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最澄
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{{Infobox Buddhist |名前=最澄 |生没年=[[神護景雲]]元年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]<ref name="syussei">なお、最澄自身の撰とされる『内証仏法相承血脈譜』では、13歳で弟子入りし、宝亀11年11月10日作成の「近江国府牒」に“三津首広野年拾五”との記述があり、天平神護2年出生説を採る学者もいる。</ref> - [[弘仁]]13年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]([[旧暦]])<br/><small>([[767年]][[9月15日]] - [[822年]][[6月26日]]〈[[ユリウス暦|新暦]]〉)</small> |法名=最澄 |法号=福聚金剛 |諡号=伝教[[大師 (僧)|大師]](傳敎大師) |尊称= |生地=近江国滋賀郡古市郷(現:[[滋賀県]][[大津市]]) |没地=中道院(比叡山) |画像=[[ファイル:最澄像 一乗寺蔵 平安時代.jpg|250px]] |説明文=最澄像([[国宝]])、[[平安時代]]([[11世紀]])、[[一乗寺]]蔵 |宗派=天台宗 |寺院=[[根本中堂|一乗止観院(現:根本中堂)]] |師=[[道邃]]・[[行満]]・[[翛然]]・[[順暁]] |弟子=[[義真]]、[[円仁]]ほか |著作= |廟= }} [[ファイル:Dengyo-saicho.JPG|thumb|right|150px|最澄像([[能福寺]])]] [[ファイル:Koku Saitcho shounin.jpg|thumb|right|150px|[[哭]][[最澄上人]]([[嵯峨天皇]][[宸翰]])]] '''最澄'''(さいちょう)は、[[平安時代]]の僧。[[日本]]の[[天台宗]]の開祖である。[[近江国]]([[滋賀県]])滋賀郡古市郷(現在の[[大津市]])に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては[[天平神護]]2年([[766年]])説も存在する。 先祖は[[後漢]]の[[献帝 (漢)|孝献帝]]に連なる(真偽は不明)といわれる[[登萬貴王]](とまきおう)なる人物で、[[応神天皇]]の時代に日本に渡来したといわれている。 == 生涯 == なお、年齢は神護景雲元年出生説に基づく。<ref name="syussei"/> * [[778年]]([[宝亀]]9年)、12歳のとき近江[[国分寺]]に入り、[[出家]]して[[行表]]の弟子となる。 * [[780年]]、14歳のとき国分寺僧補欠として11月12日に[[得度]]し名を'''最澄'''と改めた。 * [[783年]]([[延暦]]2年)、17歳のとき1月20日に正式な僧侶の証明である[[度牒|度縁]]の交付を受ける。<ref name="doen">当時は[[道鏡]]時代の僧侶の政治介入に対する反省から、僧侶の人数を抑制するために度縁の交付の制限を行っていた。</ref> * [[785年]]、19歳のとき[[東大寺]]で[[具足戒]]を受ける。同年7月、[[比叡山]]に登り山林修行に入り、[[大蔵経]]を読破。 * [[788年]]、[[薬師如来]]を本尊とする草庵、一乗止観院を建立する。 * [[797年]]、[[桓武天皇]]の[[内供奉十禅師]]。 * [[801年]]、比叡山一乗止観院にて'''法華十講'''奉修。[[南都六宗]]の高僧10名に講師を依頼する('''請十大徳書''')。 * [[802年]]、高雄山寺(神護寺)'''法華会'''(ほっけえ)講師。