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日蓮正宗
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[[File:大石寺三門と富士.jpeg|thumb|静岡県富士宮市日蓮正宗大石寺の三門から望む富士]] {{buddhism}} '''日蓮正宗'''(にちれんしょうしゅう)は、[[日蓮]]を宗祖、宗祖より法の相承を受けた<ref>二ヶ相承書(平成新編御書P1675)</ref>[[日興]]を開祖とし、日興が開いた[[大石寺]]を総本山とする仏教宗派。本迹勝劣<ref>「本迹勝劣派」という統一組織はない。「本迹勝劣」を重要教義とするいくつかの宗派の総称。{{main|勝劣派}}</ref>、[[日蓮本仏論]]<ref>{{main|本仏#本仏思想の歴史}}</ref>を唱え、大石寺の[[奉安堂]]に安置された本尊を宗祖日蓮の出世の本懐(ほんがい)とする<ref>聖人御難事(平成新編御書P1396)</ref>。日興の流れを汲む[[富士門流]]<ref>「富士門流」という統一組織はない。日興門流を自認するいくつかの宗派の総称。{{main|富士門流#教義}}</ref>に位置づけられることがある。 == 主要寺院 == * 総本山 ** 多宝富士大日蓮華山大石寺(たほうふじだいにちれんげさんたいせきじ、[[静岡県]][[富士宮市]]) * 本山 ** 多宝富士山[[下条妙蓮寺|妙蓮寺]](みょうれんじ、静岡県富士宮市) ** [[本門寺 (三豊市)|高永山讃岐本門寺]](ほんもんじ、[[香川県]][[三豊市]]) ** 日知屋山[[定善寺]](じょうぜんじ、[[宮崎県]][[日向市]]) * 由緒寺院 ** 多宝富士山下之坊(しものぼう、静岡県富士宮市)ほか == 教義 == [[ファイル:Houado.jpg|thumb|400px|right|奉安堂 撮影:2002年10月]] 所依の[[妙法蓮華経]]を構成する二十八品(28章)を前半の「迹門」、後半の「本門」に二分し、本門に法華経の極意があるとするのが[[勝劣派]]である。[[勝劣派]]は、更に、「日蓮を本仏とする派」と「釈尊を本仏とする派」に分かれるが、日蓮正宗は、[[日蓮本仏論]]を教義とする。[[1279年]]([[弘安]]2年)[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]の宗祖日蓮所顕と伝えられる[[本尊 (日蓮正宗)|本門戒壇之大御本尊]](総本山大石寺[[奉安堂]]に安置)を帰命依止の本尊と定め、宗祖の出世の本懐(ほんがい)であり、宗祖所顕の曼荼羅の中でも究境の大曼荼羅として位置づけている。教義の基本は、正しい[[本尊]](本門戒壇之大御本尊)を信じて自行化他に[[題目]]を修行しさえするならば、どんな者でも必ず一生のうちに[[成仏]]できる、ということである。また、仏教各宗派によってさまざまな[[戒律]]が説かれているが、日蓮正宗における戒とは「三大秘法の受持」の意である。よって信徒個人レベルにおける戒律の実践は、「一切の[[謗法]]を捨てること(=日蓮正宗以外の本尊を拝まないこと)」、「勤行唱題および弘教活動(=広宣流布)を実践すること」で十分である、とされる。すなわち日蓮正宗においては、[[本尊]]こそが「[[三大秘法]]」の中心として考えられている。 この他に、 # 宗祖は、外用としては[[法華経]]に予証された末法の世を救う上行菩薩であるが、その内証は久遠元初の自受用報身、すなわち、末法の御本仏であるとし、宗祖を「日蓮大聖人」と尊称している。 # 宗祖は、[[1253年]]([[建長]]5年)[[3月28日 (旧暦)|3月28日]]に立宗を内示され、[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]に立宗を宣した。 # 日興は、[[1282年]](弘安5年)の'''[[二箇相承]]'''にもとづき、宗祖から「[[血脈相承|唯授一人の血脈相承]](ゆいじゅいちにんのけちみゃくそうじょう)」を受けたとされている。以後、第3祖日目、第4世日道、第5世日行と順次に伝えて現法主第68世[[日如]]に至っている。 等々の教義があげられる。 特に、[[日蓮本仏論]]については、『開目抄』『諸法実相抄』『就註法華経口伝』『本尊問答抄』『百六箇抄』『本因妙抄』『産湯相承事』を真蹟とした上で、下記の文言を典拠に、[[日蓮本仏論]]を唱える。 #夫(それ)仏は一切衆生に於て主師親の徳有り。(蓮盛抄 建長七年三四歳 平成新編御書28) #日蓮は日本国の諸人に主師父母なり。(開目抄 文永九年二月 五一歳 平成新編御書577) #今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は一切衆生の父なり。無間地獄(むけんじごく)の苦を救ふ故なり云云。涅槃経に云はく「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」云云。日蓮が云はく、一切衆生の異の苦を受くるは悉く是日蓮一人の苦なるべし。(御義口伝 平成新編御書1771) #末法の仏とは凡夫なり。凡夫僧なり。(中略)僧とは我等行者なり。仏共云はれ、又は凡夫僧とも云はるゝなり。(御義口伝 弘安三年正月十一日 平成新編御書1779) #凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。然れば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしにさにては候はず、返って仏に三徳をかぶ(被)らせ奉るは凡夫なり。(諸法実相抄 文永一〇年五月一七日 五二歳 平成新編御書665) 現在、所依の経典としては、[[法華三部経]]・宗祖遺文(『日蓮大聖人御書』)・第2祖日興遺文・第9世[[日有]]遺文・第26世[[日寛]]遺文を正依とし、[[天台宗]]系統の摩詞止観10巻および弘決・法華玄義10巻および釈籤・法華文句10巻および疏記を傍依としている。 仏教の基礎である[[三宝]]は、以下のように説いている。「末法の三宝とは久遠元初自受用報身如来の再誕、本因妙の教主日蓮大聖人を仏宝、無作本有の南無妙法蓮華経の大曼荼羅を法宝とし、血脈付法の第二祖日興上人を随一とする歴代の法主上人が僧宝である」宗祖こそが「本因妙の教主釈尊」であって、インドの[[釈迦]]([[釈迦如来|釈尊]])は、法華経を説いて当時の衆生を救済するかたわら、末法における本仏(=宗祖)の出現を予証するために現れた「'''仮の姿'''」の「釈尊」(='''迹仏''')とされてされており、[[多宝塔]]や釈迦・[[多宝如来]]、等の仏像の制作・崇拝は一切禁止されている。 == 沿革 == === 日興門流の成立 === 日興は、宗祖の本弟子六老僧の1人として積極的な[[折伏]]に目覚しい成果をあげ、特に[[駿河国|駿河]]において強力な教団組織を創りあげた。この急速な布教展開は他宗派関係者や[[鎌倉幕府]]内権力者の警戒心を招き、[[1279年]](弘安2年)には熱原郷付近の僧俗が徹底的な弾圧を受け、最終的に3名の農民信徒が殉教を遂げるという事件も起きている('''熱原法難''')。宗祖日蓮滅後、法の相承を受けた日興が直ちに身延山久遠寺別当職となり7年間過ごす。廟所は本弟子六老僧による輪番制が敷かれたが、戦乱や疫病、遠方の布教活動を理由に日興以外の五弟子が輪番制を放棄。その後身延山に進山してきた六弟子の1人、日向の示唆によって地頭・波木井実長(はぎりさねなが 後に出家して六郎入道日円)が謗法行為を犯したので、日興はやむなく身延を離山した<ref>日興上人身延離山史</ref><ref group="注釈">日蓮正宗のみならず日蓮本宗など、日興門流での主張。</ref>身延離山後、地頭南条時光の招きにより[[本山|総本山]]大石寺(たいせきじ)を建てて「御開山」すなわち事実上の[[開山|開祖]]となり、その教義的方向性を決定づけたとされる。日興は大石寺を[[日目]]にまかせ、晩年は地頭石川氏の招きにより重須談所(現在の日蓮宗[[北山本門寺]]根源・重須本門寺)に移住し、日目に血脈を譲ったのち、師弟の教育・指導にあたり、ここで遷化(逝去)した。 日興は [[1289年]](正応2年)に多宝富士山下之坊を開山し、多宝富士山[[下之坊 (富士宮市)|下之坊]]は現在では富士門流・日興門流発祥の聖地とされている。翌[[1290年]](正応3年)、日興は[[南条時光]]の寄進によって[[富士山]]の麓に大石寺を開いた。日蓮正宗では、日蓮大聖人の正しい教えが日興 - 日目 - [[日道]]と続く法脈以外には伝わらなかったとして、[[日朗]]系などの全ての他門流、また、[[日蓮本仏論]]や大石寺管長の[[血脈相承]]を認めない、他の[[日興]]門流=[[富士門流]]諸派も、すべて謗法としている。一方、日蓮正宗以外の富士門流、日朗門流、日向(身延)門流、日常(中山)門流などは宗祖大聖人御入滅以来、正嫡を主張し、日蓮正宗に異論をとなえ続けている。 === 近世における大石寺の展開 === 江戸時代、仏教の諸宗派の教学研究の拠点は各本山から[[檀林]]にうつった。[[大石寺]]は、[[勝劣派]]である[[日興門流]]の他の本山や[[日隆|日隆門流]]の各本山とともに[[細草檀林]]をつくった。 [[江戸時代]]、大石寺は江戸城では独礼席を許され、また第25世の[[日宥]]は[[後水尾天皇]]の皇孫であり第6代将軍[[徳川家宣]]正室の[[近衛熙子|天英院]]の猶子(養子)に迎えられている他、将軍家や大名家、江戸時代著しく力の衰えていた皇室・公家などの崇敬を得たが、他の宗派と同様に布教活動は[[江戸幕府]]の厳しい統制を受け続けた。 法華経正宗分の意味合いからであろうか少なくとも江戸時代中期には自宗派を'''正宗'''と呼ぶことがあったことが、金沢郷土史の文献(「正宗の題目」とある)から分かる。 === 日蓮正宗の成立 === 明治維新政府の祭政一致、神道国教化政策<ref group="注釈">後に神道は道徳とする政略的準国教化政策に変更</ref>のもと、1872年、仏教界に強制合併の大弾圧が加わる中<ref group="注釈">[[明治維新]]によって成立した新政府は、キリスト教文明に裏打ちされた欧米列強に対抗するため、精神面での国民統制手段として天皇の神格化を進め、[[国家神道]]として利用した。[[1868年]](明治元年)の[[神仏分離令]]から始まった[[神道国教化政策]]により、民間では[[廃仏毀釈]]運動が起こり、宗派を問わず多くの仏教寺院が破壊された。奈良の[[興福寺]]では僧侶全員が[[還俗]](げんぞく)の上、隣の[[春日神社]]の[[神官]]になったことに象徴されるように、千年以上の間、日本人の精神・文化の支柱となってきた仏教勢力を叩こうとする国学者、朝廷官僚、維新政府をはじめとした圧力には凄まじいものがあった。</ref>(一宗一管長制)、他宗派との形式上の合同を余儀なくされていた[[大石寺]]の本末が独立を回復するのが1900年、日蓮正宗を正式に名乗るのは[[1912年]]である。<ref group="注釈">この間[[日蓮宗]]([[1872年]]([[明治]]5年) - [[1874年]](明治7年))[[日蓮宗勝劣派]](1874年(明治7年) - [[1876年]](明治9年))[[日蓮宗興門派]]([[本門宗]])(1876年(明治9年) - [[1900年]](明治33年))に参加を強制された。</ref> [[1868年]]の[[明治維新]]によって、[[大石寺]]教団と国家権力との間には新たな緊張関係が生まれた。<ref group="注釈">明治政府は仏教各派の力を弱めて神社の下に置き、神道布教に利用しようとして[[1872年]](明治5年)仏教各派に対し[[天台宗]]、真言宗、浄土宗、禅宗、浄土真宗、時宗、[[日蓮宗]]の七宗派に統合して各派から管長を出すよう官布告(一宗一管長制)を出した。この布教手段としての目論見は神社の神官が布教活動などやったことがなかったため全く機能せず、仏教勢力の巻き返しにあって政策転換を余儀なくされるが、統合政策としては[[13宗56派]]に強引に束ねられるような形になり、仏教各派に深刻な影響を及ぼした。</ref>すなわち、江戸時代まで仏教勢力が圧倒的に優位だった日本宗教界の序列を覆し、[[神道]]の準[[国教]]化を宗教政策の根幹とした明治政府は、仏教各派に対しては、行政制度上の統合整理強制によって「分割支配」をはかる方針を採った。この背景として、日蓮宗管長・新井日薩らによる「全日蓮門下の統合」を目指す画策もあった。[[大石寺]]第54世[[日胤 (大石寺)|日胤]]は、[[1873年]]に教部省へ「大石寺一本寺独立願」を提出し、以降も数度にわたって諌暁を繰り返したが容れられず、結果的に[[1876年]]より、興門八本山の他の七山とともに[[日蓮宗興門派]](のち[[本門宗]]と改称)の設立に参加することを余儀なくされた。<ref>{{main|富士門流#歴史}}</ref> [[大石寺]]とその貫主が「富士門流の嫡統であり、唯一の[[血脈相承]]者」であり、ゆえに[[大石寺]]を日蓮宗興門派(本門宗)の総本山、その貫主を宗派全体の管長とするべきである、という[[大石寺]]の主張は他の七山の受け入れるところとはならず、[[大石寺]]は[[日蓮宗興門派]]の発足当初から、[[大石寺]]とその末寺のみによる独立宗派の設立を指向した。 