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旧皇族
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'''旧皇族'''(きゅうこうぞく)とは、[[1947年]]([[昭和]]22年)に[[臣籍降下|皇籍離脱]]した11[[宮家]]51名の元[[皇族]]とその子孫を指す俗称である。'''旧宮家'''ともいう。 いずれにしても俗称であるから、正式・正確な定義というものは存在しない。各人が各人の立場や好みにより自由な解釈を行っている。 [[竹田恒泰]]によれば、[[宮内庁]]は1947年に皇籍離脱した11宮家51人の王、王妃、女王を「元皇族」、その中で当時[[宮家]]の当主だった王を「旧皇族」と定義しているという<ref>[http://blogs.yahoo.co.jp/takebom1024/24313451.html ブログ開設しました! 産経新聞朝刊に注目!] 竹田恒泰blog 2006年2月1日</ref>。また[[高森明勅]]や[[小林よしのり]]らは自身の著書や講演での発言において、旧皇族とは実際に1947年に皇籍離脱した人物であるとし、離脱後に誕生した男系子孫については一度も皇族であった時期がないという点から「旧宮家系国民男子」と呼んでいる。 ==概説== 旧皇族の11家は、すべて[[室町時代]]以来続く[[世襲親王家]]の筆頭であった[[伏見宮|伏見宮家]]の男系子孫にあたる。'''現皇室と旧皇族の男系での共通の先祖は[[伏見宮貞成親王]](後崇光院)'''である。旧皇族の各家は、いずれも[[明治維新]]前後の時期に、伏見宮家の第19代[[伏見宮貞敬親王|貞敬親王]]及び第20代・第23代[[伏見宮邦家親王|邦家親王]]の王子が還俗して、[[宮家]]を創設もしくは継嗣のいない宮家を相続したことに起源を有する。ただし、この時期に新立した宮家に関しては1代限りとして2代目からは[[臣籍降下]]させて[[華族]]に列することとし、[[世襲]]は想定されていなかった。 伏見宮家をはじめ、[[桂宮]]・[[有栖川宮]]・[[閑院宮]]の各世襲親王家に共通することであるが、これら4家が代々、[[親王]]の[[身位]]を世襲してきたのは、時の天皇との血縁の近さによるものではなく、あくまでも家の特権としてである。歴代の当主及び継嗣は、そのときどきの[[天皇]]または[[太上天皇|上皇]]の[[猶子]]となることにより擬制的な親子関係を構築し、そのことを根拠にして[[親王宣下]]により親王の地位と称号を与えられてきたのである。また、[[門跡|門跡寺院]]に入寺する[[法親王]]・[[入道親王]]は天皇または上皇の養子として親王宣下を受けることになっており、明治維新前後に新設された宮家は、当時の[[廃仏毀釈]]の風潮に乗って続々と[[還俗]]した元門跡たちに、その身分にふさわしい礼遇を与えるためのものであった。 旧皇族は、伏見宮貞常親王の兄彦仁王が、男子を儲けないまま[[崩御]]した[[称光天皇]]の後を受けて[[後花園天皇]]となって以後、現在の[[皇室]](後花園天皇の男系子孫)とは男系血統では完全に分岐しているため、上述の通り男系での血縁は非常に遠い。 また[[明治天皇]]の皇女である4人の内親王が、竹田宮、北白川宮、朝香宮、東久邇宮の各家に、昭和天皇の皇女・成子内親王が東久邇宮家にそれぞれ嫁いでいるため、現皇室とも姻戚関係が深い。なお、昭和天皇の皇后である[[香淳皇后]]は[[久邇宮|久邇宮家]]の王女である。 ===旧皇族11家の構成=== *[[伏見宮|伏見家]](世襲親王家の一つ。現当主は[[伏見宮博明王|伏見博明]]。) *[[閑院宮|閑院家]](世襲親王家の一つ。皇籍離脱時の当主、[[閑院宮春仁王|春仁王]]の死去により[[1988年]](昭和63年)断絶。ただし[[光格天皇|師仁親王]]の子孫は現天皇家。) *[[久邇宮|久邇家]](現当主は[[久邇邦昭]]。