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'''末次 平蔵'''('''すえつぐ へいぞう'''、[[天文 (元号)|天文]]15年([[1546年]])頃 - [[寛永]]7年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]([[1630年]][[7月5日]]))は、[[江戸時代]]初期の[[貿易商]]人・[[長崎代官]]。諱は政直。 [[博多]]の豪商[[末次興善]]の次男として生まれ、[[元亀]]2年([[1571年]])に[[長崎]]に移住。[[朱印船貿易]]で[[安南]]・[[タイ王国|シャム]]などと貿易を行う。 [[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])には長崎代官の[[村山等安]]を訴える。翌5年([[1619年]])に等安が処刑され、代わって長崎代官となる。 平蔵は「ジョアン」という洗礼名を持つ[[キリシタン]]だったが、キリシタン禁教時代には棄教して仏教に転宗し[[長崎奉行]]の[[長谷川権六]]に協力してキリシタンの弾圧に手を貸す。そしてキリシタン探索の目明を各地に派遣し、キリシタンを公職から追放した。寛永3年([[1626年]])に長崎の地にキリシタン棄教令が発せられた時に、同じく棄教した[[町年寄#長崎町年寄|長崎町年寄]]の[[高木作右衛門]]と共に、長崎奉行の[[水野守信]]に協力してキリシタンの弾圧を激しく行なう。 [[タイオワン事件]](ノイツ事件)を起こし、寛永7年(1630年)に江戸の牢獄に幽閉され、幕臣により斬殺される。幽閉・斬殺された理由は、幕府の重臣が禁止されている貿易に手を出していたことを知ったためとされるが、詳細は不明である。 法名は雲証院殿華岳浄皎居士。菩提寺は華嶽山春徳寺。[[延宝]]4年([[1676年]])、4代茂朝の代に密貿易が発覚。一族は処罰され初代平蔵の墓石も失われた。 この平蔵という名前は、2代代官[[末次茂貞]]・3代代官[[末次茂房]]・4代代官[[末次茂朝]]も名乗っている。 『長崎名勝図絵』には、末次茂房が父政直の石郭を造ろうとして、[[長崎氏 (九州)|長崎氏]]の鶴城本丸跡にある竜頭巌と呼ばれる岩の一部を切り出そうとしたところ、岩の間から血が滲み出たと記されている。 == 関連項目 == * [[平山常陳事件]] * [[タイオワン事件]] {{DEFAULTSORT:すえつく へいそう}} [[Category:江戸時代の商人]] [[Category:棄教したカトリックの人物]] [[Category:江戸幕府の郡代・代官]] [[Category:日本の近世の海事関係者]] [[Category:1630年没]] [[Category:長崎市の歴史]] [[Category:筑前国の人物]]
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