行政上の宗派代表としての「興門派管長(本門宗管長)」の職は、八本山が一年任期の輪番制で務める運営形態となり、[[大石寺]]からは、[[1881年]]-[[1882年]]にかけて第55世法主[[日布]]が第4代の管長に、[[1891年]]-[[1892年]]にかけては第56世法主[[日応]]が第15代の管長に就任している<ref>{{main|本門宗#歴代管長}}</ref>。 だが、このような形式は、[[大石寺]]派僧俗にとってみれば、[[大石寺]]の住職は依然変わりなく[[法主]](ほっす)の地位ではあるが、管長の地位は謗法の人間が占めている場合もあるという、信仰上の異常事態が続くことを意味し、教団の存立こそ篤信の信徒団体に支えられて強固であったが、教義的には許されざる事態となった。 しかしその後、第55世[[日布]]・第56世[[日応]]と、数度にわたり政府への抗議活動と他の七本山に対する破折活動が続けられた結果、ついに[[1900年]](明治33年)にいたり[[大石寺]]の本末・中末の独立が公許され、[[日蓮宗富士派]]として独立を回復させた<ref>榎木,2007,pp.443-496</ref>。 本門宗から脱却した直後より、「能く宗旨・宗体を表す」宗号の再検討が行われ、1912年(明治45年/大正元年)6月7日、第57世[[日正]]の決定により、現在にいたる「“日蓮正宗”」という宗号が政府の認可のもと公称されることとなった<ref>榎木,2007,pp.509-510</ref><ref>{{see also|日正#経歴}}</ref><ref group="注釈">大正元年に第57世日正上人のもと『正宗』と号したことから「三正の妙」と呼ばれることがある</ref>。 === 僧俗護法会議 === 昭和に入り、再び軍部による思想統制・信仰弾圧が激化する中、<ref group="注釈">1929年(昭和4年)の[[世界恐慌]]に端を発した大不況、相次ぐ企業倒産、社会不安増大を背景とし、軍の一部将校の暴走を契機とした[[満州事変]]、[[日中戦争]]、[[仏印進駐|北部仏印侵攻]]など対外的軍事侵攻が拡大、国内では皇道派による陸軍少将[[永田鉄山]]惨殺事件([[相沢事件]])、[[五・一五事件]]([[犬養毅]]首相暗殺)、[[二・二六事件]]([[岡田啓介]]首相暗殺未遂、閣僚ら暗殺)等のテロ・クーデター、その後、統制派による軍部独裁強化が進む。 宗教面では、[[伊勢神宮]]から天照皇大神を分霊した[[神社]]が日本の占領地の方々に建てられ、満州だけでも500社以上にのぼった。これは満蒙開拓団の指導者だった加藤完治が天皇中心主義の古神道学者・筧克彦を信奉していた影響が大きいが、俯瞰すれば、この時代の軍部・右翼国粋主義者が戦争による勢力圏拡張によって、【民族神=天照大神=現人神に祭り上げられた天皇】を【世界神】にしてしまおうという野望を抱いていた、との解釈が成り立つ。(「天皇と東大 下巻 立花隆」P551・552)</ref>宗教界に発せられたのが1940年〈昭和15年〉施行の「宗教団体法」である。仏教界全体が13宗56派から13宗28派に統合されるという大激震が走るに及び、日蓮正宗僧俗は1941年〈昭和16年〉3月10日、大石寺御影堂にて『僧俗護法会議』を開き、「本宗六百年来の伝統と信条を守る為に、不純なる合同は絶対にしりぞけることで一決した」<ref>富士門流の歴史 重須編 榎木境道著 妙教編集室刊 P515-516、9日蓮正宗の単立決議と戦後の興門派</ref> これを受けて、第六十二世法主・[[日恭]]上人は文部省宗務局長と面会、合同拒否と単独認可を訴えた結果、[[神嘗祭]]遥拝等の容認を条件に、3月31日付けをもって単独宗制の認可決定が出された。<ref group="注釈">出典:昭和16年12月8日付『訓諭』、昭和17年『大日蓮』1月号-戦争布告の大詔を拝して光輝ある元朝を迎ふ-、昭和17年10月10日『院達』、昭和17年11月1日『院達』から</ref>暗雲立ち込める時代状況下とはいえ、解散の覚悟まで迫られた末に勝ち取った独立は「日蓮正宗並びに大石寺が持つ底力の強さを、遺憾なく世間に知らしめることができた」<ref>富士門流の歴史 重須編 榎木境道著 妙教編集室刊 P517、9日蓮正宗の単立決議と戦後の興門派</ref>ともいえる。 このことはまた、昭和16年4月1日付けの朝日新聞「[[仏教]]の宗派は半減・・・日蓮正宗だけがそのまま一派として残った」の記事からも、明確な証拠として読み取れる。 === 日蓮正宗の発展と他門流の顛末<ref>{{main|文末注釈 日蓮正宗をめぐる富士門流寺院の合流と離脱}}</ref> === 第二次世界大戦後、日蓮正宗は日本の全宗教界の中でも突出した飛躍的発展を遂げる。外護団体を中心とした「[[折伏大行進]](しゃくぶくだいこうしん)」と呼ぶ布教活動で、短期間に著しく信者を増やし、<ref group="注釈">この発展により、5万坪程度だった総本山大石寺の面積は約113万坪(1970年時点)となった。また、外護団体等の350ケ寺寄進により全国・海外に寺の建設が進み、寺院数500を誇るまでになる。</ref>平成2年には信徒数1800万人を公称(宗教年鑑)するに到った。その後世俗化した信徒団体である創価学会の破門などもあり規模を縮小させたが、平成21年の大結集総会以後、再び拡大布教路線に転じている。<ref group="注釈">尚、平成20年宗教年鑑に記載されている信者数は39万6000人となっている。</ref><br /> 一方、大石寺と本末が第二次大戦の激動期に独立を守ったのと対照的に、本門宗(富士門流)の七本山とその末寺は戦前の宗教政策により、1941年にいたり、教義的には対立する勝劣派・一致派48本山が三派合同して結成した[[日蓮宗]]に参加し、その内部で[[興統法縁会]]を組織した<ref>教義上は対等合併としたが、組織上は最大規模の身延門流に吸収合併される形に近かった{{main|富士門流}}</ref>。<br /> 戦後、本門宗(富士門流)の七本山とその末寺は、日蓮宗から独立して日蓮正宗に合流するもの、[[富士門流]]の新たな宗派の設立に参加するもの、引き続き興統法縁会に留まるもの、などに分かれた<ref>{{main|興統法縁会#7本山とその旧末寺の動向}}</ref>。 また、[[正信会]]住職が日蓮正宗当局より殯斥処分を受けるなどの道をたどるものもあらわれた。<ref group="注釈"> 日蓮正宗をめぐる富士門流寺院の合流と離脱 * 1872年([[明治]]5年):明治政府の宗教弾圧により、仏教諸宗派が形式上の合併・合同を強制される。 * 1900年(明治33年):大石寺とその末寺は、[[富士門流]]の形式的合同教団である[[本門宗]]から離脱し、[[日蓮宗富士派]]を設立して完全独立を回復。 *1912年(大正元年):[[日蓮正宗]]と改称。 * [[1941年]]([[昭和]]16年):この年に制定された[[宗教団体法]]により、本門宗は[[勝劣派]]の[[顕本法華宗]]や、教義上は対立する[[一致派]]の日蓮宗と、呉越同舟の三派合同をおこない、それぞれの組織を解消して、[[勝劣一致]]という教義的矛盾を抱えた日蓮宗を新たに発足させた。一致派より少勢の富士門流寺院は日蓮宗の内部で[[興統法縁会]]を組織し、[[本門宗]]の前管長[[由比日光]](西山本門寺49世貫主)が初代会長に就任。 *[[1941年]]([[昭和]]16年):[[宗教団体法]]に抗して、日蓮正宗は単独で独立した宗派としての地位を維持。 * [[1945年]](昭和20年):[[GHQ]]の指令により宗教団体法廃止。 * [[1950年]](昭和25年):旧本門宗の本山[[下条妙蓮寺]]([[興門八本山]]のひとつ)が旧末寺6ヶ寺とともに日蓮宗を離脱して日蓮正宗に合流。 * [[1956年]](昭和31年):旧本門宗の本山北山本門寺(興門八本山のひとつ)の旧末寺[[妙泉寺]]が日蓮宗より離脱して日蓮正宗に合流。 * [[1957年]](昭和32年):旧本門宗の本山[[西山本門寺]](興門八本山のひとつ)が49世貫主の由比日光の主導により、本山単独で日蓮宗より離脱し、日蓮正宗に合流。塔中・檀信徒の反対派により、日蓮正宗との合併手続きの無効訴訟が起こされる。 *同年、旧本門宗の本山[[保田妙本寺]](興門八本山のひとつ)と旧末寺の一部(4ヶ寺)、北山本門寺の旧末寺[[讃岐本門寺]]などが日蓮宗を離脱して日蓮正宗に合流。 *同年、[[宮崎県]]内の[[富士門流]]寺院の本山[[定善寺]]が旧末寺6ヶ寺とともに日蓮宗を離脱し、日蓮正宗に合流。 * [[1958年]](昭和33年):定善寺の旧末寺・妙国寺が日蓮正宗より離脱して単立に([[1976年]]、日蓮宗に再所属)。 * 1960年(昭和35年):定善寺の旧末寺・[[本源寺 (宮崎市)|本源寺]](経王山)が日蓮宗を離脱し日蓮正宗に合流。 *同年、下条妙連寺の旧末寺[[忠正寺]]が日蓮宗を離脱して日蓮正宗に合流。 *同年、西山本門寺の49世由比日光死去。日蓮正宗は由比日光の後継指名に基づき下条妙蓮寺の前貫主吉田日勇を後任に任命。 * [[1975年]](昭和50年):西山本門寺の裁判で最高裁判決。信徒側が勝利し、日勇は西山本門寺より退去。西山本門寺は日蓮正宗より離脱し単立寺院に。 *[[1982年]](昭和57年)、保田妙本寺の旧末寺・[[本顕寺 (君津市)|本顕寺]]は[[正信会]]会員の住職が日蓮正宗当局より擯斥処分をうけ、日蓮正宗とは絶縁状態に。 *同年に住職が正信会会員として擯斥処分をうけた寺院が百数十ヶ寺。その大部分は大石寺とともに日蓮宗富士派(日蓮正宗)の設立に参加した寺院や、富士派ないしは日蓮正宗の寺院として建立された寺院である。 *[[1993年]](平成5年)、保田妙本寺は旧末寺の[[顕徳寺]]および[[遠本寺]]とともに日蓮正宗より離脱して単立に。</ref><ref>{{main|かつて日蓮正宗に属していた寺院一覧|正信会#正信会から日蓮正宗に返還された寺院}}</ref><ref>{{see also|西山本門寺#起源と歴史|興統法縁会#宮崎県内の興統法縁・日郷門流の諸寺院の動向|大日蓮宗#歴史}}</ref> <br /> 日蓮正宗は、これらの諸寺院とは、教義的にも宗教行為上の交流はないが、学術面での交流を持っており、日蓮宗僧侶が大石寺を訪れることがある。 == 宗門の体制 == === 法主の地位と権能(法義上)・権限(組織上) === '''唯授一人の血脈相承'''を受けた法主(ほっす)が、日蓮正宗の宗門における僧侶の最高位であり、僧侶の階級は'''[[僧正|大僧正]]'''(だいそうじょう)である。近年の宗規では、法主のみが'''管長推戴会議'''の選定を経て宗務行政の長である管長の職に必ず就くことになっている。また法主は総本山大石寺の貫首([[住職]])をも兼ねている。現在の法主は、第68世早瀬[[日如]]である。 次期法主候補者があらかじめ公表されている場合、次期法主候補者は学頭に任じられる。学頭の僧侶としての階級は'''権大僧正'''(ごんだいそうじょう)となる。ただし公表されない場合は、学頭は空席のままである。法主の下には若干名の[[能化]](のうけ)が、法主に次ぐ高僧衆として存在し、現在は前法主の[[日顕]]を除く7名の僧侶が能化の位にある。 法主の尊称として「御法主日○上人猊下」もしくは「日○上人」が用いられる。生前に退座して隠居した前法主は御隠尊猊下または御隠尊上人と敬称される。<br /> なお、'''上人'''の称号は、法主の許可により、能化をはじめ、法主経験者以外の者にも贈与または追贈されることがある。また、'''日'''の字がつく法名を日号(にちごう)といい、僧侶には存命中に与えられる。ただし能化(権僧正)以上の高僧しか存命中に公称することは許されない。ただし逝去された後は、やはり法主の許可により、一般僧侶も、また在家信徒にも戒名中に日号がつけられる場合がある。<br /> 上人号・日号等の授与権は、'''本尊書写権'''や'''教義裁定権'''と並んで「法主のみの権能」とされている<ref>「法主=管長への過度な中央集権化」との批判があるが、これは法主としての法義上の権能と、管長としての組織運営上の権限を混同した批判である。詳細は「8.他派からの批判と対応-教団体質についての批判」参照</ref>。このような法義上の重要権能は正宗が認定する重要相伝書の『二箇相承書』及び第二祖日興遺文『富士一跡門徒存知事』『五人所破抄』『日興跡条々事』『日興遺誡置文』等に定められた宗規とされており、750有余年に渡り引き継がれている。統一的な規律を持たず、地元の住職が個々に文字曼荼羅本尊を書写し、親しい信徒に販売・下賜することもある身延系の[[日蓮宗]]とは対照的である。 === 宗務行政 === 宗務院の事務を総理する長として、管長の職を置く。管長は法主・大石寺住職が兼任する。宗務院は、総本山大石寺境内に置かれている。管長を補佐する宗務総監の指揮監督の下、庶務部・教学部・布教部・海外部・渉外部・財務部の6部門によって宗務行政が分担される近代的事務機構が構築されている。なお、管長・総監に次ぐ役職として重役も設けられており、顧問的役割を持つ。各部には部長、副部長(現在、布教部と海外部は空席)、主任が置かれており、特に庶務部長は実質的に総監を補佐する立場にある。この他に、[[僧|僧侶]]の中から選挙によって議員が選ばれる宗会、綱紀粛正機関である監正会、管長が任命した権大僧都以上の者5名による参議会などの合議システムも導入されている。 