[[香淳皇后]]の実家) *[[山階宮|山階家]](皇籍離脱時の当主:[[山階宮武彦王|武彦王]]の死去により[[1987年]](昭和62年)断絶) *[[北白川宮|北白川家]](現当主は[[北白川道久]]。) *[[梨本宮|梨本家]](皇籍離脱時の当主:[[梨本宮守正王|守正王]]の死後、未亡人の[[梨本伊都子|伊都子]]が甥の[[梨本徳彦|徳彦]]を養子とした。実子系統では断絶) *[[賀陽宮|賀陽家]](皇籍離脱時の当主:[[賀陽宮恒憲王|恒憲王]]の死後、長男:[[邦寿王|邦寿]]が[[1986年]](昭和61年)に死去し断絶。ただし三男:[[章憲王|章憲]]には男子の子孫<ref>[[皇太子徳仁親王]]の学友である[[賀陽正憲]]</ref>がある) *[[東伏見宮|東伏見家]](皇籍離脱時に[[東伏見宮妃周子|周子]]のみ。彼女の死去により[[1955年]](昭和30年)断絶。なお、[[久邇宮邦彦王]]の第三王子、[[東伏見慈洽]]が同家の祭祀を継承している) *[[朝香宮|朝香家]](現当主は[[朝香誠彦]]) *[[竹田宮|竹田家]](現当主は[[竹田恒正]]) *[[東久邇宮|東久邇家]](現当主は[[東久邇信彦]]) :(宮家創設順。なお、下記略系図も参照) === 現在の皇室との近親関係 === ;[[香淳皇后]]の実家([[明仁|今上天皇]]の伯父筋にあたる家系) *久邇家 久邇家は香淳皇后を通して現在の天皇家、常陸宮家と姻戚関係にあるが、これは香淳皇后が入内したことによるもので久邇家には[[明治天皇]]以降の男系の血統は入っていない。[[久邇宮朝融王]]は今上天皇の伯父にあたる。 ;明治天皇の女婿たる家([[明仁|今上天皇]]の義理の大叔父筋にあたる家系) *北白川家 *竹田家 *朝香家 *東久邇家 ;昭和天皇の女婿たる家([[明仁|今上天皇]]の義兄筋にあたる家系) *東久邇家 [[東久邇宮稔彦王]]は明治天皇の第九皇女の[[泰宮聡子内親王]]と結婚しており、今上天皇の義理の大叔父に当たると同時に久邇宮家出身の香淳皇后を通して実の大叔父にもあたる。また稔彦王の第一王子の[[盛厚王]]は昭和天皇の第一皇女の[[照宮成子内親王]]と結婚しており、盛厚王は今上天皇の大叔父の子であると同時に義兄でもある。 ==皇籍離脱の経緯== 終戦後の[[1947年]](昭和22年)10月14日、11宮家51名は、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の指令により[[皇室財産]]が[[国庫]]に帰属させられたため、経済的に従来の規模の[[皇室]]を維持できなくなったことから[[臣籍降下|皇籍離脱]]した。『昭和財政史』によれば、終戦前後の皇室の財政規模は約2,500万円と推定されている。うち450万円が政府の[[一般会計]]から支出されていた。この450万円という額は明治43年度から昭和22年度まで完全に固定され、その後の財政規模の拡大にともなう差額は[[山林所得|山林]]・[[有価証券]]・[[農地]]などの皇室独自の財源からまかなわれていた。終戦後には皇室が自らこの差額を調達することは不可能となり、長年固定されていた[[皇室経済法|皇室費]]を一挙に数倍に増額することは、敗戦直後の極度に逼迫した[[財政]]のもとではとうてい合理的な説明がつかなかったのである。 皇籍離脱という着想自体は、GHQにより新たに持ち込まれたものではない。[[東久邇宮稔彦王]]は、[[1945年]](昭和20年)に[[内閣総理大臣]]を辞任した直後にも、自らの臣籍降下を[[昭和天皇]]に願い出ており、さらにそのことを[[報道機関|マスコミ]]にも語り、他の皇族も自分にならうことを求めたために、[[宮内省]]があわてて否定の声明を出す一幕もあった。また、[[賀陽宮恒憲王]]も天皇に同様の申し入れをしている。 当然、この動きに対し昭和天皇や一部の皇族から激しい抵抗があり、香淳皇后の実家である[[久邇宮|久邇宮家]]や昭和天皇の第一皇女[[東久邇成子|成子内親王]]の嫁ぎ先である[[東久邇宮|東久邇宮家]]などの一部の宮家に関しては皇室に残す案も出た。