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'''斎藤 一諾斎'''(さいとう いちだくさい、[[文化 (元号)|文化]]10年([[1813年]]) - [[明治]]7年([[1874年]])12月18日)は、[[幕末]]期の[[僧]]、[[新選組]]隊士。名は'''秀全'''。号を一諾斎。 == 生涯 == [[武蔵国]][[江戸]]出身。[[幕臣]]の家に生まれる。文化15年([[1818年]])6歳の頃、[[浅草]]今戸の[[潮江院]]にて出家。駒込[[吉祥寺 (文京区)|吉祥寺]]の僧となり、潮江院・慶養寺(今戸)・東地院([[甲斐国]]山梨郡)・全福寺(同国都留郡強瀬村)の住職を歴任した。 [[慶応]]4年([[1868年]])3月に[[甲陽鎮撫隊]](新選組)が甲州へ訪れると、56歳にして入隊。入隊を勧めた隊士に快く応じたといわれる(慶応3年の[[土方歳三]]による隊士募集で既に入隊していたという説もある)。[[甲州勝沼の戦い]]に敗れた後は、土方と共に[[宇都宮市|宇都宮]]・[[会津藩|会津]]への転戦。[[蝦夷地]]には渡らずに[[仙台]]で新政府軍に降伏した。戦場を脱する際、土方より餞別30両を渡され、その気遣いにいたく感動したという。 釈放後、[[多摩郡]]中野村(現、[[八王子市]][[東中野 (八王子市)|由木中野]])に定住して学校を設立。土方家、近藤家、佐藤家と深い交流があり、明治7年(1874年)に斎藤が死去すると、同家らによって八王子市大塚観音堂に顕彰碑が建てられた。享年62。墓所は八王子市[[堀之内 (八王子市)|堀之内]]の[[保井寺]]。 {{DEFAULTSORT:さいとう いちたくさい}} [[Category:新選組隊士]] [[Category:戊辰戦争の人物]] [[Category:武蔵国の人物]] [[Category:1813年生]] [[Category:1874年没]]
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