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朴憲永
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{{Infobox 人物 |氏名 = {{Lang|ko|朴 憲永}} |ふりがな = パク・ホニョン<br />{{Lang|ko|박 헌영}} |画像 = Pak Hon-yong.jpg |画像サイズ = 250px |画像説明 = |生年月日 = {{生年月日と年齢|1900|5|28|死去}} |生誕地 = {{KOR1897}}[[忠清南道]][[礼山郡]]新陽面新陽里299番地 |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1900|5|28|1956|12|15}} |死没地 = {{PRK}}[[平壌直轄市]] |職業 = [[政治家]]・独立運動家・[[啓蒙運動家]]·言論人 |出身校 = [[京城府]][[京城高等普通学校]] |配偶者 = 朱世竹・鄭順年<ref>http://www.munhwa.com/news/view.html?no=2004121601012543051001</ref>・李順今・尹リナ |子供 = ビビアン 朴(女)・朴秉三(子、法名圓鏡)・ナターシャ 朴(女、行方不明)・セルゲイ 朴(子、行方不明) }} {{朝鮮の人物 |title=朴憲永 |picture= |caption= |hangeul=박헌영 |hanja=朴憲永 |hiragana=ぼく けんえい |katakana=パク・ホニョン |latin={{Lang|la|Pak Hon Yong}} |alphabet-type= |alphabet= }} '''朴 憲永'''(パク・ホニョン、{{lang-ko|박헌영}}、[[1900年]][[5月28日]] - [[1956年]][[12月15日]](?))は、[[朝鮮]]の[[独立運動家]]・抗日闘士・[[革命家]]・[[政治家]]·言論人である。朝鮮の[[共産主義]]運動黎明期以来の活動家であり、[[エスペラント|エスペランティスト]]。[[朝鮮戦争]]の開始に関わったが、後に[[金日成]]によって[[粛清]]された。字は徳永、号は而丁(イジョン・{{lang|ko|이정}})、金 成三(金 ソンサム・{{lang|ko|김성삼}})。 == 生涯 == === 生い立ち === 朴憲永は、[[忠清南道]][[礼山郡]][[新陽面]]に、朴鉉周と彼の妾李学奎の息子として生まれる。本貫は[[寧海朴氏]]、[[新羅]]の[[政丞]][[朴堤上]]の56代孫。しかし、彼は庶子であった。朝鮮の両班の家柄の子孫だったが、彼は庶子という理由で差別的な待遇を受けた。朴憲永の生年は不確実である。[[1898年]]生まれ説、[[1899年]]生まれ説、[[1901年]]生まれ説などがある。通常、[[1900年]]生まれ説が広く認められている。 幼年期に[[漢学]]を学び、大興普通小学校に進学する。[[1916年]]、ソウルの京城高等普通学校に進学した。京城高普の同窓生には[[李範奭]]、[[詩人]][[沈薰]]などがいた。 === 独立運動 === [[ファイル:Park_Jhu_1928.jpg|thumb|right|ソ連に脱出した直後の朴、隣は最初の妻の朱世竹。(1928年)]] [[ファイル:1929년_박헌영.jpg|thumb|right|1929年のモスクワ国際レーニン学校生徒。朴は前列左から3番目。朱世竹は2列目右から3番目。後列右端に[[ホー・チ・ミン]]がいる。]] [[ファイル:1933_9_14_Pak-Hon_yong.jpg|thumb|right|1933年9月14日、[[西大門]]刑務所での写真。]] 京城高普3年時の[[1919年]]、[[三・一独立運動]]に参加。日本官憲に目を付けられ、[[上海市|上海]]に[[亡命]]する。上海では高麗共産党イルクーツク派に参加し、[[1922年]]には[[モスクワ]]で開催された極東諸民族大会に参加した。