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'''敦康親王'''(あつやす しんのう、[[長保]]元年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]([[999年]][[12月17日]]) - [[寛仁]]2年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]([[1019年]][[1月25日]]))は[[平安時代]]中期の[[皇族]]。第66代[[一条天皇]]の第1皇子、母は[[皇后]][[藤原定子]]。 == 生涯 == 長保元年([[999年]])[[中宮職|中宮大進]][[平生昌]]邸において誕生。后腹の第1皇子であったが、当時外祖父である[[中関白家|中関白]][[藤原道隆]]は既に亡く、また伯父[[藤原伊周|伊周]]の失脚で母の実家は没落し力を失っていた。しかも敦康の誕生と同日に[[藤原道長]]の長女[[藤原彰子|彰子]]が[[女御]]宣下を受けていた。 誕生翌年の長保2年([[1000年]])4月18日、[[親王宣下]]を受けたが、同年末、2歳で母后を失った。その後、母后の末妹([[御匣殿 (藤原道隆四女)|御匣殿、道隆四女]])が母代として宮中で親王とその姉妹の[[脩子内親王|脩子]]・[[び子内親王|媄子]]両[[内親王]]を養育した。しかし御匣殿も程なく没したため、父帝の配慮でまだ子がなかった[[中宮]]彰子に養育が託され、他の姉妹と離れて彰子の局[[飛香舎]]に移された<ref>『権記』長保3年([[1001年]])8月3日条によれば、「漢明帝令馬皇后愛養粛宗之故事」([[後漢]]の[[明帝 (漢)|明帝]]が[[明徳馬皇后|馬皇后]]に生さぬ仲の[[章帝 (漢)|粛宗]]を養育させた故事)を藤原行成が奏上したのが聞き入れられて養子縁組が実現したという。</ref>。長保3年([[1001年]])11月13日、同所にて着袴<ref>[[七五三]]を参照。</ref>。同年、天皇側近の[[藤原行成]]が親王家の勅別当に任命された。 [[中宮]][[藤原彰子|彰子]]は親王を愛情を込めて育てたが、道長は全く別の意味で親王に奉仕していた。道長はかつて親王の外舅伊周・[[藤原隆家|隆家]]兄弟を失脚させ、親王の生母定子にも非礼を働いていた<ref>長保元年([[999年]])8月9日定子が敦康親王出産のため内裏を退出する際、道長は[[宇治市|宇治]]の別荘へ[[公卿]]連を引き連れて遊びに行っており、定子の内裏退出を取り仕切る者がいなかった(結局[[藤原時光]]が病気・[[物忌]]にかかわらず参内し取り仕切った)。</ref>。道長にとって、敦康親王は彰子に皇子誕生がなかった時の保険<ref>当時、[[藤原公季]]や[[藤原顕光]]の娘も入内しており、彰子にのみ男子が生まれなかった場合、道長は父[[藤原兼家]]の血統を受け継ぐ唯一の男子皇族である敦康親王を擁立するしかなかった。</ref>に過ぎず、そのため、[[寛弘]]5年([[1008年]])9月、彰子に第2皇子敦成親王(のちの[[後一条天皇]])が生まれると道長は敦康親王への奉仕を放棄し、ひたすら敦成親王の立坊・[[即位]]を望むようになる。 寛弘7年([[1010年]])1月29日、伯父[[藤原伊周|伊周]]が薨去。[[正二位]][[准大臣]]の高位にあった伯父の死は、敦康親王の立場をさらに弱めた。同年7月17日、親王は道長の加冠により[[元服]]し、三品[[大宰帥]]に任ぜられた。翌寛弘8年([[1011年]])6月2日、[[一品親王|一品]]に叙せられ[[准后|三宮に准ぜられた]]。これに先立ち、5月27日、[[譲位]]を考えていた[[一条天皇]]は敦康親王[[立太子]]の可否を親王家別当の行成に問うたが、行成は[[文徳天皇]]の[[惟喬親王]]の例を引き、執政者道長の賛成が得難く政変の可能性まであるとした上で、親王の母后の外戚家[[高階氏]]が伊勢の[[伊勢神宮|大神宮]]に憚る所あり<ref>定子・伊周の母方の[[高祖父]][[高階師尚]]は、[[伊勢神宮]]に仕えていた[[斎宮]][[恬子内親王]]と[[在原業平]]が密通して出来た子とする説(『[[尊卑分脈]]』)があった。</ref>と言い、諌止した<ref>[[関口力]]は行成が[[摂政]][[藤原伊尹]]の孫でありながら幼くして孤児同然になった経歴を挙げ、「経験的に体得した現実主義的哲学に基づく親身な忠告」であり、必ずしも道長に迎合したものとは言えないと指摘する。また、行成は敦康親王が亡くなるまでその家司を務めている(関口力『摂関時代文化史研究』([[思文閣出版]]、[[2007年]]) ISBN 978-4-7842-1344-3 P37-38及び157-161)。</ref>。このため、敦康親王叙一品の10日後、[[皇太子]]に立てられたのは4歳の異母弟敦成親王であった<ref>一品親王は二品を受けて20年を経て叙されるかどうかという地位で、12歳の敦康親王が叙せられるのは、皇位継承から排除される代償であったと言える(安田政彦「一品親王」『平安時代皇親の研究』(吉川弘文館、1998年))。