桓武天皇より'''入唐求法'''(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれる。 * [[804年]]7月、通訳に門弟の[[義真]]を連れ、[[空海]]とおなじく九州を出発。9月明州に到着。天台山に登り、[[湛然]]の弟子の[[道邃]]と[[行満]](ぎょうまん)について天台教学を学ぶ。さらに道邃に大乗[[菩薩戒]]を受け、[[翛然]](しゅくねん)から禅、[[順暁]]から密教を相承する。 * [[805年]]5月、帰路の途中[[和田岬]]([[神戸市]])に上陸し、最初の密教教化霊場である[[能福寺|能福護国密寺]]を開創する。7月に上洛、滞在中に書写した経典類は230部460巻。帰国当時、[[桓武天皇]]は病床にあり、宮中で天皇の病気平癒を祈る。 * [[805年]]9月、桓武天皇の要請で高雄山[[神護寺]]にて日本最初の公式な灌頂が最澄により行われる。 * [[806年]]([[大同 (日本)|大同]]元年)1月、最澄の上表により、天台業2人([[止観]]業1人、遮那(しゃな)業1人)が[[年分度者]]となる。これは[[南都六宗]]に準じる。これが日本の天台宗の開宗である。 * このころ、空海から、[[真言]]、[[悉曇]]([[梵字]])、[[華厳]]の典籍を借り、研究する。 * [[812年]]([[弘仁]]3年)の冬、弟子の[[泰範]]、[[円澄]]、[[光定 (僧)|光定]]らと高雄山寺におもむき、空海から[[灌頂]]を受ける。 * [[813年]]1月、泰範、円澄、光定を高雄山寺の空海のもとに派遣して、空海から[[密教]]を学ばせることを申し入れ、3月まで弟子たちは高雄山寺に留まった。しかし、このうち泰範は空海に師事したままで、最澄の再三再四にわたる帰山勧告にも応ぜず、ついに比叡山に帰ることはなかった<ref name="miyasaka">[[宮坂宥勝]]「風信帖と久隔帖」(「空海の風信帖」『墨』P.16 - 20)</ref>。 * 813年11月、最澄が「[[理趣釈経]]」の借用を申し出たが、空海は「文章修行ではなく実践修行によって得られる」との見解を示して拒絶、以後交流は相容れなかった。 * [[815年]]、[[和気氏]]の要請で大安寺で講説、南都の学僧と論争。その後東国へ旅立つ。関東で[[鑑真]]ゆかりの上野の緑野(みとの)寺(現在の群馬県浄法寺に位置する)や下野の小野寺を拠点に伝道を展開する。 * [[法相宗]]の学僧会津[[徳一]]との間に、'''[[三一権実諍論|三一権実の論争]]'''。徳一が『'''仏性抄'''』(ぶっしょうしょう)を著して最澄を論難し、最澄は『'''照権実鏡'''』(しょうごんじっきょう)で反駁。論争は、[[比叡山]]へ帰った後も続き、『'''法華去惑'''』(こわく)『'''[[守護国界章]]'''』『'''決権実論'''』『'''法華秀句'''』などを著したが、決着が付く前に最澄も徳一も死んでしまったので、最澄の弟子たちが徳一の主張はことごとく論破したと宣言して論争を打ち切った。 <!--徳一の側には後継者がいなかったため、この論争は決着が付いていないままである。★反論する者がいなくなったということは論争に決着がついたということになるのでは?徳一の主張に他人を納得させるものがあったなら、後継者が出現したはずです。★この論争の記録は最澄の著書に徳一の文章の引用があるのみで、徳一の書いたものは残っていない。天台宗は隋の第二代皇帝煬帝(604-618)の命により[[智顗]]が開き、法相宗は[[玄奘]]の弟子の[[窺基]](632‐682)の開いた、それぞれの時代から分かるように法相宗の方が遥かに新しい宗派である。ところが最澄は南都仏教に天台宗はなかったため、最澄が勘違いしたものと思われる。★中国における天台宗と法相宗の成立時期が、日本の最澄と徳一の主張の正当性にどう関係するというのでしょう?論理性の無い、意味不明の文章です。--> * [[818年]]、みずから具足戒を破棄。