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新渡戸稲造
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{{Infobox scientist |名前=新渡戸稲造 |画像=Inazo Nitobe.jpg |画像サイズ= |画像説明= |誕生名=新渡戸稲之助 |生年月日={{生年月日と年齢|1862|9|1|no}} |生誕地=[[陸奥国]][[岩手郡]][[盛岡市|盛岡]] |没年月日={{死亡年月日と没年齢|1862|9|1|1933|10|15}} |死没地={{CAN1921}}、[[ビクトリア (ブリティッシュコロンビア州)|ビクトリア]] |居住= |市民権= |国籍={{JPN}} |出身校=[[札幌農学校]]<br>[[東京大学|帝国大学]]退学 |配偶者=[[メアリー・エルキントン]](新渡戸万里子) |両親=父:[[新渡戸十次郎]] |子供=遠益 |学派= |研究分野=[[農学]] |研究機関= |主な業績=『[[武士道]]』の執筆 |影響を受けた人物= |影響を与えた人物= |主な受賞歴= |署名= |補足= }} {{札幌バンド}} '''新渡戸 稲造'''(にとべ いなぞう、[[1862年]][[9月1日]]([[文久]]2年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]) - [[1933年]](昭和8年)[[10月15日]])は、[[日本]]の[[農学者]](農業経済学)・[[教育者]]・思想家。 [[国際連盟]]事務次長も務め、著書 ''Bushido: The Soul of Japan''(『[[武士道]]』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。[[日本銀行券]]の'''D五千円券'''の肖像としても知られる。[[東京女子大学]]初代学長。東京女子経済専門学校(東京文化短期大学・現:[[新渡戸文化短期大学|新渡戸文化短期大学]])初代校長。 == 生涯 == [[陸奥国]][[岩手郡]](現在の[[岩手県]][[盛岡市]])に、藩主[[南部利剛]]の[[用人]]を務めた[[盛岡藩]]士[[新渡戸十次郎]]の三男として生まれる。幼名は稲之助。新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたという。やがて南部藩校作人館(現在の[[盛岡市立仁王小学校]])に入り、その傍ら新渡戸家の掛かり付けの[[医者]]から[[英語]]を習う。祖父は江戸で豪商として材木業で成功し、再び盛岡藩に帰り新渡戸家の家計を大いに助けた。 === 上京 === 作人館を出て間もない頃、[[東京]]で洋服店を営んでいる叔父の[[太田時敏]]から「東京で勉強させてはどうか」という内容の手紙が届き、新しい学問を求めて東京へと旅立つ。この時、名を稲造と改めた。 東京に着くと、稲造は叔父の洋服店を訪ね、養子となって太田稲造と名のるようになった。まず築地の英語学校で英語を学び、翌年には元盛岡藩主[[南部利恭]]が経営する「共慣義塾」という学校に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりにも退屈なために抜け出すことが多かったという。この日頃の不真面目さが原因で、叔父からは次第に信用されなくなっていった。それは、ある日の冬に自分の小遣いで[[手袋]]を買ったにもかかわらず、「店の金を持ち出した」と疑われるほどであったという。それからというもの、稲造は人が変わったように勉強に励むようになった。 13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校(後の[[東京大学]])に入学する。ここで稲造は[[佐藤昌介]]と親交を持つようになり、暇を見つけては互いのことを語るようになる。この頃から稲造は自分の将来について真剣に考えるようになり、やがて[[農学]]の勉強に勤しむことを決意する。 === 札幌農学校へ === [[Image:Kanzo Uchimura Kingo Miyabe Inazo Nitobe.jpg|thumb|right|150px|内村鑑三、宮部金吾と共に札幌農学校時代]] [[札幌農学校]](後の[[北海道大学]])の二期生として入学する。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」の[[名言]]で有名な[[ウィリアム・スミス・クラーク|ウィリアム・クラーク]]博士はすでに[[アメリカ合衆国|米国]]へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。在学中、[[札幌丘珠事件]]が発生し、解剖担当者にあたったという。