一条天皇は譲位の対面において東宮[[三条天皇|居貞親王]]に敦康親王の優遇を要求し、東宮は「仰せなくとも、奉仕すべき事」と返答した。親王の参内が行われるなど(『小右記』長和元年7月22日条)、三条天皇は親王の処遇に留意している。</ref>。中宮彰子は天皇と自分の意向に逆らった父道長を怨んだという<ref>一連の経緯は『[[権記]]』『[[栄花物語]]』に詳しいが、彰子が父を怨んだ原因については、『栄花物語』は彰子が一条の後継者に敦康を推したのを道長に反対されたためとし、『権記』は一条譲位の件を[[東宮]]居貞(のちの[[三条天皇]])に伝えるのに彰子の[[直廬]]の前を素通りにした隔意を感じたためと見る。</ref>。 敦康親王は『[[大鏡]]』に「'''御才(ざえ)いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞおはしましし'''」と記され、その才華・人品は当時の公卿日記にも詳しい。父もこの親王を愛しむ心深かった<ref>寛弘2年([[1005年]])11月13日、飛香舎における親王の[[読書始]]に際し、天皇は密かに渡御、さらに儀式の最中に屏風を押しのけ、その様子を覗いていたという(『小右記』当日条)。『権記』にも、天皇の勅旨を受けた藤原行成が親王のために奔走する記事が多い。</ref>が、道長の意向を憚り立太子は実現しなかった。后腹の第1皇子が立太子できなかったのは異例のことで<ref>[[天武天皇|天武]]朝以後、天皇の正妻所生の長子は、16人中14人が立太子しており、夭折した[[敦文親王]]をのぞけば、敦康は立太子できなかった唯一の例([[倉本一宏]]『一条天皇』([[人物叢書]]、[[吉川弘文館]]、[[2003年]]) ISBN 4-642-05229-1 P192-193)。</ref>、世人は親王に多大な同情を寄せたという<ref>[[藤原公任]]は「帥宮(敦康親王)才智太朗(ハナハダアキラカ)、尤足感歎、足感歎」と言い(『[[小右記]]』[[長和]]2年9月23日条、西暦[[1013年]]で親王は満13歳)。同じく『小右記』[[寛仁]]2年12月26日条によれば、敦康親王の喪中に明年の[[小朝拝|朝拝]]および[[大饗|二宮大饗]]等を強行しようとして、[[式明親王]]の例を引く道長に対して、実資は「式部卿親王(敦康親王)甚無止(甚だやんごとなき)、彼式明親王尤劣者」と言い切り、朝拝と大饗の停止を是としたという。また『大鏡』は、敦康親王が「冷泉院の宮達などのやうに、軽々におはしまさましかば、いとほしさもよろしくや、世の人思ひまさまし」(「親王に[[冷泉天皇|冷泉院]]の宮たち(冷泉院の第3皇子[[為尊親王|為尊]]・第4皇子[[敦道親王|敦道]]の両親王。ともに好色で知られ、[[和泉式部]]との恋愛で世の謗りを受けた)のような軽々しいところが少しでもあったら、世間の同情もさほどでなくて済んだものを」)と述べた。</ref>。 [[長和]]年間の敦康親王は、自邸で[[作文会]]・[[歌合]]・[[法華八講]]を催し、[[大堰川|大井河]]に遊覧するなど、風雅の道に生きた。長和2年([[1013年]])12月10日、[[中務省|中務卿]][[具平親王]]の次女を娶る。長和5年([[1016年]])1月29日、[[式部省|式部卿]]に転じた。寛仁2年([[1018年]])12月17日、にわかに発病し、[[出家]]の後、薨去。享年20。 親王は道長の嫡男[[摂政]][[藤原頼通|頼通]]と親しく、相婿となり家を共にしていた<ref>親王妃は一時頼通夫妻が養育していたともいい、婚儀に際して一切を頼通が取り仕切り、その室礼などは甚だ「過差」(贅沢)であったと『[[御堂関白記]]』に見える。</ref>。薨去後、親王妃は[[出家]]し<ref>「南院の上」とよばれ、実娘嫄子よりも長生きしたらしい(『栄花物語』)。</ref>、残された一女[[藤原げん子|嫄子女王]]は頼通・[[源隆姫|隆姫女王]]夫婦に引き取られ、のちに[[後朱雀天皇]]に入内した。 寛弘2年([[1005年]])3月27日、7歳になった敦康親王が初めて(公式に)父帝にまみえる時に行成が書いたという「敦康親王初覲関係文書」が皇室の[[御物]]として伝来している。 ==参考文献== (一次史料の『[[権記]]』『[[小右記]]』『[[日本紀略]]』『[[大鏡]]』『[[栄花物語]]』を除く。) * 下玉利百合子 『枕草子周辺論 続編』 [[笠間書院]] :ほとんどは論文「枕草子の周辺をめぐって 第一皇子敦康親王(正・続・終章)」で構成。 * 下玉利百合子 『枕草子周辺論』 笠間書院 :藤原行成を手がかりに、一条朝の政治背景および人間関係を考察。 ==脚注== <references /> {{DEFAULTSORT:あつやすしんのう}} [[Category:日本の親王]] [[category:平安時代の男性皇族]] [[Category:999年生]] [[Category:1019年没]]
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