[[1925年]]には朝鮮に帰国し逮捕、投獄される。出獄後、[[東亜日報]]や[[朝鮮日報]]で記者を務める傍ら、[[朝鮮共産党#第1次朝鮮共産党|第1次朝鮮共産党]]の創建メンバーとなった。その際、高麗共産青年会を組織して、責任秘書となった。同年末、第1次朝鮮共産党事件によって逮捕されるが、自分の糞を食べるなど精神錯乱を装って病気保釈され、[[1928年]]に釈放された。 [[1928年]][[12月]]には[[ソビエト連邦|ソ連]]に逃亡、モスクワ共産大学で学んだ。[[1932年]]、上海にて逮捕。[[1939年]]に出獄し、[[光州広域市|光州]]の煉瓦工場の労働者として身分を隠しながら、地下組織「ソウル・コム」グループを指導した。 === 第二次世界大戦後 === [[第二次世界大戦]]で[[大日本帝国|日本]]が敗戦を迎えると、植民地時代の民族運動家は一斉に組織活動を開始した。植民地時代末期まで運動を継続していた者の多くは社会主義者だった。社会主義者たちは無数の組織を作り上げた。 米ソ両軍の[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|軍政]]下に置かれると朴憲永は[[朝鮮共産党]]再建準備委員会を結成したが、既に十数名の共産主義者によって朝鮮共産党が結成されていた。彼らは[[ソウル特別市|ソウル]]・長安ビルに[[看板]]を掲げたことから'''長安派共産党'''と呼ばれた、朴憲永による共産党は'''再建派共産党'''と呼ばれた。長安派は朴憲永を指導者に迎えようとしたが、朴憲永はこれを拒否し、長安派に解散を求めた。激しい論争の末、長安派は解党し再建派に加わるに至った。 [[ファイル:Lyuh.W.H and Pak.H.Y.jpg|thumb|200px|left|[[1946年]][[2月]]、[[呂運亨]](右)と]] 朴憲永がソウルにおける共産主義者を統合するまでに、[[平壌]]では朝鮮共産党北部分局を発足させたため、朴憲永は南半部におけるリーダーとなった。のち、朝鮮共産党北部分局は名称を北朝鮮共産党と改める。この段階では、朝鮮共産主義のみならず、朝鮮における政治運動の主流はすべてソウルでの活動にあるとみなされていた。 その後同党は他の左派・共産主義政党と合併し「[[南朝鮮労働党]]」('''南労党''')を結成。しかし[[アメリカ合衆国|アメリカ]]をバックとする[[大韓民国|韓国]]政府の弾圧を受け、[[1946年]]の夏に米軍政府から逮捕命令が出ると、朴を含む指導部は[[ソビエト連邦|ソ連]]をバックとする[[朝鮮民主主義人民共和国]]へと越境する。一説では、[[1946年]][[2月]]に、新生北朝鮮の指導者に、[[金日成]]と朴憲永のどちらが相応しいかを決める面接が[[ヨシフ・スターリン]]によって[[モスクワ]]で行われ、金日成に軍配が上げられたとも言われる。 ===南北交渉と北朝鮮滞在=== [[ファイル:허헌 박헌영 홍명희.jpg|thumb|right|260px|左から、[[白南雲]]、[[許憲]]、朴憲永、[[洪命熹]](1948年8月、人民代表大会)]] [[1948年]][[1月]]、彼は、[[李承晩]]による朝鮮南半部のみの単独政府樹立に対し、民族を分裂させる行為であると強く反対した。 [[1948年]][[4月]]朴憲永は、[[南北協商]](全朝鮮諸政党社会団体代表者連席会議)のために北朝鮮に向かった。 [[5月]]に[[南北協商]]は終わったが、朴憲永は南朝鮮に戻らず、[[平壌]]にそのままとどまった。朴憲永が南朝鮮に戻らなかったのは、韓国親米右翼政権樹立後の共産党弾圧の下で、地下運動は不可能と考えたからである。 === 北朝鮮での政治活動 === ==== 朝鮮戦争と金日成との対立 ==== [[ファイル:1948년_김일성_박헌영.JPG|thumb|left|260px|金日成(左)と朴憲永(右)(1948年)]] [[北朝鮮労働党]]と南朝鮮労働党が合併し、[[朝鮮労働党]]が成立するとその中央委員会副委員長(委員長は金日成)に就任。