しかし最終的には、昭和天皇の実弟である[[秩父宮|秩父]]・[[高松宮|高松]]・[[三笠宮|三笠]]の3宮家のみを残し、伏見宮系の11宮家は全て皇籍離脱させることになった。11宮家51名の皇籍離脱は、形式上は現行の[[皇室典範]]の第11条第1項「その意思に基き、皇室会議の議により」、第11条第2項「やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により」もしくは第14条「その意思により」または第13条「皇族の身分を離れる親王又は王の妃並びに直系卑属及びその妃は、他の皇族と婚姻した女子及びその直系卑属を除き、同時に皇族の身分を離れる」によってそれぞれ行なわれた。 == 永世皇族主義と旧皇族 == [[1889年]](明治22年)2月11日制定の[[旧皇室典範|皇室典範]]は元来[[永世皇族制]]を原則としていたが、[[1907年]](明治40年)の皇室典範増補で早くも例外が設けられた。たとえば、同増補第1条には、 「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムコトアルヘシ」 とあるように、[[臣籍降下]]ができるとされたのである。 しかし、その後、王の臣籍降下は[[北白川宮輝久王]](侯爵小松輝久)の1例のみにとどまった。そこで、[[1920年]](大正9年)5月19日に制定された内規「[[旧皇室典範#皇族の範囲規定|皇族ノ降下ニ関スル施行準則]]」により、この趣旨はさらに徹底された。準則第1条には、 「皇玄孫ノ子孫タル王明治40年2月11日勅定の皇室典範増補第1条及ヒ皇族身位令第25条ノ規定ニヨリ情願ヲ為ササルトキハ長子孫ノ系統4世以内ヲ除クノ外勅旨ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列ス」 とあり、情願をしない王は、[[皇族会議]]及び[[枢密院 (日本)|枢密顧問]]の諮問を経て勅旨によって臣籍降下させて[[華族]]に列することが明記された(皇族身位令第25条は、情願をすることができるのは満15歳以上の王に限る旨の規定である)。 具体的には、皇玄孫までを皇族としその子孫は臣籍降下させること、ただし宮家を継承する長男のみは例外とするが、これも皇玄孫のさらに4世(玄孫)までを皇族とし、それ以降の世代は臣籍降下させることとされた。伏見宮系の皇族はもちろんこの範囲には収まらないが、邦家親王を皇玄孫に擬制し、邦家親王の4世(玄孫)までを皇族の身分にとどめるものとされていた。 旧皇族との関連で言えば、準則は、伏見宮系の皇族を皇位継承資格として確保することよりも、むしろ邦家親王の子孫からこれ以上皇族が増加することを抑制し、将来的には全員の臣籍降下に導くことを意図していた。そのことは、皇族の範囲を狭く限定する趣旨(これは[[大正天皇]]の直系子孫の王・女王であっても同様に適用されるとした)が準則の第1条にまず謳われ、邦家親王の子孫に関する規定は特例として「附則」に言及されているに過ぎないことからも明白である。準則は、同増補では明確でなかった皇玄孫以降の子孫たちが順次臣籍降下してゆく基準を具体的・機械的に定めるものであった。 なお、降下の情願をなさなかった場合において、準則に基づいて勅旨によって降下する可能性があった者は以下のとおりである。(※を付した人名は[[2006年]]12月現在の生存者) 伏見宮邦家親王━┳━山階宮晃親王━━━━━菊麿王━━━━━━武彦王(断絶) ┃ ┣━久邇宮朝彦親王━━┳━賀陽宮邦憲王━━━恒憲王━━━邦寿王(断絶) ┃ ┃ ┃ ┣━邦彦王━━━━━━朝融王━━━邦昭王※ ┃ ┃ ┃ ┣━梨本宮守正王(断絶) ┃ ┃ ┃ ┣━朝香宮鳩彦王━━━孚彦王━━━誠彦王※ ┃ ┃ ┃ ┗━東久邇宮稔彦王━━盛厚王━━━信彦王※ ┃ ┣━北白川宮能久親王━┳━竹田宮恒久王━━━恒徳王━━━恒正王※ ┃ ┃ ┃ ┗━成久王━━━━━━永久王━━━道久王※ ┃ ┣━貞愛親王━━━━━━━博恭王━━━━━━博義王━━━博明王※ ┃ ┣━閑院宮載仁親王━━━━春仁王(断絶) ┃ ┗━東伏見宮依仁親王(断絶) むろん、皇族を勅旨によって強制的に臣籍降下させることを原則とするこのような規定には異論もあり、裁定にあたって準則の諮詢を受けた[[枢密院 (日本)|枢密院]]での審議でも、一律・機械的に適用するのではなく個別の事情に応じて判断する旨の説明がなされている。