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施明徳
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{{政治家 |各国語表記 = Si Bêng-tek |画像 = Shih Ming-de 2006 Depose Abian.jpg |画像説明 = |国略称 = {{ROC-TW}} |生年月日 = {{生年月日と年齢|1941|1|15}} |出生地 = {{JPN}} [[台湾]][[高雄市]] |没年月日 = |死没地 = |出身校 = 陸軍砲兵学校 |所属政党 = |称号・勲章 = |配偶者 = |国旗 = |国旗 = |職名 = [[ファイル:Green Taiwan in White Cross.svg|20px]] 第6代 [[民主進歩党]]主席 |当選回数 = |就任日 = [[1994年]][[7月18日]] |退任日 = [[1996年]][[3月23日]] |退任理由 = }} {{中華圏の人物 | 名前=Si Bêng-tek | 職業= | 簡体字=施明德 | 繁体字=施明德 | ピン音=Shí Míngdé | 注音=ㄕ ㄇ|ㄥˊ ㄉㄜˊ | 和名=し めいとく | 発音=シー ミンドゥー | 英語名=Shih Ming-teh | 台語名=Si Bêng-tek }} '''施 明徳'''(し めいとく、あだ名は「徳」の日本語訓読にちなむ「ノリ」)は[[台湾]]の[[政治家]]。戒厳令施行期の台湾における党外勢力(反[[中国国民党]]勢力)の主要人物のひとり。かつて[[民主進歩党]]に所属し、第6代党主席をつとめた。 == 来歴 == [[1941年]][[高雄市]]生まれ。[[1959年]]に陸軍砲兵学校に入学、[[1961年]]に同校を卒業後、陸軍少尉に任官され、小金門で砲兵監測官に就く。翌[[1962年]]に「台湾独立連盟案」起草に関係したとして、反乱罪の容疑をかけられ、[[金門島|小金門]]で逮捕、[[1964年]]無期懲役・公民権終身剥奪の判決を受ける。台湾東部沖合の[[緑島]]にある政治犯収容施設(緑島感訓監獄)に収監され、15年間服役の後、[[1977年]]に釈放された。 [[1978年]][[黄信介]]からの依頼を受け「台湾党外勢力選挙支援団」の幹事長に就任、[[呂秀蓮]]、[[姚嘉文]]らの選挙応援を行うとともに、「党名のない党」結成による[[立法委員]]全員改選、地方首長全面公選実現の構想のもと、各地に散在する党外勢力の横断的な組織化を進めた。同年12月には[[許信良]]、[[張俊宏]]、[[林義雄 (台湾)|林義雄]]、姚嘉文(いずれも後の民進党における中心的人物)と共に「五人小組」を結成、のちにこれが美麗島グループにおける中心的存在として、その後の党外勢力の活動方針の決定や党外運動の発展に大きな影響を与えた。その他この時期の目立った活動として、中国国民党から迫害を受けている政治活動家擁護を目的とした戦後台湾初の政治デモの主導(1979年1月)や同年5月に設立された[[美麗島雑誌社]]の代表([[役員 (会社)#総経理|総経理]])への就任などが挙げられる。 [[1979年]][[12月10日]]、世界人権デーに合わせ美麗島グループが高雄市で計画した集会において、デモを阻止しようとする警官隊とデモ参加者との間で衝突が発生([[美麗島事件]])、当局が事件の首謀者として党外活動家の一斉逮捕を行った。施明徳自身も26日間に及ぶ逃亡生活の後に逮捕、[[1980年]] 2月[[警備総司令部]]軍事法廷に送致され、軍事法廷での裁判の後4月に2度目の無期懲役の判決を受けた(なお、このとき逃亡中の施明徳をかくまったとして、[[台湾長老教会]]関係者も逮捕され、有罪判決を受けている)。 逮捕後制約された環境下でも活発な政治的パフォーマンスを続け、[[勾留]]期間中に自己の政治的信念を書き綴ったり、公判の席上で「台湾は独立状態にあり、既に独立して30年あまりが経過している。」と証言したりした。