コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
斯波高経のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
斯波高経
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 斯波高経 | 画像 = 斯波高経.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 『本朝百将伝』より | 時代 = [[鎌倉時代]]末期 - [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]] | 生誕 = [[嘉元]]3年([[1305年]]) | 死没 = [[正平 (日本)|正平]]22年/[[貞治]]6年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]([[1367年]][[8月9日]]) | 改名 = 千鶴丸(幼名)→高経→道朝(法名) | 別名 = 孫三郎、尾張守、七条殿、三条高倉殿、<br/>修理大夫入道(通称) | 戒名 = 東光寺(後に霊源院)殿道朝日峯 | 墓所 = | 官位 = [[尾張国|尾張守]]、[[従五位]]下[[馬寮|右馬頭]]、<br/>[[従四位]]下[[修理職|修理大夫]] | 幕府 = [[鎌倉幕府]]→[[室町幕府]][[越前国|越前]]・[[若狭国|若狭]]・[[越中国|越中]][[守護]] | 主君 = | 氏族 = [[斯波氏]](尾張足利氏) | 父母 = 父:[[斯波宗氏]]、母:[[長井時秀|大江時秀]]の娘 | 兄弟 = '''高経'''、[[斯波家兼|家兼]] | 妻 = | 子 = [[斯波家長|家長]]、[[斯波氏経|氏経]]、[[斯波氏頼|氏頼]]、'''[[斯波義将|義将]]'''、[[斯波義種|義種]] | 特記事項 = }} '''斯波 高経'''(しば たかつね)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]、[[守護大名]]。[[越前国|越前]]・[[若狭国|若狭]]・[[越中国|越中]]守護。[[足利氏]]の有力[[一門]]・[[斯波氏]](尾張足利氏)4代当主。 [[元弘]]3年([[1333年]])の[[足利尊氏]]の挙兵に従って[[鎌倉幕府]]に反旗を翻し、[[建武の新政|建武政権]]において越前守護職を得たが、後に尊氏が建武政権に反するとこれにも従って[[北朝 (日本)|北朝]]軍の有力武将となる。北朝では[[北陸地方|北陸]]方面の司令官として活躍し、[[南朝 (日本)|南朝]]軍の有力な司令官であった[[新田義貞]]を討つ功績を上げた。やがて[[観応の擾乱]]が起こると[[足利直義]]陣営に属して尊氏と戦うが、この間に尊氏、直義両陣営の間で離反と帰参を繰り返した。尊氏の死後、一時[[室町幕府]]の最高権力を得たものの、まもなく[[佐々木道誉]]らの策謀により失脚。洛中を落ちて越前[[杣山城]]にて失意の中病死した。 == 家系 == 斯波氏は足利宗家4代当主の[[足利泰氏|泰氏]]の長男・[[足利家氏|家氏]]から始まる名門で、成立当初より「足利」の名字を公称し、家氏以降の代々の当主が尾張守を称したため'''足利尾張家'''と号するなど、他の足利一門とは一線を画す高い家格を有した。このため「足利家の分家、庶流」というよりは「足利家の別家、別流」の扱いであり、高経も'''足利尾張守高経'''と表記されることもある。また足利本家から独立した御家人であったため、高経の「高」字は尊氏の初名である「高氏」とおなじく北条得宗家の[[北条高時]]の偏諱とみられる(高経と尊氏は同年生まれ)。[[室町幕府]]が成立すると4男[[斯波義将|義将]]が[[管領]]となり、高経はその後見をつとめた。