宗務院は全国に大布教区と大布教区に統轄される布教区を敷いている。総本山塔中には特別布教区を敷いている。特別布教区の事務は、大石寺内事部において取り扱われている。内事部では法主のもと塔中坊の住職の中から主任理事が1名、執事が1名ないし2名、理事が若干名任命され総本山の寺務の責任者となる。法的に、大石寺の代表役員は法主が務め、主任理事、理事、総代が責任役員となる。 また、主任理事、執事は法主の大石寺住職としての法務を補佐する立場にあり、法主不在の場合代理で法要の導師を務めるなどする。 === 出家制度 === 日蓮正宗寺院の[[住職]]・主管、副住職・副主管は僧の妻帯が解禁された明治維新以降の伝統仏教でよく見られるような世襲制、家族経営ではなく、[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]同様に管長の辞令により[[総本山]]から派遣される極めて中央集権的なシステムとなっている。<ref>ただし僧侶の結婚自体は認められており、阿部[[日開]]・[[日顕]]・信彰のように親子数代続けて僧侶という場合もある。</ref>そのため、短期間で住職が交代したり、2つの[[寺院]]の間で住職が入れ替わるということもある。副住職・副主管に関しては、宗規で、住職・主管が教師の中から選び、法主の承認を得て着任する決まりとなっている。したがって、住職は寺院の財産を私的に用いる(相続など)ことは出来ない。 [[僧侶]]となる場合、かつては宗内の僧侶が弟子をとることもあったが、現在は得度審査に合格して法主上人の弟子となる。大半の僧侶は少年得度で12歳、小学校卒業と同時に出家する。それ以外の一般得度者(高卒~57歳まで)も随時募集される。出家得度し高校3年生まで総本山大石寺で修業した後、地方寺院(主に本山格寺院や大都市周辺の寺院)で4年程度在勤し、最後に総本山で1年在勤したのち教師補任式をへて教師に補任される(説法を許される)。管長の辞令があれば地方寺院の住職(副住職の場合もあり)として派遣される。一部の僧侶は得度以来総本山で一生を過ごす者もいる。法衣は全階級とも白五条袈裟に薄墨色の衣(僧階が上がると模様が入るなどの違いはある)であるが、袈裟・衣は管長の免許がなければ着用することはできないことになっている。 === 僧侶の階級 === 日蓮正宗では僧侶の階級(僧階)は次のようになっている。 : 教師 :* 大僧正(法主及び法主経験者)、権大僧正(学頭)、僧正、権僧正(ここまでが能化となる) :* 大僧都、権大僧都、僧都、権僧都、大講師、講師、少講師、訓導、権訓導 : 非教師 :* 一等学衆、二等学衆、三等学衆、沙弥 それぞれの階位の授与等は内部規定による。 === 宗門役僧 === * 管長 [[日如|早瀬日如]](総本山大石寺住職)大僧正 * 前管長 [[日顕|阿部日顕]](前・総本山大石寺住職)大僧正 * 総監 八木日照(東京・法道院主管、法華講本部指導教師)権僧正 * 重役 藤本日潤(東京・常泉寺住職、元・総監)僧正 * 宗会議長 土居崎日裕(東京・妙光寺住職)権僧正 * 教学部長 水島公正([[所沢市|所沢]]・能安寺住職、法華講本部指導教師) * 布教部長 阿部信彰(東京・[[常在寺 (豊島区)|常在寺]]住職、法華講本部指導教師) * 庶務部長 斎藤栄順(東京・妙国寺住職) * 海外部長 漆畑行雄(富士宮・本山妙蓮寺住職) * 財務部長 長倉教明(札幌・日正寺住職) * 渉外部長 秋元広学(東京・[[宣徳寺 (世田谷区)|宣徳寺]]住職) * 副教学部長 宮野審道(埼玉・啓信寺住職、(株)大日蓮出版代表者) * 副庶務部長 田中導正(大石寺塔中[[蓮東坊]]住職) * 副渉外部長 梅屋誠岳([[藤沢市|藤沢]]・寿照寺住職) * 副財務部長 森田厚道(大石寺大坊内) == 信徒団体 == ; 法華講 : 法華講は日蓮正宗唯一の信徒団体である。各末寺に檀家グループの○○講(講中)が存在し、この○○講の総称を'''法華講'''という。法華講は日常の唱題行や総本山への団参登山を行うものとして、宗史上古来より存在していたが、[[1962年]]にこれらの○○講の連合体として日蓮正宗法華講全国連合会(略称'''全連''')が結成されて加盟するようになった。この'''全連'''は[[1967年]]に日蓮正宗法華講連合会(略称'''連合会''')に改称され、現在に至っている。 : 日蓮正宗の信徒団体を作るには、末寺の住職が信徒団体の指導教師となって信徒団体を作ろうとする代表者と連名で「組織結成許可願」を宗務院に提出し、宗務院での審議を得て日蓮正宗の管長である法主が「組織結成許可書」に署名押印して「組織結成許可書」が交付されて指導教師から○○講に手渡される。これは明治時代からのシステムであるが、第2祖[[日興]]の「この法門は師弟子をたゞして仏になる法門にて候なり」(佐渡国法華講衆御返事)の伝統と慣習を踏襲したものであり、「組織結成許可書」に類する江戸期の古文書も残っている。こうして結成された○○講は、日蓮正宗法華講全国連合会に加盟申請書を提出し、総本山内の日蓮正宗法華講全国連合会事務所(通称'''法華講事務所''')で加盟手続きが行われる。よって「組織結成許可願」と指導教師のない団体は日蓮正宗の正規の信徒団体とはいえないことになっている。 : なお法華講では、日蓮正宗法華講連合会発行の大白法(だいびゃくほう)が唯一の機関紙となっている。毎月1日と16日に発行され、定価は100円である。 :* '''法華講の役員''' :*: 各末寺の法華講の役員には講中の代表者の講頭、副講頭、幹事、会計がいるが、法華講の役員はすべて「組世話役」と定義され、他の寺院に所属する講員に対して指導することは指導教師(住職・主管)に対する越権行為に当たるのでしないことになっている。日蓮正宗法華講連合会には事務機構上、委員長、副委員長、理事、地方部長などの役職があるが、これも「組世話役」と定義され、「連合会」に加盟する各法華講を指導・監督することはない。また名誉職として総講頭、大講頭の称号があるが、信徒を指導することはない。大勢の信徒の前でスピーチをする場合には「挨拶」や「激励」の名目で行う。なお、前総講頭柳沢喜惣次(やなぎさわ・きそうじ)氏が死去して以来総講頭は任命されていないため、現在総講頭は空席である。 :* '''海外の法華講''' :*: 海外では50か国弱で法華講が存在し、寺院や布教所などが建立されている。特に[[インドネシア]]では60万人(インドネシア政府による公称)の信徒がいるとされ、また[[台湾]]では5か寺が建立され信徒は増加傾向にある。近年では韓国、インドネシアから一般得度で僧侶(所化)を数名輩出している。 ; おもな法華講の団体 * 理境坊所属・[[妙観講]] (東京都杉並区) * [[法道院]]・法華講 (東京都豊島区) ; [[創価学会]](旧[[創価教育学会]])との関わり 1928年(昭和3年)、[[牧口常三郎]]は、日蓮正宗の信者で、東京池袋の常在寺に属する「大石講」の幹部でもある三谷素啓の紹介で入信し、追って、[[戸田城聖]]も入信する。1930年(昭和5年)11月18日(実際は、『創価教育学体系』第1巻が出版された日で、奥付に初めて同会の名前が出る)、両名らにより、日蓮正宗の教義と牧口の『[[価値論]]』を合体させた教義を奉ずる教育者を主とし構成される団体として「創価教育学会」が設立され、初代会長に牧口が、理事長に戸田が就任した。当会は、”教育”の文字が示す通り、また、牧口自身が宗門に提出した調書で、「創価教育学会は純然たる日蓮正宗ではなく、自分の[[価値論]]を実践する一個の独立した団体」と明記するように、日蓮正宗の信徒団体(講中)ではない。1936年(昭和11年)、8月13日から16日までの4日間、総本山大石寺で、9名が参加して第1回創価教育学会修養会が開催された。 [[第二次世界大戦]]終結後、1946年(昭和21年)に創価教育学会の名称が[[創価学会]]と改称される。1951年(昭和26年)5月3日、第2代会長に戸田が就任した。 1952年(昭和27年)8月27日、[[東京都知事]]より宗教法人の認証を得て9月8日「宗教法人創価学会」が正式に発足する。以後、日蓮正宗も格段に発展することとなった。とりわけ、[[1960年]](昭和35年)5月3日、第3代会長[[池田大作]](現・名誉会長)の会長就任以降、大石寺には、従来の法華講(旧来の檀家)と[[創価学会]]信者の寄進により[[客殿 (大石寺)|大客殿]]や[[正本堂 (大石寺)|正本堂]]などが建立されるなど、長らく双方の間には蜜月状態が続いた。1970年代後期の昭和52年路線の教義逸脱問題・池田による本尊模刻事件などを経て、1991年(平成3年)11月28日に、日蓮正宗宗門は、当時の第67世法主[[日顕]]の名前で[[池田大作]]を破門処分にした。 手続き上のことを付言するならば、そもそも宗務院録事には、[[創価学会]]の組織結成を許可した事実が記載されていない。日蓮正宗の信徒団体(講中)は末寺住職(指導教師)と信徒の代表が宗務院に「組織結成許可願」を提出し、宗務院の審議を経て日蓮正宗の管長である法主が組織結成許可書に署名押印するが、[[創価学会]]は組織許可書の交付も受けていなければ指導教師も初めから存在していない。宗教法人設立当時に戸田が指導教師とした65世法主[[日淳]]はあくまでも戸田個人の指導教師であった。 ; 信徒の活動 信徒の修行としては、本尊に向かって「南無妙法蓮華経」の[[題目]]を唱え、[[法華経]]を[[読誦]]すること([[自行]]の題目)と並び、それを他の人に伝える[[折伏]]の修行(化他の題目)が基本となる。自行としての日常の[[勤行 (日蓮正宗)|勤行]]は、妙法蓮華経方便品・如来寿量品(長行、自我偈)の読誦、唱題(「南無妙法蓮華経」の題目を唱えること)を基本構成とし、古来からの朝五座・夕三座の格式を守って行われている。総本山への「登山参詣」(総本山大石寺に参詣すること)末寺への参詣は重要な修行として、[[成仏]]への功徳を積むことができる行為と考えられている。 日蓮正宗の檀信徒名簿へ登録を受けるためには、末寺において授戒を受け、さらに曼荼羅本尊を下附されなければならない。授戒のみ受けて本尊未下附の者は内得信仰と呼ばれる。 ; 信徒団体との紛争 現在「紛争」といえるような対立関係は教義面も含めて、いずれも日蓮正宗から破門された団体である[[正信会]]、[[冨士大石寺顕正会]]、創価学会がある。特に創価学会は1991年(平成3年)の破門後から現在に至るまで機関紙上で激しく宗門批判を繰り返し、会員にも正宗僧侶への批判を喧伝してきた経緯があるが、日蓮正宗信徒団体としては一切衆生への布教という立場から、相手によって態度を変えることなく冷静に対応している結果、200件近い日蓮正宗対創価学会の裁判で84%以上の勝訴となっている。<ref>{{main|除名#宗門の除名|偽造写真事件#創価新報による批判|日顕#創価学会による偽造写真事件|創価学会#学会常勝不敗説}} </ref>。 顕正会については、宗門が1974年(昭和49年)、顕正会の前身の妙信講に対し破門よりもさらに重い講中解散処分をしたため、これ以後、日蓮正宗への攻撃に多くの時間と労力を費やしてきた。しかし、特に[[東日本大震災]]後は日本の宗教界全体において、被災者、犠牲者への追悼が連日強調されたこともあって、宗門への批判は大きく減少させざるを得なくなり、正宗信徒団体としては本来の信仰活動に励める状況となっている。 == 機関誌(教誌) == ; 大日蓮 : 日蓮正宗唯一の機関紙誌(教誌)は'''大日蓮'''(だいにちれん)である。時局に応じて号外も発行されている。宗務院録事、総本山録事、宗務広報、法主の説法、布教講演及び論文、総本山の動き、末寺の動き、海外の動き、住職晋山の挨拶などが載せられていて、定価は300円である。'''宗務院録事'''には、総本山での法要などの'''達示'''、住職などの'''辞令'''、講中組織結成'''許可'''、檀徒団体の法華講の役員の'''承認'''、末寺の檀家総代の'''承認'''などが掲載されている。'''総本山録事'''には、総本山における人事が載せられている。'''総本山の動き'''には総本山で奉修された法要など、'''末寺の動き'''には末寺で奉修された法要などが掲載されている。[[1916年]]創刊。この他、各末寺で寺報が発行されており、'''大日蓮'''と末寺の寺報のみが機関誌紙とされている。 ; 大白法 :信徒団体の全国組織である法華講連合会が月2回発行する信徒向け新聞 ; 妙教 : 大日蓮出版内の妙教編集室が月1回発行する信徒向け冊子 == 行事 == 年中行事・恒例行事(総本山の行事は[[大石寺]]の項目を参照) * [[1月1日]] 元朝勤行 * 正月3ヶ日 新年勤行会 * 1月[[成人の日]] 成人式(各寺院で檀信徒に新成人がいない年は行わない) * [[2月3日]] [[節分|節分会]] * [[2月7日]] 興師会(開祖・日興の祥月命日) * [[2月16日]] 宗祖御誕生会 * 3月[[春分の日]] 春季[[彼岸]]会 * [[4月28日]] 立宗会 * 虫払い法要(宝物がある一部の古刹寺院のみ、大石寺では毎年[[4月6日]]、[[4月7日]]に営まれる) * [[8月15日]] 盂蘭盆会 * [[9月12日]] 竜口法難会 * [[9月18日]]、[[9月19日]] 寛師会(第26世日寛上人祥月命日) * 9月[[秋分の日]] 秋季彼岸会 * 10月 - 11月 [[宗祖日蓮大聖人御大会]](大石寺では11月20日から[[11月21日]]にかけて営まれる) * [[11月15日]] 目師会(三祖・日目の祥月命日。