稲造は祖父<ref>新渡戸伝(つとう、1793-1871)は、陸奥国三本木(青森県十和田市)の開拓者として有名(岡田俊裕『日本地理学人物事典[近世編]』原書房 2011年 107ページ)</ref>達同様、かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の[[食堂]]に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、[[教授]]と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(アクティブ=活動家)という[[あだ名]]を付けられた。 クラークは一期生に対して「[[倫理学]]」の授業として[[聖書]]を講じ、その影響で一期生ほぼ全員が[[キリスト教]]に入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。農学校入学前からキリスト教に興味をもち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名し、後日、同期の[[内村鑑三]](宗教家)、[[宮部金吾]](植物学者)、[[廣井勇]](土木技術者)らとともに、函館に駐在していた[[メソジスト]]系の宣教師[[メリマン・ハリス]]から[[洗礼]]を受けた。[[クリスチャン・ネーム]]は「パウロ」であった。この時にキリスト教に深い感銘を受け、のめり込んで行く。学校で喧嘩が発生した際、「[[イエス・キリスト|キリスト]]は争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽るなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。その頃のあだ名は「モンク([[修道士]])」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。 この頃から稲造は目を悪くし、[[眼鏡]]をかけるようになった。やがて[[眼病]]を患い、それが悪化して勉強への焦りから[[鬱病]]までもを患ってしまう。数日後、病気を知った母から手紙が送られてきて、[[1880年]]7月に盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取っていた。それは稲造にとってあまりにも大きすぎる悲しみであったがため、鬱病がさらに悪化してしまった。その後、母の死を知った内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ出る。その後、洗礼を授けたハリスと横浜にて再会し、『サーター・リサータス』(''[[w:Sartor Resartus|Sartor Resartus]]'')という一冊の本を譲り受ける。この本は稲造の鬱病を完全に克服し、やがては稲造の愛読書となったという。 === 学者の道へ === [[File:Jun'ichirō Tanizaki & Inazō Nitobe 1908.jpg|thumb|150px|right|[[谷崎潤一郎]]と新渡戸稲造]] 農学校卒業後、級友達とともに道庁に奉職し、畑の作物を食い散らすイナゴの大群を退治するためにあちらこちらの農村を駆け巡るが、学問を志して帝国大学(のち、東京帝国大学、東京大学)に進学。しかし当時の農学校に比べ、東大の研究レベルの低さに失望して退学する。[[1884年]](明治17年)、「太平洋の架け橋」になりたいと[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に私費留学し、[[ジョンズ・ホプキンス大学]]に入学。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、[[クエーカー]]派の集会に通い始め正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となる[[メアリー・エルキントン]](日本名・新渡戸万里子)と出会う。 その後[[札幌農学校]][[准教授|助教授]]に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費で[[ドイツ帝国|ドイツ]]へ留学。[[ボン大学]]などで聴講した後、ハレ大学(現[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク]])より農業経済学の[[博士]]号を得る。この間、『[[女学雑誌]]』にドイツから女性の摂取すべき栄養や家政学についての寄稿を行っている([[巌本善治]]は文中で新渡戸を「社友」と評している他、帰国後に新渡戸は巌本が主催する[[明治女学校]]で講演を行っており、その内容も『女学雑誌』に収められている)。帰途、アメリカでメアリーと結婚して、[[1891年]](明治24年)に帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より[[名誉学士]]号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、農学校を休職して[[カリフォルニア州]]で転地療養した。 