本格的に「斯波氏」を称するのは義将以降のことである。以後、[[室町時代]]を通して三管領の筆頭となった(詳細は[[斯波氏]]を参照)。 == 生涯 == === 鎌倉御家人から建武政権へ === 嘉元3年(1305年)に足利(斯波)宗氏の嫡男として誕生する。高経がいつ頃家督を継いでいたかは不明であるが、父・宗氏が諸系図で「早世」とあることや、[[元亨]]3年([[1323年]])12月の[[北条貞時]]十三回忌供養に足利宗家の[[足利貞氏|貞氏]]、足利三河家の[[吉良貞義|貞義]]らと共に出席していることから、既にこの頃には足利尾張家の当主となっていた可能性がある。 [[元弘]]3年([[1333年]])に[[後醍醐天皇]]の綸旨に応じた[[足利尊氏|足利高氏]](尊氏)に従って倒幕の兵を挙げ、[[六波羅探題]]攻めに参加する。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による[[建武の新政]]が行われると、越前守護職に補任された。[[建武 (日本)|建武]]元年([[1334年]])、[[紀伊国|紀伊]]飯盛山の佐々目氏の反乱の際には、戦果の芳しくない[[楠木正成]]に代わりこれを鎮定した。 === 新田一族との戦い === やがて尊氏が建武政権から離反するとこれに従って以後武家方の有力武将として各地を転戦する。[[延元]]元年/建武3年([[1336年]])の[[新田義貞]]、楠木正成との間で行われた[[湊川の戦い]]にも山手軍の大将として参陣。楠木勢の退路を塞ぐなど勝利に貢献する。合戦後、尊氏が京都に武家政権を成立させ、後醍醐天皇が吉野に[[南朝 (日本)|南朝]]を成立させて南北朝時代となると、[[北朝 (日本)|北朝]]の[[越前国|越前]]守護として主に北陸方面で南朝方と攻防を繰り広げた。 湊川の戦い後、新田義貞が[[尊良親王]]、[[恒良親王]]の両親王を奉じて越前へ入国すると越前での戦況は激化。延元2年/建武4年([[1337年]])に、越前で[[高師泰]]と共に南朝方の[[金ケ崎城]]([[福井県]][[敦賀市]])を攻め、両親王を擁した義貞、[[新田義顕|義顕]]親子を破る。事実上の総大将であった義貞こそ取り逃がしたものの、尊良親王と義顕を自害させ、恒良親王を捕らえるなどの軍功をあげる。その後義貞の巻き返しによって府中や金ヶ崎城を奪われたが、高経は平泉寺の宗徒を自陣営に抱き込んで義貞の攻勢を防いだ。 そして延元3年/建武5年([[1338年]])閏7月、越前藤島の灯明寺畷においてついに義貞自身を討ち取る大功をあげた([[藤島の戦い]])。延元4年/[[暦応]]2年([[1339年]])からは義貞の弟[[脇屋義助]]が宮方の大将として立ち塞がり、一時は越前から加賀へ落ちるなど苦戦を味わったが、[[興国]]元年/[[暦応]]3年([[1340年]])に反攻をしかけ義助を美濃へ追い、興国2年/暦応4年([[1341年]])残る宮方勢力を討ち破り越前を平定した。 この間、嫡男の[[斯波家長|家長]]は[[陸奥国|奥州]]の[[北畠顕家]]への抑えと鎌倉に残った尊氏の嫡男[[足利義詮|義詮]]の補佐のため[[奥州総大将]]と[[関東管領|関東執事]]に任命されたが、顕家の進撃を止められず延元2年/建武4年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]](1338年1月16日)に戦死している(家長の子孫は高水寺斯波氏として[[紫波郡]]に土着)。また弟の[[斯波家兼|家兼]]は奥州の統治を任され、正平9年/[[文和]]3年([[1354年]])に[[奥州管領]]に就任。子孫は奥羽一帯に土着して[[大崎氏]]([[奥州探題]])・[[最上氏]]([[羽州探題]])となった。 === 離反と帰参 === 足利幕府の内紛から発展した[[観応の擾乱]]が勃発すると、はじめ[[足利直義]]方に与してその有力武将となるものの、直義失脚後に尊氏方に帰順。