枢密院はこれを受けて満場一致で準則を可決した。ついで諮詢を受けた[[皇族会議]]でも一部の皇族たちの反発が予想されたため、宮内省側は、皇族会議の議員は「自己の利害に関する議事」では採決に参加できないという皇族会議令第9条の規定を利用して採決を行わずに議長であった[[伏見宮貞愛親王]]の判断のみで皇族会議を通過させている。 皇族の身分に関する事柄は天皇の大権事項であるから、この準則が存在したとしても、天皇の意思があれば例外を作ることは可能であったと考えられる。しかし、皇室典範増補制定以来の政府の皇族増加抑制策は、[[明治維新]]前後の時期に創設された宮家が、いわゆる[[世襲親王家]]とは異なり、本来は[[世襲]]を予定しなかったにもかかわらず、当初の意図に反してなしくずしに永世皇族に移行してゆき、結局、皇室典範での永世皇族制の成立に結びついた経緯への反省を踏まえたものでもあり、天皇の大権を発動して例外を作るケースが実際に発生したとは考えにくい。 その後、準則が制定されてから[[1946年]](昭和21年)に廃止されるまでの26年間に12人の皇族の臣籍降下があった。いずれも皇室典範増補第1条に基づく情願による降下であり、準則の適用を受けて自らの意志に反して降下させられたケースはひとつもない。しかし、情願をしなければ強制的に降下させられる以上、そのような不名誉を避けるためには、準則の条件に該当する皇族は望むと望まざるとにかかわらず降下の情願をせざるを得ない状況に置かれていたのである。準則の強制力は非常に強いものがあった。準則の規定に反して例外がつくられたケースはひとつもない。 ==皇籍離脱後の旧皇族== 彼らは、皇籍離脱後は、それぞれ宮号から「宮」の字を除いたものを[[名字]]として名乗り、民間人としての生活を始めた。[[財産税]]の賦課を受けてほとんどの者が[[資産]]の多くを失い、長く経済的な困窮に苦しんだ者がいる一方、資産の一部を確保して一定の生活レベルを維持できた者、事業を興して成功した者、皇室・旧華族・[[神道]]などに関係する職に就いたりして、社会の名士として活動を続けた者もおり、その後の運命はさまざまである。なかには、[[新聞]]の三面記事を賑わす[[不祥事|スキャンダル]]を起こした者もいる。旧皇族は世間の注目を避けて静かに生活してきた者がほとんどだったが、最近では[[賀陽正憲]]、[[竹田恒治]]など[[外交官]]に就いた者、[[竹田恒泰]]のように積極的に著作や講演などで活躍し、マスメディアに登場している者もいる。なお、[[プリンスホテル]]の社名は、ホテルの建物が旧皇族の手放した土地に立地していることに由来している。 皇籍を離脱した後も皇室の親戚という立場には変わりがなく(皇族ではないが民法上は天皇の親族である者もいる)、皇室の親族が所属する親睦団体の[[菊栄親睦会]]に所属して現在でも皇室と親しく交流を続けている。[[久邇宮朝融王|久邇朝融]](香淳皇后の兄)や[[東久邇成子]]など、一部の旧皇族は特例として[[豊島岡墓地]]に葬られている。 ==旧皇族の著名人== *[[東久邇宮稔彦王]](第43代[[内閣総理大臣]]。また、皇籍離脱後たびたび新聞の三面記事を賑わせた。) *[[東久邇信彦]]([[全日本野球会議]]名誉会長、崇敬会「東郷会」名誉会長) *[[多羅間俊彦]]([[ブラジル]]に移民し、コーヒー園を経営している。) *[[久邇邦昭]]([[神社本庁]]統理、元[[伊勢神宮]][[宮司|大宮司]]) *[[北白川道久]](元伊勢神宮大宮司。妹[[肇子女王|肇子]]は今上天皇のお妃候補として有力視されていた。) *[[竹田宮恒徳王|竹田恒徳]]([[日本オリンピック委員会]]会長、[[日本馬術連盟]]会長) *[[竹田恒治]](在[[ブルガリア]]日本国[[特命全権大使]]) :※下記の3人は皇籍離脱後の誕生であるため、厳密に区分すると「旧皇族の男系子孫」である。 *[[竹田恒和]](日本オリンピック委員会会長) *[[竹田恒泰]]([[評論家]]、元[[慶應義塾大学]]講師) *[[賀陽正憲]](在[[デンマーク]]大使館一等書記官) ==旧皇族邸および跡地の利用== *朝香宮邸:[[白金台]]に現存し、現在は[[東京都庭園美術館]]として一般に公開されている。 *賀陽宮邸:現存せず。三番町の跡地には[[千鳥ケ淵戦没者墓苑]]がある。 *閑院宮邸:現存せず。永田町の跡地には[[衆議院議長]]公邸・[[参議院議長]]公邸がある。 *北白川宮邸:現存せず。高輪の跡地には[[グランドプリンスホテル新高輪]]がある。 *久邇宮邸:邸宅の一部(御常御殿)が渋谷の[[聖心女子大学]]構内に久邇ハウスとして残る。 *竹田宮邸:品川の[[グランドプリンスホテル]]の貴賓館として現存する。 *梨本宮邸:現存せず。渋谷の跡地には[[東京都児童会館]]がある。 *東久邇宮邸:終戦の日に放火され焼失。高輪の跡地には[[ホテルパシフィック東京]]がある。 *東伏見宮邸:渋谷に現存。現在の[[常陸宮]]邸。 *伏見宮邸:現存せず。紀尾井町の跡地には[[ホテルニューオータニ]]がある。 *山階宮邸:現存せず。富士見町の跡地には[[議員宿舎|衆議院議員九段宿舎]]がある。 ==旧皇族の皇籍復帰問題== [[1965年]](昭和40年)の[[秋篠宮文仁親王]]の誕生以来、[[2006年]](平成18年)の[[悠仁親王]]の誕生までの41年間、男子の誕生がなかった。一方、現行の[[皇室典範]]の規定では、男系の男子しか皇位を継承することができないため、近い将来に皇位継承資格者が存在しなくなる[[皇位継承問題 (平成)|皇位継承問題]]が予想されている。この問題へのひとつの対処として、旧皇族から男系男子を補充して皇族の数を維持しようというアイディアが提示されている。現行の皇室典範・旧皇室典範ともにいったん皇族の身分を離れた者がふたたび皇族になることを禁止しており、このアイディアの実現には法改正が必要である。具体的な方法については旧皇族男性を現在の皇族の養子とする、旧皇族男性を未婚の女性皇族と結婚させるなどのアイディアが提示されている。首相の[[懇談会|私的諮問機関]]「[[皇室典範に関する有識者会議]]」は旧皇族男性を養子にする案については「当事者の意思により継承順位が左右され、一義性に欠ける」として否定的見解が出された。 近代以前の朝廷では、いったん皇族でなくなった者がふたたび皇族となった例がいくつかある。 *[[宇多天皇]]は父である[[光孝天皇]]の意向でいったん臣籍に降り「源定省」と称したが、父が危篤となり皇位継承者の不在を回避するためふたたび皇族となり皇太子とされ、父の死後即位している。 *[[醍醐天皇]]は父である[[宇多天皇]]が源氏を称していた時期の出生である。はじめ「源維城」と名乗り、父の即位とともに皇族の身分を獲得して「敦仁」と改名、その後皇太子となり、父の譲位を受けて即位した。 :なお、光孝天皇は先代の[[陽成天皇]]が突然の不祥事により廃位されたことにともなって即位した暫定の天皇であった。陽成の弟であり[[関白]][[藤原基経]]の外孫である[[貞保親王]]は有力な皇位継承者としてなお健在であり、光孝は貞保に遠慮して子女26人の全員を臣籍降下させた。宇多・醍醐父子が臣下として暮らした3年間はそのような特殊な事情による。 *[[兼明親王]]([[醍醐天皇]]の皇子)は6歳で源氏となったが、57年後に親王宣下を受けてふたたび皇族となった。ただしこれは兼明から左大臣の官職を剥奪するための陰謀によるもので、あきらかに左遷であった。詩人として知られている兼明がこのときの怒りと悲しみを詠った詩が残っている。 *[[惟康親王]]([[後嵯峨天皇]]の孫)は[[鎌倉幕府]]6代将軍[[宗尊親王]]の子であり、父の跡を継いで7代将軍となった。7歳で臣下に降って「源惟康」と名乗ったが、24歳になって突然親王宣下を受けて皇族に復帰した。理由は不明であるが、いずれにせよ鎌倉幕府の内部事情によるもので皇位継承に関係するものではない。 *[[忠房親王]]は[[承久の乱]]で謀反人となった[[順徳天皇]]の曾孫であり、祖父[[忠成王]]は[[四条天皇]]の急死で皇位継承者が不在となった際に一時新天皇候補に擬せられた。父[[源彦仁|彦仁]]の代から源氏となった。そのような危険な家系の出身である忠房が皇族となった理由は不明である。忠房の子[[源彦良|彦良]]はふたたび源氏となり、その子孫がどうなったかもわからない。 *[[承鎮法親王]](忠房親王の弟) *[[守子内親王]](忠房親王の妹) 旧皇族のなかには皇位を継承しさらに未来の皇位継承者を生み出すことのできる若い男性が数十人おり、このことは上記のいくつかの先例と合わせて[[女系天皇]]反対論・旧宮家皇籍復帰論の強力な精神的支柱となっている。ただし積極的に皇族の身分への復帰を希望する旧皇族はいまだに現れていない。 ==参考文献== *[[浅見雅男]] 『闘う皇族 ある宮家の三代』 [[角川書店]]〈角川選書〉、2005年。ISBN 4047033804 *[[加瀬英明]] 『天皇家の戦い』 [[新潮社]]〈新潮文庫〉、1983年。ISBN 4101309019 *[[広岡裕児]] 『皇族』 [[中央公論新社]]〈中公文庫〉、2002年。ISBN 4122039606 *大蔵省財政史編纂室編 『昭和財政史-終戦から講和まで-』第4巻 [[東洋経済新報社]]、1977年、144-163頁(第3章 新財政制度の発足 第3節 皇室財政の改革)。 *[[新潮社]] 『週刊新潮』2011年12月15日号 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==関連項目== *[[世襲親王家]] *[[親王宣下]] *[[臣籍降下]] *[[皇位継承]] *[[皇室の系図一覧]] *[[皇族]] *[[宮家]] *[[皇別摂家]] *[[皇別]] *[[華族]] *[[旧皇室典範]] *[[皇室典範]] *[[万世一系]] *[[皇位継承問題 (平成)|皇位継承問題]] *[[皇室典範に関する有識者会議]] *[[女性天皇]] *[[女系天皇]] *[[女系天皇問題]] *[[女性宮家]] ==外部リンク== *[http://gaikokiroku.mofa.go.jp/djvu/A0092/index.djvu?djvuopts&page=471 「帝国憲法改正関係研究資料(第1巻)」中「19.皇族の降下に関する施行準則」]「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」の条文、解説、系図等を収録した文書。外務省「外交記録公開文書検索」のサイト内。閲覧にはDjVuブラウザプラグインが必要。 *また、[http://www.jacar.go.jp/ JACAR(アジア歴史資料センター)]では枢密院における審議の記録である「皇族ノ降下ニ関スル内規ノ件」(枢密院会議筆記・大正九年三月十七日―レファレンスコード:A03033626200、枢密院会議文書D(会議筆記):大正・昭和)をはじめとした枢密院の関係文書が閲覧できる。 *[http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/sisei/siseif.html 日本の親王・諸王 臣籍降下表] :特に下記の一覧表を参照のこと。 :*[http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/sisei/sisei187.html 臣籍降下・授爵表 自明治元年至昭和二十年] :*[http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/sisei/sisei194.html 皇族身分離脱表 昭和二十二年(一九四七)] *[http://miyake.yaekumo.com/index.html 旧宮家旧皇族写真館] [[Category:日本の皇族|*きゆうこうそく]]
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