この間に名著『[[武士道]]』を[[英文]]で書きあげた。[[日露戦争]]の勝利などで日本および[[日本人]]に対する関心が高まっていた時期であり、[[1900年]](明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがて[[ドイツ語]]、[[フランス語]]など各国語に訳され[[ベストセラー]]となり、[[セオドア・ルーズベルト]]大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。新渡戸の『武士道』は読み継がれ、21世紀に入っても解題書が出版され続けている<ref>「[[武士道]]」解題―[[ノブレス・オブリージュ|ノーブレス・オブリージュ]]とは』 [[李登輝]] 小学館、2003年</ref>。 [[台湾総督府]]の民政長官となった同郷の[[後藤新平]]より[[1899年]](明治32年)から2年越しの招聘を受け、[[1901年]](明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命された。赴任を請われた時、1日1時間の昼寝を赴任条件とした<ref>{{Cite book|和書|author=鈴木満|authorlin=鈴木満|date=2012-1-30|title=異国でこころを病んだとき|publisher=弘文堂|page=211|isbn=978-4-335-65152-6|url=http://www.koubundou.co.jp/books/pages/65152.html}}</ref>。民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、[[児玉源太郎]][[総督]]に「[[糖業改良意見書]]」を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した<ref>{{Cite book|和書|author=松隈俊子|authorlink=松隈俊子|origyear=1969|date=2010-12-20|title=新渡戸稲造|publisher=みすず書房|page=204|isbn=978-4-622-06226-4|url=http://www.msz.co.jp/book/detail/06226.html}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=越澤明|authorlink=越澤明|date=2011-11-07|title=後藤新平――大震災と帝都復興|series=ちくま新書|publisher=筑摩書房|pages=102-107|isbn=978-4-480-06639-8|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480066398/}}</ref>。 その後、[[1903年]](明治36年)には[[京都大学|京都帝国大学]]法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。[[1906年]](明治39年)、[[京都大学|京都帝国大学]]より植民政策の論文で法学博士の学位もうけた。同年、[[牧野伸顕]]文相の意向で、日露戦争後の日本のリーダー育成にふさわしい人物として、新渡戸は[[東京大学|東京帝国大学]]法科大学教授との兼任で、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]校長となった(1906-1913年)。1911~1912年、日米交換教授の制度創設により、アメリカで日本理解の講義を行うため、渡米。帰国後、健康を害したこともあって、1913年に一高校長を辞職。[[保善高等学校|東京植民貿易語学校]]校長、[[拓殖大学]]学監、[[東京女子大学]]学長などを歴任。その他、[[津田梅子]]の[[津田塾]]に対しても顧問を務めており、津田亡き後の学園の方針を決定する集会は新渡戸宅で開かれた。 ===「郷土会」の発足=== [[1909年]](明治42年)、新渡戸の音頭取りで、「郷土会」が発足した。自主的に自由な立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを狙いとした。メンバーには、新渡戸のほかに、[[柳田國男]]、理学博士・草野俊介、法学博士[[尾佐竹猛]]、農学博士[[小野武夫]]、[[石黒忠篤]]、[[牧口常三郎]]、[[中山太郎]]、[[前田多聞]]などいた。 === 国際連盟事務次長 === [[1920年]](大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長のひとりに選ばれた<ref>組織の上で事務総長に次ぐ地位にあったのは Deputy Secretaries-general(総長代理)とUnder-Secretaries-General(事務次官)で、それぞれ複数任命されていた</ref>。