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'''有吉 熊次郎'''(ありよし くまじろう、[[天保]]13年([[1842年]]) - [[元治]]元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]([[1864年]][[8月20日]]))は、日本の[[武士]]・[[長州藩|長州藩士]]、[[尊皇攘夷]]派の[[志士]]。'''熊次郎'''は[[通称]]で、[[諱]]は'''良明'''(もしくは良朋)、[[字]]は'''子徳'''、[[本姓]]は[[藤原]]を称し、墓碑の刻字には藤原良明とある。贈正五位。作家[[有吉佐和子]]の[[曾祖父]]にあたる。 天保13年(1842年)、長州藩士有吉忠助の次男(近習有吉傳十郎の弟)として生まれる。[[藩校]]の[[明倫館]]に学んだのち、[[安政]]4年([[1857年]])、16歳の時に[[土屋蕭海]]の紹介により[[吉田松陰]]の[[松下村塾]]に入塾する。松陰は、「才」の[[岡部富太郎]](子揖)、「実直」の'''有吉'''(子徳)、「沈毅」の[[寺島忠三郎]](子大)と評して、この3名を一つのグループとして力にしようと考えている。 安政5年([[1858年]])、松陰の[[老中]][[間部詮勝]]暗殺計画に血盟をしたことから、外叔の[[白根多助]]により家に幽閉される。松陰が野山獄に再投獄された際は、その罪状を問うために[[周布政之助]]ら重役宅に押しかけた塾生8名の中の一人である。 [[文久]]元年([[1861年]])、[[高杉晋作]]に随い御番手として[[江戸]]へ遊学、桜田の藩邸内にある有備館に入る。 文久2年([[1862年]])、高杉ら同志と武州金澤([[金沢八景]])で外国公使を刺殺しようとしたが、計画が事前に藩主世子の[[毛利定広]]に伝わったため実行に到らず、謹慎を命ぜられる。謹慎中の同志は[[御楯組]]結成の血盟書を作る。この時に血判署名した同志は'''有吉'''を含む、高杉、[[久坂玄瑞]]、[[大和弥八郎]]、[[長嶺内蔵太]]、[[志道聞多]](井上馨)、[[松島剛蔵]]、寺島、[[赤禰幹之丞]](赤根武人)、[[山尾庸三]]、[[品川弥二郎]]の11名である。 同年、品川御殿山の[[英国公使館焼き討ち事件|英国公使館焼き討ち]]に参加する。 文久3年([[1863年]])、藩命により航海術を学び、その後京都学習院への出仕を命じられ、京洛での尊攘運動に邁進する。同年、[[八月十八日の政変]]により帰国後、久坂、[[堀真五郎]]らと山口にて[[八幡隊]]を結成する。 元治元年(1864年)の[[池田屋事件]]では、[[吉田稔麿]]ら同志と会合中に[[新選組]]に襲撃されるが、乱闘から長州藩邸に逃げ込み、事件の生き証人としてその悲報を国許に伝える。その際、事件により厳重警戒中の京都を[[飛脚]]に変装して出立している。同年、急進派の藩士らと上京、[[禁門の変]](蛤御門の変)において重傷を負い、久坂、寺島らとともに鷹司邸内で自刃する。[[享年]]23。 墓所は[[京都市]]の[[京都霊山護国神社|霊山護国神社]]、[[山口市]]の[[朝日山招魂社]](八幡隊招魂場)。 == 関連項目 == *[[幕末の人物一覧]] [[Category:松下村塾の人物]] [[Category:日本の神 (人物神 松門神社)]] [[Category:1842年生]] [[Category:1864年没]] {{DEFAULTSORT:ありよしくましろう}}
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