また、服役中の[[1985年]]には、前年10月に発生した[[江南事件]](在米台湾人作家の惨殺事件)に国民党[[特務機関]]が関与していたことに抗議し無期限ハンガーストライキを宣言するとともに、他の美麗島事件関連の政治犯の釈放要求を行っている。1987年7月の[[戒厳令]]解除に伴い施明徳にも[[特赦]]が下るが、無罪を主張して特赦を拒否。[[1990年]][[5月20日]]第8代[[中華民国総統|総統]]に就任した[[李登輝]]による「美麗島事件の判決無効」の宣言を受け出獄、自由を回復した。 [[1990年]]米国議会の招きに応じて渡米、外交委員会公聴会において講演。[[1991年]]には第5代民進党主席選挙に立候補するが、許信良に15票差で落選した。[[1992年]]に「福祉国家の創造、新台湾建設重視」の公約を掲げ第2期立法委員選挙に立候補、[[台南市]]において第1位の高得票で当選する。その後第3期([[1995年]])及び第4期([[1998年]])立法委員をつとめた(第5期([[2001年]])及び第6期([[2004年]])立法委員選挙ではいずれも落選)。 [[1994年]]5月許信良の後を受けて第6代民進党主席に就任。党首時代には米国において台湾独立に対する民進党の立場表明、民進党駐米事務所の開設、統一派である新党への「大和解」呼びかけや党首会談などを行った。またこの時期に、[[金門島|金門]]・[[馬祖島|馬祖]]地区の大陸への返還を唱え、各方面から激しい反発を浴びたりもしている。1996年2月立法院長選挙に出馬し、民進党主導の「二月政治改革」を訴えるが、81票対82票で国民党の[[劉松藩]]立法委員に敗れる。同年3月第1回総統直接選挙における民進党候補([[彭明敏]])落選の責任を取り、民進党主席を辞任(後任は許信良)。 その後も民進党の長老格として活動を続けるが、政権党となった後次第に現実化路線へと軌道修正を図る[[陳水扁]]との路線対立から[[2000年]]に民進党を離脱、[[2002年]]12月に行われた高雄市長選挙において国民党([[連戦]]主席)と[[親民党]]([[宋楚瑜]]主席)に推輓される形で無所属として立候補した。現職の民進党系市長である[[謝長廷]](現:[[行政院長]])との一騎打ちということもあり一時注目を集めたが、野党側が統一候補者絞込みに失敗し、それぞれ別の候補者推薦に流れた結果、最終的には[[泡沫候補]]なみの得票に終わり落選した。[[2003年]]米国[[ジョージ・メイソン大学]]客員教授に就任。第5期立法委員落選以後は国政等の要職には就いていない。 陳水扁の家族や側近による金銭スキャンダルが発覚すると、それに抗議し、「倒扁運動」(陳水扁退陣要求運動)を主導した。[[2006年]][[9月9日]]より台北市の総督府前で無期限の座り込みを開始。辞任要求運動中、肝臓癌の手術を行っていたことが明らかになった。 == 著作 == * 『囚室之春』 聯經出版事業--寶瓶文化出版、2006年 {{節stub}} == 参考文献 == * 若林正丈 著『台湾 変容し躊躇するアイデンティティ』筑摩書房(新書) 2001年 ISBN 4480059180 * 伊藤潔 著『台湾』中央公論社(新書) 1993年 ISBN 4121011449 {| class="wikitable" style="margin:0 auto" |- ! [[民主進歩党]] {{先代次代|党主席(代理)|<small>[[1993年]] - [[1994年]]</small>|[[許信良]]|扶正}} {{先代次代|党主席|<small>[[1994年]] - [[1996年]]</small>|扶正|[[張俊宏]](代理)}} |- |} {{民主進歩党主席}} {{DEFAULTSORT:しめいとく}} [[Category:民主進歩党の政治家]] [[Category:人権活動家]] [[Category:革命家]] [[Category:政治犯]] [[Category:高雄市出身の人物]] [[Category:1941年生]] [[Category:存命人物]]
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