やがて直義が南朝に降伏し尊氏方に対して挙兵すると、これに呼応して直義方に復帰したが、直義の死後に再度尊氏方に帰順した。この間に[[観応の擾乱#正平一統|正平一統]]における南朝方の[[京都]]制圧においては義詮を助けて京都奪還に功をあげる。しかし正平10年/文和4年([[1355年]])、尊氏の庶子で直義の養子である[[足利直冬|直冬]]に呼応して三度幕府に反旗を翻し、今度は自身が京都を制圧するに至った。その翌年の正平12年/延文元年([[1356年]])、軍勢の衰えた直冬方から離反してまたも幕府へ帰参するなど、叛服常なき行動を繰り返した。 === 高経政権 === 正平13年/延文3年([[1358年]])、尊氏が死去すると剃髪し道朝と称して2代将軍となった義詮の補佐を行う。正平16年/[[康安]]元年([[1361年]])に、それまで執事(後の[[管領]])であった[[細川清氏]]が失脚して南朝へ降ると、一門の長老であった高経の影響力が強まり幕府の実権を掌握した。高経は正平17年/康安2年([[1362年]])に4男の[[斯波義将|義将]]を執事(管領)職に就かせ、実権は自身が握って幕政を主導した(なお、当時の執事と管領は別の役職で高経が管領として執事である義将を補佐したとする異説もある)。また5男の[[斯波義種|義種]]を[[小侍所]]の頭人(後に[[侍所]]頭人)、孫の[[斯波義高|義高]]を[[引付衆]]に据えるなど幕府中枢を斯波一族で占めた。高経政権下では防長の大名である[[大内弘世]]や山陰に強大な勢力を築いていた[[山名時氏]]を幕府へ帰順させることに成功するなど、幕府政治は安定化に向かっていった。また高経は将軍の威信を高める為に将軍邸の造営費を諸侯に負担させたり、諸侯に賦課する武家役(税金)を従来の50分の1から20分の1に引き上げて幕府経済の充実化を図るなど、幕府権威の向上に腐心した。 === 失脚、最期 === このように将軍・幕府権威の向上に腐心した高経であったが、その強権的な政治は諸大名や寺社勢力からの反発を招くに至る。特に高経の3男[[斯波氏頼|氏頼]]の舅であった[[佐々木道誉]](京極高氏)は、かつて自身の推す氏頼を退けて義将を管領とした高経を憎んでいたため、両者は激しく対立する。正平21年/貞治5年([[1366年]])8月、突如として将軍義詮より領国へ戻るように命じられ失脚した([[貞治の変]])。後任の管領には道誉が推す[[細川頼之]]が就任したため義将の幕政復帰後も斯波氏と細川氏の対立構図は残り、3代将軍[[足利義満]]時代の[[康暦の政変]]へとつながっていく。 都落ちした高経は幕府の討伐軍に屈す事無く戦い続けたが、貞治6年/正平22年(1367年)に[[杣山城]]([[福井県]][[南越前町]])で死去。[[享年]]63。法名は東光寺(後に霊源院)殿道朝日峯。 なお高経の死後、義将はまもなく赦免され幕府に復帰している。 == 人物・逸話 == *足利一門中最高の家格を持ち、将軍家と同格と自負する斯波家の当主として非常に誇り高かったとみえ、[[細川清氏]]の後任として幕府の執事(後の[[管領]])職に推された際に、「執事は家人の[[高氏]]や外戚の[[上杉氏]]などがなるべきであって当家には相応しくない」と難色を示したという。しかし、結局は自身の子である義将を執事職に就ける形でこれを受け入れ幕府の実権を握った。 *『[[太平記]]』において新田義貞を藤島にて討ち取った際、[[髭切|鬼切]]と[[鬼丸]]の二振りの名刀を手に入れたとされる。後日、尊氏が「それは源氏重代の家宝だから」と引渡しを求めたが、高経は「焼けてしまった」と言って焼けた太刀を渡した。尊氏は真相を知ると非常に機嫌を損ねたという。後年、高経が失脚すると鬼丸は足利将軍家の手に渡り、鬼切は斯波一族の[[最上氏]]に伝来した。 *高経が政権を掌握していた時期、佐々木道誉に任せた五条橋の架橋工事が遅々として進まないのを見かね、高経が全て終わらせた。