その後は[[副首相]]兼[[外相]]を務めた。[[甲山派]]を除く国内系共産主義者たち、とりわけ朴憲永に代表される南朝鮮労働党系(以下、南労党派)と、[[満州派 (朝鮮労働党)|満州派]](金日成派)とは長く対立していた。 [[朝鮮戦争]]が事実上失敗に終わって膠着状態に陥ると、戦争指導は中国人民義勇軍司令官・[[彭徳懐]]よって遂行されるようになり、金日成は国内の政敵に集中できる環境を得た。金日成は党の掌握に専念し、政敵の追い落としを準備していたと考えられている。 朝鮮戦争の責任を巡って南労党派と満州派との対立が激化した。朴憲永を押し立てた南労党派は組織的に金日成に挑戦した。[[1953年]]の初頭に南労党派は[[クーデター]]を企てたとされている<ref>徐大粛『金日成』林茂訳、御茶の水書房、1992年、147頁</ref>。クーデター計画が実際にあったのかどうか、真偽のほどは明らかではない。、戦争の混乱のなかで、南労党派の遊撃隊は、韓国軍により掃討された。 ==== 逮捕と見せしめ裁判 ==== [[File:Pak Hon yong.jpg|thumb|right|180px|朴憲永([[1952年]])]] 朝鮮戦争休戦後の1953年3月、朴憲永以下南労党派はクーデター容疑および「アメリカ帝国主義の[[スパイ]]」「反党分裂分子」などの容疑で一斉に逮捕され、同年8月には大々的な見せしめ裁判が展開された。ところが、[[李承ヨプ (政治家)|李承燁]]・[[李康国]]・[[林和]]・[[裵哲]]ら南労党派の有力者が問われたのはクーデタ未遂容疑ではなかった。彼らは、「米帝のスパイ」「政権転覆・南労党派のクーデター陰謀」「戦時50万蜂起流言飛語」という名分のもと、朝鮮戦争を失敗に導いたことを罪状として処刑された<ref>[[小此木政夫]](編著)『北朝鮮ハンドブック』講談社、1997年、148-149頁</ref>。このとき、[[延安派]](延安で中国共産党員として活動した朝鮮人たち)の有力者で、名高い軍人であった[[武亭]]も戦争の失敗の責任をとらされて追放された。逮捕された朴憲永は、党から除名され、職種も解任され、[[平安北道]]の[[鉄山郡]]にある政治犯収容所に収容されて[[拷問]]を受けた。 === 最期 === 朴憲永だけが他の被告と分離され、裁判も遅れて開始された。[[1956年]][[12月15日]]、朴憲永は北朝鮮の最高裁判所で裁判を受けた。その容疑は、「[[1919年]]([[三・一独立運動]])から『米帝の回し者』になり、植民地時代からの反国家的スパイ活動とテロ活動、宣伝扇動行為を行い、解放後は南半部で意図的に無謀な[[デモ行進|デモ]]や[[ストライキ]]を組織して多数の共産主義者を殺戮し、ついには北朝鮮政府の転覆を狙った」というものであった。他の被告に対するものにもまして馬鹿げた内容であったものの、朴憲永はこれらの容疑をすべて認めた。彼の訴追が遅れたのは、これらの容疑を認めさせるのに時間がかかったのであろうと考えられている。北朝鮮最高裁判所は、朴憲永を「アメリカ帝国主義のスパイ」と断じ、朴憲永はその日のうちに[[死刑]]判決を受けてほどなくして処刑されたという。 == 評価 == 彼は自分が一度信じた人は、最後まで信頼する性格だった。原理主義者という評価と、不寛容だという評価が存在する。[[北朝鮮]]や、[[北朝鮮]]に追随する[[韓国]]内の[[主体思想派]]は、彼が米国の間諜([[スパイ]])だと主張するが、朴憲永が米国のスパイをしたという物的証拠はない。 しかしいずれにせよ、北朝鮮では絶対悪の象徴的存在とされており、[[2013年]][[12月]]に[[金正恩]]政権が[[張成沢]]を粛清した際には、[[朝鮮中央放送#朝鮮中央テレビ|朝鮮中央テレビ]]で「張成沢一党こそ、[[李承ヨプ_(政治家)|李承ヨプ]](イ・スンヨプ)と朴憲永(パク・ホンヨン)の一党のように必ず歴史の峻厳な審判を受けるべき極悪な宗派([[分派]])集団」と放送し、張を朴、李と同様のスパイと主張した<ref>[http://japanese.joins.com/article/351/179351.html 「我々はあなたしか知らない」 労働新聞に金正恩賛歌 2013年12月12日13時26分] - 『[[中央日報]]』2013年12月12日閲覧</ref>。