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職し、後任に[[矢内原忠雄]]が選ばれる。新渡戸らは国際連盟の規約に[[人種的差別撤廃提案]]をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカの[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]]大統領の意向により否決されている。<!--余談だが、当の米国は、[[モンロー主義]]により国際連盟には不参加となった。-->事務次長として[[バルト海]]の[[オーランド諸島]]帰属問題などに尽力した。 [[エスペラント|エスペランティスト]]としても知られ、[[1921年]](大正10年)には国際連盟の総会で[[エスペラント]]を[[作業語]]にする決議案に賛同した。しかし、[[フランス第三共和政|フランス]]の反対にあい、結局実現しなかった。同年、[[オーランド諸島]]紛争を食い止めるという外交的成果も成し遂げている。[[1926年]](大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。 === 晩年 === [[1928年]](昭和3年)、札幌農学校の愛弟子であった[[森本厚吉]]が創立した東京女子経済専門学校(のち[[新渡戸文化短期大学]])の初代校長に就任。[[1929年]](昭和4年)、学監を務めた拓殖大学から名誉教授号を受ける。 [[Image:50th Anniversary of Baptism by Harris.jpg|thumb|right|150px|札幌農学校時代の仲間と共にメリマン・ハリスの参り。1928年]] [[1932年]](昭和7年)、[[軍国主義]]思想が高まる中「わが国を滅ぼすものは[[日本共産党|共産党]]と[[軍閥]]である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」との発言が新聞紙上に取り上げられ、軍部や[[右翼]]、特に[[在郷軍人会]]や軍部に迎合していた新聞等マスメディアから激しい非難を買い、多くの友人や弟子たちも去る。同年、[[反日]]感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが、[[満州国|満洲国]]建国と時期が重なったこともあって「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解されず、失意の日々だった。 翌[[1933年]](昭和8年)、日本が国際連盟脱退を表明。その年の秋、カナダの[[バンフ]]で開かれた[[太平洋問題調査会]]会議に、日本代表団団長として出席するため渡加。会議終了後、当時国際港のあった西岸[[ビクトリア (ブリティッシュコロンビア州)|ビクトリア]]で倒れ、永眠する。 == 人物 == [[File:InazoMaryNitobe1890.jpg|thumb|150px|right|新渡戸稲造と妻メアリー]] 敬虔な[[キリスト教徒]]([[クエーカー]])として知られ、一高の教職にある時、自分の学生達に[[札幌農学校]]の同期生[[内村鑑三]]の聖書研究会を紹介したエピソードもある。その時のメンバーから[[矢内原忠雄]]、[[高木八尺]]、[[南原繁]]、[[宇佐美毅 (宮内庁長官)|宇佐美毅]]、[[前田多門]]、[[藤井武]]、[[塚本虎二]]、[[河井道]]などの著名な教育者、政治家、[[聖書学者]]らを輩出した。 非常に交流の幅が広い人物であり、著作のひとつである『偉人群像』には、[[伊藤博文]]や[[桂太郎]]、[[乃木希典]]らなどとのエピソードも書かれている。 == 家族== [[File:Mary Elkinton (Nitobe's wife).jpg|thumb|150px|right|妻メアリー・エルキントン]] [[1891年]](明治24年)にアメリカ人女性'''メアリー・エルキントン'''(Mary P. Elkinton 日本名:万里子)と[[フィラデルフィア]]で結婚している。二人の間には'''遠益'''(とおます)という長男が生まれたが生後8日で夭折している。養子に孝夫(よしお)がいる。 祖父の[[新渡戸傳]]は、[[幕末]]期に荒れ地だった南部[[盛岡藩]]の北部・三本木原([[青森県]][[十和田市]]付近)で灌漑用水路・[[稲生川]]の掘削事業を成功させ、稲造の父・十次郎はそれを補佐し都市計画や産業開発も行った。この三本木原の総合開発事業は新渡戸家三代(稲造の祖父・傳、父・十次郎、長兄・七郎)に亘って行われ、十和田市発展の礎となっている。このように新渡戸家は稲造だけでなく傳を始めとした英才を輩出していたが、必ずしも恵まれた境遇ではなかった。