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{{Infobox Buddhist |名前=<span style="font-size:120%;">教如(敎如</span><ref name="kyuujitai">敎如…新字体が用いられる以前の文献に用いられた旧字体。</ref><span style="font-size:120%;">)<span style="font-size:120%;"> |生没年=[[永禄]]元年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]] - [[慶長]]19年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]([[宣明暦|旧暦]])<br /> <span style="font-size:90%;">[[1558年]][[10月27日]] <ref name="yuriusureki">生年は、[[ユリウス暦]]にて表記。</ref> - [[1614年]][[11月6日]]<ref name="guregorioreki">没年は、[[グレゴリオ暦]]にて表記。</ref>([[新暦]])</span> |幼名=茶々麿 |名= |法名=敎如 |号= |院号=信淨院 |諱=光寿 |諡号= |尊称=教如上人 |生地=[[石山本願寺]] |没地= |画像=[[ファイル:Kyounyo01.JPG|250px]] |説明文=教如像<ref>「[[元和 (日本)|元和]]9年極月16日」と裏書されている。元和9年は、[[1622年]]。</ref> |宗旨=浄土真宗 |宗派=(後の、東本願寺系諸派) |寺院=[[東本願寺|本願寺(東本願寺)]] |師=顕如 |弟子= |著作= |廟= }} '''教如'''(きょうにょ、敎如<ref name="kyuujitai"/>)<ref>法主を務めた寺号「本願寺」に諱を付して'''本願寺光寿'''(ほんがんじ こうじゅ、ほんがんじ みつとし)とも称される。この「本願寺」は便宜的に付されたものであって、氏や姓ではない。</ref>は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]にかけての[[浄土真宗]]の[[僧]]。 [[東本願寺]]第12代[[法主]]<ref>正式には「本願寺」。一般には通称である「東本願寺」と呼称するので、「東本願寺第十二代法主」と表記した。</ref> 。 == 生涯 == <span style="font-size:90%;">年齢は、[[数え年]]。日付は文献との整合を保つため、いずれも[[旧暦]](宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。</span> === 誕生 === [[永禄]]元年9月16日([[1558年]]10月27日<ref name="yuriusureki"/>)、[[顕如]]の[[長男]]として誕生。永禄13年([[1570年]])2月、父・顕如のもと13歳で得度。 === 石山合戦 === [[元亀]]元年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]](1570年[[10月11日]])、[[織田信長]]との間で[[石山合戦]]が始まる。父・顕如を助けて信長と徹底抗戦する。元亀2年([[1571年]])6月、[[朝倉義景]]の娘と婚約。 [[天正]]8年([[1580年]])3月、顕如は[[正親町天皇]]の勅使・[[近衛前久]]の仲介による講和を受け入れ、石山本願寺から[[紀伊国]][[本願寺鷺森別院|鷺森]]([[和歌山県]][[和歌山市]])へ退去する。しかし教如は徹底抗戦を主張する。そのため顕如は、教如を義絶<ref name="gizetsu">信長の目を逸らす為の顕如の策略との説もある。</ref>する。義絶後も石山本願寺に籠城する(大坂拘様)。[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]、近衛前久の説得に応じ、信長に石山本願寺を明け渡す<ref>ただし大坂退去後も、紀伊・美濃・飛騨・越前・越中・安芸・播磨と各地を転々としながら、武田攻めに遠征中の織田軍の後方攪乱を狙って一揆を扇動し、反信長の姿勢を崩していない。([[小泉義博]]の論文などによる)</ref>。 その直後に、石山本願寺は失火により炎上し灰燼に帰した。 天正10年([[1582年]])[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]、[[本能寺の変]]が起こり、信長は暗殺された。[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]、後陽成天皇は顕如に教如の赦免を提案。[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]、顕如より義絶を赦免される。赦免後は、顕如とともに住し、寺務を補佐する。 === 本願寺継承 === [[文禄]]元年([[1592年]])[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]、顕如の示寂にともない本願寺を継承する。この時、石山合戦で篭城した強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した穏健派は重用しなかった為、教団内に対立が起こる。 === 退隠 === 文禄2年([[1593年]])[[閏月|閏]][[9月12日 (旧暦)|9月12日]]、[[豊臣秀吉]]は教如を大坂に呼び、下記の十一か条を示した。穏健派が秀吉に働きかけたと考えられる。 # 大坂ニ居スワラレ候事。 # 信長様御一類ニハ大敵ニテ候事。 # 太閤様の御代ニテ、雑賀ヨリ貝塚ヘ召シ寄セラレ、貝塚ヨリ天満ヘ召シ出サレ、天満ヨリ七条ヘ遣シアゲラレ候事、御恩ト思シ召サレ候事。 # 当門跡<ref name="kyounyo">教如の事。</ref>不行儀のこと、先門跡<ref name="kennyo">顕如の事。</ref>時ヨリ連レント申上候事。 # 代ユヅリ状コレアル事、先代<ref name="kennyo"/>ヨリユヅリ状モコレアル由ノ事。 # 先門跡<ref name="kennyo"/>セツカンノ者メシ出サレ候事。 # メシ出サレ候人ヨリモ、罷リイデ候者ドモ、不届キニ思シ候事。 # 当門主<ref name="kyounyo"/>妻女ノ事。 # ソコ心ヨリ、トドカザル心中ヲ引キ直シ、先門跡ノゴトク殊勝ニタシマミ申スベキ事。 # 右ノゴトクタシナミ候ハバ、十年家ヲモチ、十年メニ理門<ref name="jyunnyo">准如の事。</ref>ヘアイ渡サルベキ事、是ハカタ手ウチノ仰付ラレ様ニテ候得共、新門跡<ref name="jyunnyo"/>コノウチ御目ヲカケラレ候間、カクノゴドク由ニ候。 # 心ノタシナミモナルマジキト存ゼラレ候ハバ、三千国無役ニ下サルベク候アイダ、御茶ノ湯トモダチナサレテ候テ、右メシイダシ候イタヅラモノ共メシツレ。御奉公候ヘトノ儀に候。 つまり、問題点(上記の1~8)を挙げ、10年後に弟の[[准如]]に本願寺法主を譲る旨の命が下される。この事を聞いた強硬派の坊官が、秀吉に異義を申し立てる。秀吉の怒りを買い「今すぐ退隠せよ」との命が下される。[[閏月|閏]][[9月16日 (旧暦)|9月16日]]、准如に法主が継承する事が決定し、教如は退隠させられる。 === 本願寺教団の東西分裂 === [[慶長]]3年([[1598年]])[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]、秀吉歿。 慶長7年([[1602年]])、[[後陽成天皇]]の勅許を背景に[[徳川家康]]より[[京都]]七条烏丸に四町四方の寺領が寄進され、七条堀川の[[西本願寺|本願寺]]の一角にある堂舎を、その地に移す。慶長8年([[1603年]])、[[上野国|上野]]厩橋(群馬県前橋市)の[[妙安寺 (前橋市)|妙安寺]]より「[[親鸞]]上人木像」を迎え、[[東本願寺]]が分立する。 一説によると、若き日に三河一向一揆に苦しめられた事のある家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために、教如を唆して本願寺を分裂させたと言われているが、明確にその意図が記された史料がないため断定はできない。 現在の真宗大谷派はこの時の経緯について、「教如は法主を退隠してからも各地の門徒へ名号本尊や消息(手紙)の配布といった法主としての活動を続けており、本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如を法主とするグループと教如を法主とするグループに分裂していた。徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」という見解を示している。<ref>[[上場顕雄]]『教如上人-その生涯と事績-』東本願寺出版部</ref> 東西本願寺の分立が後世に与えた影響については、『戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされた』という見方も存在するが、前述の通り本願寺の武装解除も顕如・准如派と教如派の対立も信長・秀吉存命の頃から始まっており、また江戸時代に同一宗派内の本山と脇門跡という関係だった[[西本願寺]]と[[興正寺]]が、寺格を巡って長らく対立して幕府の介入を招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立を果たしたことは、むしろ両本願寺の宗政を安定させたとも言える。 === 入寂 === 慶長19年10月5日([[1614年]]11月6日<ref name="guregorioreki"/>)、57歳で示寂。 == 分立による本願寺の呼称 == 分立後も、[[昭和]]62年([[1987年]])<ref>昭和62年に、本願寺(東本願寺)は、「宗教法人 本願寺」を解散し、真宗大谷派に合併され「真宗本廟」と改称する。</ref>までは、東西ともに「'''本願寺'''」が正式名称である。 分立当初は、教如の「本願寺」を、「信淨院<ref>信淨院…教如の院号。</ref> 本願寺」・「本願寺隠居」・「七条本願寺」・「信門<ref>信門…'''信'''淨院の'''門'''跡の意。</ref>」と称し、准如の「本願寺」を、「本願寺」・「六条門跡」・「本門」と称した。 のちに教如の「本願寺」は、准如が継承した「(七条堀川の)本願寺」の東に位置するため「'''東本願寺'''」と通称され、「(七条堀川の)本願寺」は、相対的に「'''[[西本願寺]]'''」と通称される。 == 関連項目 == {{Commons|Category:Kyounyo monk}} * [[真宗大谷派]] * [[東本願寺|東本願寺(正式名称・真宗本廟)]] * [[大谷家]] * [[真宗大谷派難波別院]] == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=[[千葉乗隆]]著 |year=2005 |title=浄土真宗 |publisher=ナツメ社(図解雑学) |id=ISBN 4-8163-3822-5 }} ==関連書籍== *小泉義博『本願寺教如の研究』法藏館 2004‐2007 {{本願寺}} {{Buddhism-stub}} {{People-stub}} {{DEFAULTSORT:きようによ}} [[Category:浄土真宗の僧]] [[Category:室町・安土桃山時代の僧]] [[Category:江戸時代の僧]] [[Category:大谷家]] [[Category:1558年生]] [[Category:1614年没]]
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