[[七五三]]を兼ねる) * 11月20 - 21日 宗祖日蓮大聖人御大会(日程は末寺によって違う場合あり) * 毎月1日 御経日(信徒精霊、先祖供養) * 毎月第1日曜 広布唱題会(大石寺と全ての末寺で一斉に午前9時からの1時間唱題会) * 毎月第2日曜 日蓮大聖人御報恩御講(大石寺大坊では13日のみ、一部の寺院では命日にあたる13日にも行われる) * 御経廻り(春秋の彼岸やお盆に僧侶による檀家回りが行われる) 冠婚葬祭(日蓮正宗の冠婚葬祭は化儀に則って行われるが、地域の風習などで多少の違いがある) * 結婚式、葬儀、起工式、上棟式、初参り、七五三、成人式 == 他派からの批判と対応 == ; [[日蓮本仏論]]について *[[興門八本山]]の数ケ寺を含む日蓮宗の諸派は、『百六箇抄』『本因妙抄』『産湯相承事』を偽書とし、[[日蓮本仏論]]は宗祖、派祖の時代にその思想はなく、中世以降に展開された教義で、[[日蓮本仏論]]の根底にある、法華経本門の経文を解脱益・本門文底の南無妙法蓮華経を下種益として末法において脱益の教えに効果がないとする「種脱相対」の教えは、日蓮正宗第26世法主・日寛からの教義であり、宗祖日蓮のものではない、と主張。 **これに対し、以下の日蓮遺文を反証の一例とする。 ***「在世の本門と末法の初めは、一同に純円なり。但し、彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」(彼=釈尊、脱=解脱益、此=宗祖、種=下種益、一品二半=法華経の枢要な章)(『観心本尊抄』新編656頁) *[[日蓮本仏論]]は、「文底」読み、すなわち、文字に表れていないことを前提に論を進めるが、これは、「[[三証]]」のうちの「[[三証|文証]]」を欠いている。また、仏教の開祖・釈迦よりも宗祖・日蓮を本因とするのであれば、釈迦が説いたとされる『法華経』に全く依存せずに、日蓮自身が一番の本(もと)なり、最初の因(いん)であることを主張できなければならない。そうした主張を日蓮自身がしている、とは考えられない、と主張。 **これに対し、以下の日蓮遺文を反証の一例とする。<br /> ***「一念三千の法門は、但、法華経の本門・寿量品の文の底に秘してしづめたり」(『開目抄』新編526頁) *[[日興]]が書いたとされる『御義口伝』の「末法の仏は凡夫なり」の文言にしても、一切衆生、すなわち、万民が凡夫であり、これらすべてに仏性があるとするのは、釈迦の説いた「[[大衆部|大衆部仏教]]」の教えであり、[[日興]]もこれに沿ったに過ぎず、『御義口伝』の文句を典拠として[[日蓮本仏論]]を主張することはできない、と主張。 **これに対し、以下の日蓮遺文を反証の一例とする。 ***「今日蓮等の類の意は、総じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり」(『御義口伝』新編1765頁) ***「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(『撰時抄』新編864頁) *『御義口伝』に対しては特に身延門流日向派を中心とする日蓮宗系から偽撰説が強く提出されている、との主張。 **これに対し、以下の論点を反証の一例とする。 ***『御義口伝』には『諸法実相抄』等に見られる後期の凡夫即仏論がそのままの形で具体的に説かれていること。 ***『日宗年表』(京都要法寺、富谷日震)の記録によれば正安2年(1300年)9月に日興が重須大坊で御義口伝を講義したことが記録されていること。 ***天文8年(1539年)5月14日の日付の八品派・日経の写本の存在が確認されていること(この写本は大阪・妙徳寺に所蔵されていた)。日興門流とは全く異なる流れの八品派の一学僧がこの写本を遺したということは、当時この『御義口伝』という書が日蓮門流の諸派でよく知られていたことが推察できる。八品派のたった一人の僧侶だけが『御義口伝』を知っていて他は誰も知らなかったということは、考証学の常識に照らして、あり得ないからである。 ***『御義口伝』の偽書説は近年に入ってから出たものであり、江戸時代以前にはほとんどこれを偽書扱いする論は存在していないこと。多くの偽書説は昭和に入ってからのものである。つまりその時期に特定の宗派を攻撃する意図があったのだろうと推測できること。 ***宗祖の法華経・講義の記録として、もう一つ『御講聞書』という身延門流の派祖・日向筆記のものが存在すること。日向記も日興記も、ともに講義の筆記であり、厳密な意味での宗祖の著作とは言えないにせよ、「宗祖の思想を伝えない書」とするのは誤りであろう。なぜか日向記に対する偽書説はほとんどないのは、奇妙なことであり、『御義口伝』が後世の偽書とするなら、当然『御講聞書』にも偽書説が流布されておかしくないのにもかかわらず、その痕跡は無く、『御義口伝』のみを偽書扱いする点に、偽撰説の不可解さがあること。なお、日蓮正宗では『御講聞書』も『御義口伝』とともに宗祖の講義録として認定している。 ;本門戒壇の大御本尊について *日蓮宗の諸派は伝統的に、「[[本尊 (日蓮正宗)|本門戒壇の大御本尊]]=第9世法主・日有偽作」説、「[[二箇相承]]偽作説」、並びに、「三大秘法抄=偽書説」等でこの宗派を批判してきた。しかし、、[[本尊 (日蓮正宗)|本門戒壇の大御本尊]]は「日蓮大聖人の魂魄が宿る」とされているため、放射線による科学的な鑑別などは行われたことがない。二箇相承および三大秘法抄の原本は現在失われて存在しておらず、挙証責任は真正性を主張する側にあるはずだから、700年にわたる論争に未だ決着はついていないとする主張。 **これに対し、以下の論点を反証の一例とする。 ***『今日二箇相承が存在しなかったという証拠を上げることは難しいが、存在したという証拠は多分にある』(「日蓮正宗史の基礎的研究 山口範道」) ***否定する側にこそ、立証責任がある。 *昭和53年2月7日の帝国ホテルで日顕上人との面談に基づくとされる[[河辺慈篤]]メモというものがある。流出経路は不明とされている。創価学会等が日蓮正宗批判に利用している。 **戒旦の御本尊のは偽物である。 **種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定) **多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。 **日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。 ***このメモの存在が日顕上人(当時、教学部長)の「戒壇の大御本尊」に対する疑念の証拠であるという批判に対し、以下の反証を掲げる。 ****『当時の裁判や以前からの「戒壇の大御本尊」に対する疑難について様々な話が出た中でそれらと関連して宗内においても戒壇の大御本尊と、昭和45年に総本山へ奉納された「日禅授与の御本尊」が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折について話を伺ったものであります。』(河邊慈篤『大日蓮』H11.9・4頁) ****『正信会・大黒喜道編纂による「日興門流上代事典」の736頁には、本門戒壇の大御本尊の解説文として、次のように記されており(該当解説文略)、その中で戒壇の大御本尊に向けられた疑難は、まさに、「河辺メモ」に記された疑難と、みごとに一致しているではないか!(中略)「河辺メモ」に記された、昭和53年当時、「日禅授与の御本尊」と「戒壇大御本尊」の関係を疑って云々していたのも、後に正信会となる宗内一部僧侶であったことは、もはや確実である』(慧妙・平成14年6月1日号) ; 教団の体質についての批判 *[[正信会]]などの破門された旧信徒団体との対立のなかから、法主個人への絶対帰依や権力の集中を指摘する主張が生まれてきた。<br /> **日蓮正宗側ではこうした主張は成り立たないとしている。根拠としては、日興遺戒置文などにおいて法主と他の僧侶の関係が示されることで法主として判断の客観性が担保されていることなどが挙げられる。<br /> *このような批判がなされる背景には、{{要出典範囲| 日本仏教における伝統宗派の多くは、1970年代以降「下からの近代化」を目指す動きの中で試行錯誤しながら教団体質の民主化を進めてきた|date=2014年5月}}のに対し、日蓮正宗は伝統的に管長一人に権限を集中させており中央集権制を維持しているとの主張がある。<br /> **日蓮正宗側ではこうした主張も成り立たないとしている。根拠としては、そもそも、どの宗派がどういう民主化をして、どのように教団体質を改めたのか明らかではないこと。<br /> **次に日蓮正宗においては、全国600箇寺に及ぶ寺院運営は、本山から派遣された指導教師と、各寺院の信徒団体である講中に全面的に任されており、運営面における管長の介入は全く存在しておらず、あくまでも管長=法主・猊下は仏道修行上の指南を行うだけであること。<br /> **また、信徒団体の全国組織である全国法華講連合会の組織運営も、もとより伝統的に民主的・共和的・合議制で行われており、「中央集権化」との批判は、管長=法主・猊下の法義上の権能と、組織運営上の権限を、意図的にすり替えたか、認識不足で混同したものであること。 **上述の「信仰上の権能」と「組織上の権限」の区別は、宗教法人法第18条に明確に定められている<ref>「代表役員は当該宗教法人を代表し、全事務を総理する。しかし、これらの役員の法人の事務に関する権限は、宗教上の機能に対するいかなる支配権その他の権限をも含むものではない(宗教法人法第18条)」</ref>。日蓮正宗はこの宗教法人法にのっとった運営がなされており、「中央集権」との批判は不当なものであること、などが挙げられる。 == 外国政府の評価 == * [[台湾]]では、日蓮正宗寺院が5箇寺建立され、信徒は近年激増している。日蓮正宗の第67代法主日顕上人が2011年11月26日に訪台、台中と宜蘭で行われた宗教イベントで司会を務め、台湾の幸福を祈った。 * [[マレーシア]]では仏教団体に関してはこの宗派のみが僧侶の常駐を許可されている。 * [[ヨーロッパ]]ではその存在をほとんど知られていない。欧米では日蓮仏教=創価学会という認識が一般的である。創価学会がカルトと同一視されるようになったため、組織的に別のものであることが強調される。他の宗派はすべて邪宗であるとの主張が批判されることもある。特に、[[フランス]]では、[[1980年代]]に「日蓮正宗(創価学会)」の名称で[[セクト]]とする報告が国民議会へ提出されたこともあるが、[[1996年]]の新しい報告書において該当部分は[[創価学会インタナショナル|SGIフランス]]と書き改められており、一部の団体を除き、日蓮正宗と創価学会を分離した上で判断を下している。 * 南米の[[アルゼンチン]]では、「日蓮正宗のみが正しい宗教で、他の宗教は[[邪教]]」とする基準での評価が、[[マザー・テレサ]]への誹謗中傷と判断されたことと、政府の許可を得ずに布教所の開所式を行ったことによって、1998年7月に現地の法人格を抹消されて僧侶も国外退去処分を受けたが、現在は布教所は儀式を奉修して、寺院活動は継続している。大統領令によって1年に亘って公式に活動はできなかったが、「法人取り消し及び活動禁止処分の停止の仮処分」が1999年4月28日に現地裁判所で認められ宗教活動を再開した。その後、アルゼンチン政府は2009年8月10日付で宗教登録抹消処分を撤回し、これを受けて裁判所も同8月27日に関連する訴訟の終結を宣言した。 == 脚注 == {{Reflist}} == 注釈 == {{Reflist|group=注釈}} == 関連項目 == * [[大石寺住職一覧]] * [[日蓮正宗寺院一覧]] * [[日本国外にある日蓮正宗寺院一覧]] * [[かつて日蓮正宗に属していた寺院一覧]] * [[富士門流]] * [[本門宗]] * [[勝劣派]] * [[門流]] * [[宗祖日蓮大聖人御大会]] * [[河辺慈篤]] == 外部リンク == * [http://www.nichirenshoshu.or.jp/ 日蓮正宗公式ホームページ] * [http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/ 新興宗教等、邪宗退治の「百禍繚乱」] * [http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/Temple/ 日蓮正宗寺院一覧] * [http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%93%AE%E5%AF%BA_(%E5%8A%A0%E6%9D%B1%E5%B8%82)#.E8.B5.B7.E6.BA.90.E3.81.A8.E6.AD.B4.E5.8F.B2/ 兵庫県加東市:大蓮寺] {{デフォルトソート:にちれんしようしゆう}} [[Category:法華系仏教]] [[Category:伝統宗派]] [[Category:日蓮正宗|*]]
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