稲造の曾祖父で[[兵法]]学者だった[[新渡戸維民]](これたみ)は藩の方針に反対して僻地へ流され、祖父・傳も藩の重役への諌言癖から昇進が遅く、御用人にまでのぼりつめた父・十次郎もまた藩の財政立て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり、その失意のあまり病没している。 また、従弟に[[昆虫学]]者の[[新渡戸稲雄]]がいるが、31歳で早世している<ref>長谷川 仁(1967)「明治以降物故昆虫学関係者経歴資料集 : 日本の昆虫学を育てた人々」昆蟲 35(3号補遺), 1-"98-4"</ref>。 == 後世 == 生誕の地である盛岡市と、客死したビクトリア市は、新渡戸が縁となって現在[[姉妹都市]]となっている<ref>盛岡市ホームページ「ウェッブもりおか」のうち「[http://www.city.morioka.iwate.jp/m-guide/ja/bridge.html 盛岡市ガイド: 太平洋の架け橋に: カナダ・ビクトリア市と姉妹都市]」。</ref>。 [[1984年]](昭和59年)11月1日に発行された[[五千円紙幣#D号券|五千円紙幣D号券]]の肖像に採用された。 == 年譜 == * [[1862年]]([[文久]]2年) [[盛岡藩]](のち[[岩手県]][[盛岡市]])の、当時奥御勘定奉行であった新渡戸十次郎の三男として生まれる。幼名稲之助。 * [[1871年]]([[明治]]4年) 兄道郎とともに上京。叔父太田時敏の養子となる。 * [[1873年]](明治6年) [[東京外国語学校 (旧制) |東京外国語学校]]英語科(のちの東京英語学校、[[第一高等学校 (旧制)|大学予備門]])に入学。 * [[1877年]](明治10年) [[札幌農学校]]に第二期生として入学。卒業後、[[東京大学]]選科入学。同時に[[成立学舎]]にも通う。 * [[1882年]](明治15年) [[農商務省 (日本)|農商務省]]御用掛となる。11月、札幌農学校予科教授。 * [[1884年]](明治17年) 渡米して米[[ジョンズ・ホプキンス大学]]に入学。 * [[1886年]](明治19年) クェーカー派、モリス茶会でメリーと出逢う。 * [[1887年]](明治20年) 独[[ボン大学]]で農政、農業経済学を研究。 * [[1889年]](明治22年) ジョンズ・ホプキンス大学より名誉文学士号授与。長兄七郎没、新渡戸姓に復帰。 * [[1891年]](明治24年) 米国人メリー・エルキントン(1857-1938、日本名:萬里)と結婚。帰国し、札幌農学校教授となる。 * [[1894年]](明治27年) 札幌に[[遠友夜学校]]を設立。 * [[1897年]](明治30年) 札幌農学校を退官し、群馬県で静養中『農業本論』を出版。 * [[1900年]](明治33年) 英文『[[武士道]]』(''BUSHIDO: The Soul of Japan'')初版出版。ヨーロッパ視察。[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万国博覧会]]の審査員を務める。 * [[1901年]](明治34年) [[台湾総督府]][[台湾総督府民政部|民政部]][[台湾総督府殖産局|殖産局長心得]]就任。 * [[1903年]](明治36年) [[京都大学|京都帝国大学]]法科大学教授を兼ねる。 * [[1906年]](明治39年) [[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]長に就任。[[東京大学|東京帝国大学]]農科大学教授兼任。 * [[1909年]](明治42年) [[実業之日本社|実業之日本]]編集顧問となる。 * [[1916年]](大正5年) [[保善高等学校|東京植民貿易語学校]]校長に就任。 * [[1917年]](大正6年) [[拓殖大学]]学監に就任 * [[1918年]](大正7年) [[東京女子大学]]初代学長に就任。 * [[1920年]](大正9年) [[国際連盟]]事務次長に就任。 * [[1921年]](大正10年) [[チェコ]]の[[プラハ]]で開催された[[世界エスペラント大会]]に参加。 * [[1925年]](大正14年) [[帝国学士院]]会員に任命される。 * [[1926年]](大正15年) 国際連盟事務次長を退任。[[貴族院 (日本)|貴族院]][[議員]]に。 * [[1928年]](昭和3年) 東京女子経済専門学校(のち[[新渡戸文化短期大学]])の初代校長に就任。 * [[1929年]](昭和4年) 太平洋調査会理事長に就任。[[拓殖大学]]名誉教授に就任。 * [[1931年]](昭和6年) 第4回太平洋会議に出席(上海)。 * [[1933年]](昭和8年) [[カナダ]]・[[バンフ]]にて開催の 第5回太平洋会議に出席。[[ビクトリア (ブリティッシュコロンビア州)|ビクトリア市]]にて客死。 == ゆかりの地 == *新渡戸稲造没後50年を記念して、盛岡市下ノ橋町の生誕の地に、「新渡戸稲造生誕の地」の銅像が建立された。作者は[[朝倉文夫]]。 *[[鎌倉]][[稲村ケ崎]]にあった別荘跡地は、[[聖路加看護大学]]鎌倉セミナーハウス「アリスの家」になっている<ref>[http://www.slcn.ac.jp/campuslife/welfare.html 聖路加看護大学施設ガイド]</ref>。 == 代表的な著書 == *{{Cite book|和書|date=1898年(明治31年)9月|title=農業本論|publisher=[[裳華房]]|url={{近代デジタルライブラリーURL|40060854}}|ref=新渡戸1898}} *{{Cite book|author=Inazo Nitobe|year=1900|title=Bushido: the soul of Japan, an exposition of Japanese thought|publisher=The Leeds and Biddle Company|location=Philadelphia|ref=Nitobe1900}} **{{Cite book|和書|others=[[櫻井鴎村]]訳|date=1908年(明治41年)3月|title=武士道|publisher=丁未出版社|url={{近代デジタルライブラリーURL|40004040}}|ref=新渡戸1908}} **{{Cite book|和書|others=[[矢内原忠雄]]訳|origdate=1938年(昭和13年)10月|date=2007年(平成19年)4月|title=武士道|series=[[岩波文庫]] 青118-1|edition=第91刷改版|publisher=岩波書店|isbn=4-00-331181-7|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/7/3311810.html|ref=新渡戸2007}} **{{Cite book|和書|others=[[矢内原忠雄]]訳|date=1991年(平成3年)6月|title=武士道|series=[[ワイド版岩波文庫]] 35|publisher=岩波書店|isbn=4-00-007035-5|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/5/0070350.html|ref=新渡戸1991}} **{{Cite book|和書|others=[[奈良本辰也]]訳・解説|date=1993年(平成5年)2月|title=武士道 現代語で読む最高の名著|series=[[知的生きかた文庫]]|publisher=[[三笠書房]]|isbn=4-8379-0563-3|url=http://www.mikasashobo.co.jp/book/ISBN4-8379-0563-3/?select=title&search=%C9%F0%BB%CE%C6%BB|ref=新渡戸1993}} *{{Cite book|和書|date=1907年(明治40年)8月|title=随想録|publisher=丁未出版社|url={{近代デジタルライブラリーURL|41017389}}|ref=新渡戸1907}} **{{Cite book|和書|date=2002年(平成14年)11月|title=随想録|series=タチバナ教養文庫|publisher=[[たちばな出版]]|isbn=4-8133-1443-0|url=http://www.tachibana-inc.co.jp/detail.jsp?goods_id=334|ref=新渡戸2002c}} *{{Cite book|和書|date=1911年(明治44年)9月|title=修養|publisher=実業之日本社|url={{近代デジタルライブラリーURL|40002278}}|ref=新渡戸1911}} **{{Cite book|和書|date=2002年(平成14年)7月|title=修養|series=タチバナ教養文庫|publisher=[[たちばな出版]]|isbn=4-8133-1444-9|url=http://www.tachibana-inc.co.jp/detail.jsp?goods_id=335|ref=新渡戸2002b}} *{{Cite book|和書|editor=[[國井通太郎]] 編|date=1915年(大正4年)2月|title=人生雑感|publisher=警醒社書店|url={{近代デジタルライブラリーURL|43045506}}|ref=新渡戸1915}} **{{Cite book|和書|editor=[[国井通太郎]] 編|date=1983年(昭和58年)8月|title=人生雑感|series=講談社学術文庫 611|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-158611-4|ref=新渡戸1983}} *{{Cite book|和書|editor=[[井上哲次郎]]、[[服部宇之吉]]などとの共編|date=1917年(大正6年)|title=ABCびき日本辞典|publisher=[[三省堂]]|ref=新渡戸1917}} *{{Cite