『'''山家学生式'''』(さんげがくしょうしき)を定め、天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間山中で修行することを義務づける。 * 南都の僧綱から反駁にこたえて『'''顕戒論'''』を執筆。『'''内証仏法血脈譜'''』を書いて正統性を説く。 * [[822年]][[6月26日]]([[弘仁]]13年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]])、比叡山の中道院で没、享年56(満54歳没)。没後7日目、大乗戒壇設立は、弟子・光定と、[[藤原冬嗣]]、[[良岑安世]]の斡旋により勅許。 * [[866年]]([[貞観 (日本)|貞観]]8年)、[[清和天皇]]より'''伝教大師'''(でんぎょうだいし)の[[諡|諡号]]が贈られた。日本で初めての[[大師_(僧)|大師号]]である。以後「伝教大師最澄」と称される。 == 書 == [[書道|書]]における師承は明らかでないが、延暦23年(804年)に入唐し、帰朝に当って[[王羲之]]の[[王羲之#十七帖|十七帖]]、[[王献之]]、[[欧陽詢]]、[[チョ遂良|褚遂良]]などの筆跡や[[法帖]]類を持ち帰った。その書風は空海の変幻自在なるに比べて、清澄で品格が高い。真跡として現存するものには次のようなものがある。 === 久隔帖 === 『久隔帖』(きゅうかくじょう)は、弘仁4年(813年)11月25日付で書いた[[尺牘]]で、「久隔清音」の句で始まるのでこの名がある。宛名は「高雄範闍梨」とあり、これは[[神護寺|高雄山寺]]に派遣した最澄の弟子の[[泰範]]であるが、実質は空海宛である<ref name="miyasaka"/>。心が筆端まで行き届き、墨気清澄・品格高邁で、さながら王羲之の『[[集字聖教序]]』を肉筆化したような響きを放つ<ref>寺山旦中「弘法の展開と最も澄んだ書」(「空海の風信帖」『墨』P.54)</ref>。大きさは、29.2cm×55.2cm。[[奈良国立博物館]]蔵。[[国宝]]<ref name="miyasaka"/>。 [[ファイル:Shakuhai.jpg|thumb|right|200px|『久隔帖』(部分) 最澄筆]] [[ファイル:jyodoinn5799.jpg|thumb|200px|浄土院、伝教大師の廟所、滋賀県大津市比叡山延暦寺]] {{quotation| 久隔清音馳恋無極傅承<br/> 安和且慰下情<br/> 大[[阿闍梨]]所示五八詩序中有<br/> 一百廿禮仏并方圓圖并註義<br/> 等名今奉和詩未知其礼<br/> 仏圖者伏乞令聞阿闍梨<br/> 其所撰圖義並其大意等<br/> 告施其和詩者怱難作<br/> 著筆之文難改後代惟示其<br/> 委曲必造和詩奉上座下<br/> 謹附貞聡仏子奉状和南<br/> 弘仁四年十一月廿五日小法弟最澄状上<br/> 高雄範闍梨法前<br/> (以下省略)<br/> |『久隔帖』<ref name="miyasaka"/>}} 文面は、「大阿闍梨(空海)の示された五八の詩(『中寿感興詩』)の序に、『一百二十礼仏』・『方円図』・『註義』という書名がある。その詩の韻に和して返礼の詩を作って差し上げたいが、私は『礼仏図』なるものをまだ知らない。どうかこの旨を阿闍梨(空海)に伝えられ、『方円図』・『註義』とその大意とをお知らせいただきたい。(以下省略)」という趣旨の内容である<ref name="miyasaka"/>。 === 請来目録(越州録) === 『請来目録(越州録)』(しょうらいもくろく(えっしゅうろく))は、在唐中、最澄が越州(浙江)で蒐集または抄写した経疏、天台関係の文書、法具などの目録で、延暦24年(805年)に書かれたものである。[[楷書体|楷書]]であるが久隔帖と同じく王羲之風の流麗な筆致である。[[延暦寺]]蔵。国宝。 === 羯磨金剛目録 === 『羯磨金剛目録』(かつまこんごうもくろく)は、最澄が唐からの請来品を弘仁2年(811年)比叡山に奉納した目録の断片で、その初行の文字によってこの名がある。