なお、張もやはり[[12月12日]]に処刑されている。 == 家族 == *父親:朴鉉周 *母親:耽津崔氏(嫡母)・李学奎(生母、父親の妾) *配偶者:[[朱世竹]]・鄭順年・李順今・尹リナ *子供:ビビアンナ 朴(女)<ref>[http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2004030164248 朴憲永の娘、悲劇の家族史を初公開 FEBRUARY 29, 2004 23:07] - 『[[東亜日報]]』[[金起顯]] 2013年12月12日閲覧</ref>・朴秉三(子、法名圓鏡)・ナターシャ 朴(女、行方不明)・セルゲイ 朴(子、行方不明) *親戚:朴芝永(異母兄)・朴新基(異母姉)・朴干理(異母姉) == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{col-begin}} {{col-2}} * [[朝鮮共産党]] * [[朝鮮共産党#第1次朝鮮共産党|第1次朝鮮共産党]] * [[朝鮮共産党#第2次朝鮮共産党|第2次朝鮮共産党]] * [[南朝鮮労働党]] * [[北朝鮮労働党]] * [[朝鮮戦争]] * [[金日成]] * [[金九]] * [[金奎植]] * [[金元鳳]] * [[金正日]] {{col-2}} * [[マルクスレーニン主義]] * [[スターリン主義]] * [[共産主義]] * [[ヨシフ・スターリン]] * [[呂運亨]] * [[李承ヨプ (政治家)|李承燁]] * [[李康国]] * [[林和]] * [[曺奉岩]] * [[裵哲]] {{col-end}} == 外部リンク == * http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/59757.html * http://www.munhwa.com/news/view.html?no=2004040201012130008002 * http://news.hankooki.com/ArticleView/ArticleView.php?url=life/200305/h2003050115525523400.htm&ver=v002 * [http://newsmaker.khan.co.kr/khnm.html?mode=view&code=116&artid=18330&pt=nv 부러져버린 ‘인민의 고무래’ 박헌영 ①](韓國語) * [http://newsmaker.khan.co.kr/khnm.html?mode=view&code=116&artid=18395&pt=nv 부러져버린 ‘인민의 고무래’ 박헌영 ②](韓國語) {| class="wikitable" style="margin:0 auto" |- ! {{PRK2}} {{先代次代|外務大臣|[[1948年]] - [[1953年]]|設置|[[南日]]}} |- |} {{DEFAULTSORT:はく ほによん}} [[Category:忠清南道出身の人物]] [[Category:朝鮮の独立運動家]] [[Category:韓国の政治家]] [[Category:韓国の言論人]] [[Category:北朝鮮の政治家]] [[Category:朝鮮戦争の人物]] [[Category:政治思想家]] [[Category:朝鮮・韓国の社会主義の人物]] [[Category:共産主義者]] [[Category:エスペランティスト]] [[Category:無神論者]] [[Category:拷問被害者]] [[Category:刑死した人物]] [[Category:1900年生]] [[Category:1956年没]]
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