道誉は面目を潰されたと思い、後日将軍邸で行われた高経主催の花見が行われる際、初め出席するとの返事をしたが、当日になってこれを違え、自邸で盛大な花見を催した。それは将軍邸での花見が霞むほどで、今度は高経が面目を潰された格好になった。 *讒言を受けて窮地に陥った高経が義詮に向かって「この道朝(高経)を除くのであれば、刺客を一人我が邸宅に送り込めば済む事ではないですか。何故わざわざ軍勢を以って討とうとなされるのか」と切実に訴えたが、義詮の返事は「今の世の中は余の思いのままにならぬのだ。ここは穏便に越前へ帰国してはくれまいか」と頼りないものであった。これに憤慨した高経は越前下向を決意し、黙して都を落ちるのを潔しとせず、自邸に火を放ち将軍邸を襲う振りをして堂々と帰国したという。 これらの真偽の程はともかく、高経が足利一門の名家として非常に誇りが高く、尊氏、道誉と決して仲が良くはなかった事を伝える逸話である。 == 官歴 == ※日付=旧暦 *[[1333年]]([[元弘]]3年)、尾張守。 *[[1334年]]([[建武 (日本)|建武]]元年)、越前守護に任ぜられる。 *[[1337年]](建武4年/[[延元]]2年)1月29日、従五位下に叙し、右馬頭に任官。 *[[1340年]]([[暦応]]3年/[[興国]]元年)、若狭守護を兼ねる。 *[[1342年]](暦応5年/興国3年)1月15日、従四位下に昇叙し、修理大夫に転任。 *[[1361年]]([[康安]]元年/[[正平 (日本)|正平]]16年)、越中守護を兼ねる。 *[[1362年]]([[貞治]]元年/正平17年)、出家し道朝と号す。 == 子息 == *長男:[[斯波家長|家長]]:[[陸奥守]]。[[関東管領|関東執事]]、[[奥州総大将]]。高水寺斯波家の祖。 *次男:[[斯波氏経|氏経]]:[[京職|左京大夫]]。[[越前国|越前]][[守護]]、[[九州探題]]。[[末野氏]]の祖。 *3男:[[斯波氏頼|氏頼]]:[[衛門府|左衛門佐]]。[[若狭国|若狭]][[守護]]。 *4男:[[斯波義将|義将]]:[[衛門府|右衛門督]]。[[管領]]、[[越前国|越前]]・[[信濃国|信濃]][[守護]]。斯波氏第5代当主。 *5男:[[斯波義種|義種]]:[[修理職|修理大夫]]。[[侍所]]頭人、[[加賀国|加賀]][[守護]]。大野斯波家の祖。 == 関連項目 == *[[貞治の変]] *[[大塩八幡宮]] *[[長沢西城]] *[[杣山城]] == 参考文献 == *[[福井県]]『福井県史・中世』通史編2 (福井県、1994) *[[小川信]]『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館、1980年) *[[森茂暁]]『佐々木導誉』(吉川弘文館、1994年) *[[今谷明]]・[[藤枝文忠]]編『室町幕府守護職家事典〔下〕』(新人物往来社、1988年) *[[松原信之]]『越前 朝倉一族』(新人物往来社、1996年) *[[七宮涬三]]『陸奥・出羽斯波・最上一族』(新人物往来社、2005年) *『歴史と旅 増刊「守護大名と戦国大名」』(秋田書店、1997年) {{斯波氏歴代当主||第4代|1323年以前 - 1367年}} {{DEFAULTSORT:しは たかつね}} [[Category:斯波氏|たかつね]] [[Category:鎌倉時代の武士]] [[Category:守護大名]] [[Category:1305年生]] [[Category:1367年没]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:基礎情報 武士
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:斯波氏歴代当主
(
ソースを閲覧
)
斯波高経
に戻る。
検索
検索
斯波高経のソースを表示
話題を追加