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[[画像:Shinpen Kamakurashi Kita Kamakura.jpg|thumb|250px|right|新編鎌倉志-[[円覚寺]]の図]] 『'''新編鎌倉志'''』(しんぺんかまくらし)は、[[江戸時代]]の[[地誌]]。[[貞享]]2年([[1685年]])に刊行。[[水戸徳川家]]当主で[[水戸藩]]主の[[水戸光圀]]が[[彰考館]]員の河井恒久(友水)らに命じて編纂した[[鎌倉]]の地誌で、[[延宝]]元年([[1673年]])に光圀自身が鎌倉を旅行した際の見聞記を基に作製された。全8巻12冊。 内容は鎌倉及び[[江ノ島]]・[[金沢区|金沢]]の名所旧跡を119の文献史料を元に解説したもので、現在知られる、[[鎌倉七口]]や[[鎌倉十橋]]などはこの『新編鎌倉志』によって選定された「名数」で、後年になって数多くの[[ガイドブック]]に引用された。 光圀が鎌倉を巡遊したのは藩主時代の延宝元年(1673年)で、水戸藩において[[干魃]]などの災害や大火などが多発していたため、この年には5回目の就藩を行い藩内を巡検している。同年4月、[[江戸]]への帰府に際して通常は[[水戸街道]]を経るが、このときは藩領南部から上総国を経て、上総湊からの船旅で鎌倉へ至っている。鎌倉では[[英勝院]]の墓所であった英勝寺を拠点に名所旧跡を訪ね、17日間の旅を経て同年5月には江戸へ帰府している。なお、旅の途中の藩領南部では孝行農民への[[褒賞]]も行っており、藩領の巡検を兼ねていたと考えられている。 江戸への帰府後、光圀は彰考館員で鎌倉へも随行していた吉弘元常や河合友水(恒久)に命じての「甲寅日記」「[[鎌倉日記]]」の見聞録を代筆させ、延宝4年には河合に鎌倉での現地調査と増補を命じ、延宝8年の河合の死後は力石忠一が引継ぎ貞享2年に刊行に至った。 光圀は寛永17年(1640年)や同19年(1642年)、慶安2年(1649年)、寛文3年(1663年)など世子時代の少年期から青年期にかけて父[[徳川頼房|頼房]]に伴われての[[日光東照宮]]参詣などを兼ねて鎌倉や熱海へ立ち寄る経験をしているが、自身の意思で旅を行ったのははじめて。光圀は隠居した[[西山荘]]時代にさかんに藩内を巡遊しており、後年には[[水戸黄門|黄門漫遊譚]]が成立したこともあり諸国漫遊のイメージが定着しているが、実際には延宝元年の鎌倉巡遊が唯一の旅となっている。 刊本は『[[大日本地誌大系]]』や『新編鎌倉志(貞享二刊)影印・解説・索引』(ISBN 4762941646)に収録されている。 == 新編鎌倉志で選定された名数 == * [[鎌倉七口]] * [[鎌倉十橋]] * [[鎌倉十井]] * [[鎌倉五水]] * [[鎌倉谷七郷]] ==参考文献== *鈴木暎一「藩内巡検と鎌倉への旅」『徳川光圀』(吉川弘文館、2006年) {{DEFAULTSORT:しんへんかまくらし}} [[Category:江戸時代の歴史書]] [[Category:江戸時代の地誌]] [[Category:17世紀の書籍]] [[Category:鎌倉市の歴史]] [[Category:徳川光圀]]
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