book|和書|date=1928年(昭和3年)10月|title=東西相触れて|publisher=実業之日本社|url={{近代デジタルライブラリーURL|47011088}}|ref=新渡戸1928}} **{{Cite book|和書|date=2002年(平成14年)4月|title=東西相触れて|series=タチバナ教養文庫|publisher=[[たちばな出版]]|isbn=4-8133-1442-2|url=http://www.tachibana-inc.co.jp/detail.jsp?goods_id=333|ref=新渡戸2002a}} ※ その他、様々な出版社から発行されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=草原克豪|authorlink=草原克豪|year=2012|month=7|title=新渡戸稲造1862-1933 我、太平洋の橋とならん|publisher=[[藤原書店]]|isbn=978-4-89434-867-7|url=http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=1269|ref=草原2012}} - 生誕150年記念出版。 == 関連項目 == {{commons|Category:Inazō Nitobe}} * [[岩手県出身の人物一覧]] * [[京都大学の人物一覧]] * [[第一高等学校 (旧制)の人物一覧]] * [[拓殖大学の人物一覧]] * [[千葉氏]] * [[新渡戸稲造及び内村鑑三の門下生]] * [[新渡戸記念庭園]] * [[北海道大学の人物一覧]] * [[人格主義]] * [[教養主義]] * [[札幌丘珠事件]] * [[野球害毒論]] - 新渡戸は野球を「[[スリ|巾着切り]]の遊戯」と非難していた。 == 外部リンク == * [http://www.takushoku-u.ac.jp/ 拓殖大学] * [http://www.mfca.jp/institution/senjin/ 盛岡市先人記念館] * [http://www.towada.or.jp/nitobe/ 十和田市立新渡戸記念館] * [http://www.city.hanamaki.iwate.jp/sightseeing/nitobe/ 花巻新渡戸記念館] * [http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/rel/07.html 奥州市立後藤新平記念館 新渡戸稲造] * [http://www.nitobe.com/ 新渡戸稲造の世界] * {{青空文庫著作者|718|新渡戸 稲造}} * [http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?detailSearchTypeNo=K&creator=%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0&rows=100 著者=“新渡戸稲造”で検索] - ([[近代デジタルライブラリー]]) * [http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/311.html?c=10 新渡戸稲造] | [http://www.ndl.go.jp/portrait/index.html 近代日本人の肖像]([[国立国会図書館]]) * [http://www.gutenberg.org/browse/authors/n#a4225 Nitobe, Inazo, 1862-1933]([[プロジェクト・グーテンベルク]]) * [http://ocw.hokudai.ac.jp/Heritage/Agriculture/ 「農学」(1877-1878)講義ノート] * [http://www.nakanosogo.or.jp/ 中野総合病院](東京医療生活協同組合の創立者で初代理事長) {{先代次代|[[拓殖大学]]学監|第2代: 1917年 - 1922年|[[松崎蔵之助]]|[[松岡均平]]}} {{DEFAULTSORT:にとへ いなそう}} [[Category:日本の農学者]] [[Category:植民政策学者]] [[Category:札幌バンド]] [[Category:日本の文明評論家]] [[Category:帝国学士院会員]] [[Category:日本のプロテスタントの信者]] [[Category:日本のクエーカー]] [[Category:日本のエスペランティスト]] [[Category:辞典編纂者]] [[Category:戦前日本の外交官]] [[Category:国際連盟]] [[Category:貴族院勅選議員]] 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