した<ref>北島万次『秀吉の朝鮮侵略と民衆』2012年、岩波新書、p98</ref>。[[文禄・慶長の役|慶長の役]]には参戦していない。 万暦25年(1597年)に東西虜10万により遼東静遠堡などが一週間に渡って侵略を受けたことに対応する為、鎮守遼東[[総兵官]]として王保の後任として着任し、[[太子太保]]を加えられた。翌万暦26年(1598年)年4月に李如松は城外で伏兵に遭って戦死した。「これと語れば、みな「娓娓精当」と評価されるほど傑出していたとされた。また[[万暦帝]]の信任が非常に厚く、その死は悲しみ悼まれ、死後に少保寧遠伯を追号し、謚を贈り、祠を建て、加葬営葬を命じ、子を取り立てて厚遇した<ref name="wada1986"/>。 == 系譜 == * 父 [[李成梁]] * 叔父 李成材 * 弟 [[李如柏]]、[[李如楨]]、[[李如樟]]、[[李如梅]]、李如梓、李如梧、李如桂、李如楠。 ([[明史]] 李如松伝による) == 出典 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == *「明史 巻238/列伝126」[http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%98%8E%E5%8F%B2/%E5%8D%B7238] {{DEFAULTSORT:りしよしよう}} [[Category:明代の人物]] [[Category:朝鮮族]] [[Category:文禄・慶長の役]] [[Category:鉄嶺出身の人物]] [[Category:1549年生]] [[Category:1598年没]]
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