全紙に比叡山の印が捺されている。延暦寺蔵。[[国宝]]。 == 傳敎大師童形像 == 傳敎大師童形像は、生源寺([[滋賀県]][[大津市]])、[[延暦寺]]([[滋賀県]][[大津市]])、[[雙林寺]]([[京都府]][[京都市]])、[[三千院]]([[京都府]][[京都市]])、[[松尾寺]]([[大阪府]][[和泉市]])、[[能福寺]]([[兵庫県]][[神戸市]])、[[普光寺]]([[兵庫県]][[加西市]])、長法寺([[岡山県]][[津山市]])、天王院([[神奈川県]][[横浜市]])、[[立石寺]]([[山形県]][[山形市]])など[[天台宗]]の寺院に設置されている。 その髪型は[[唐]]代女子の垂練髻<ref>百度百科‐唐代髪型‐垂練髻 [http://baike.baidu.com/view/4770761.htm]</ref>を結い、装束は[[唐]]の宮中に仕える女子の[[漢服]]<ref>[[大紀元]]‐悠遊漢服之美‐5唐朝‐圖4兩鬢滿是金翠花鈿及插上金步搖的唐貴婦 [http://www.epochtimes.com/b5/9/8/14/n2624222p.htm]</ref>を着ている。 == 補注 == {{Reflist}} == 伝記研究・小説 == *塩入良道編 『最澄 日本名僧論集〈2〉』(吉川弘文館、1982年) *[[平川彰]] 『最澄 天に応える 高僧伝〈3〉』([[集英社]]、1985年) *田村晃祐 『最澄 [[人物叢書]]』 ([[吉川弘文館]]、新装版1988年) *[[佐伯有清]] 『伝教大師伝の研究』 (吉川弘文館〈日本史学研究叢書〉、1992年) *佐伯有清 『最澄とその門流』 (吉川弘文館、1993年) *佐伯有清 『若き日の最澄とその時代』(吉川弘文館、1994年) *佐伯有清 『最澄と空海 交友の軌跡』(吉川弘文館、1998年) *[[大久保良峻]]編 『山家の大師 最澄 日本の名僧〈3〉』(吉川弘文館 2004年) *『[[上山春平]]著作集第8巻 空海と最澄』([[法蔵館]]、1995年) *[[立川武蔵]] 『最澄と空海 [[日本仏教]]思想の誕生』([[講談社]]選書メチエ、1998年) *高木訷(シン)元編著 『空海と最澄の手紙』([[法蔵館]] 1999年) *[[永井路子]] 『雲と風と 伝教大師最澄の生涯』 ([[中公文庫]]、1990年)-小説 *[[栗田勇]] 『最澄』 (全3巻:[[新潮社]]、1998年)-小説 == 参考文献 == * [[仁忠]]('''最澄の高弟''')『叡山大師伝』 : (伝教大師全集.第5巻所収、世界聖典刊行協会、復刻版1975年) * [[森田悌]] 『日本古代の政治と宗教』(雄山閣出版、1997年) * [[木村卜堂]] 『[[日本と中国の書史]]』([[日本書作家協会]]、1971年) * 「空海の風信帖」(『[[墨 (書道雑誌)|墨]]』 芸術新聞社、1993年9月) == 関連項目 == *[[日本の書道史]] *[[風信帖]] *[[円仁]] *[[来迎院]] 円仁の開創。伝教大師度縁案並僧綱牒。 *[[円珍]] *[[円載]] *[[安然]] *[[空海]] [[比叡山]] [[延暦寺]] == 関連項目 == *[http://www.tendai.or.jp/rekishi/sou-hito.php 宗祖伝教大師最澄] 天台宗公式ホームページ {{密教2}} {{DEFAULTSORT:さいちよう}} [[Category:天台宗|*]] [[Category:天台宗の僧|*]] [[Category:平安時代の僧]] [[Category:日本の能書家]] [[Category:近江国の人物]] [[Category:遣唐使]] [[Category:767年生]] [[Category:822年没]] [[Category:仏教宗派の開祖]]
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