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[[画像:Paulnabrone.jpg|thumb|240px|right|アイルランドのPoulnabroneにあるドルメン]] '''支石墓'''(しせきぼ)は、'''ドルメン'''ともいい、[[新石器時代]]から初期[[金属器時代]]にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種である。基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとる。 == 起源 == 支石墓という形態がもっとも早く発祥したのは、おそらく西ヨーロッパだったと考えられる。しかし、西ヨーロッパの支石墓が世界各地へ伝播したのではなく、それぞれの社会発展状況に応じて、全く別個に世界の各地域で支石墓が発祥したとする見方が非常に有力となっている。 == ヨーロッパ == ヨーロッパでは、新石器時代から金属器時代初期にかけて支石墓が建造された。その建造範囲は[[西ヨーロッパ]]にほぼ限定されており、主として[[大西洋]]・[[北海]]・[[バルト海]]沿岸に見られる。紀元前4000年-3000年頃の西ヨーロッパでは、支石墓などの[[巨石記念物|巨石建造物]]に代表される[[巨石文化]]が興っているが、農耕の伝播との関連性を指摘する説が有力である。 紀元前6500年-4500年にかけてヨーロッパ全域に農耕が普及しているが、農耕の開始に伴い特に大西洋沿岸で人口増加が顕著となり、社会的不平等が生じた。そして、上級階層の墓制としてまず、土盛りの素朴な墓が発生し、そのうち巨大な支石墓へ発展したのだと考えられている。その後、紀元前3500年頃に巨大な支石墓が激減し、小規模な支石墓へ移行しているが、このことは上級階層を中心とする社会構造が崩壊し、民主的な共同体にとって代わられたことを示唆している。最終的に紀元前2000年頃、西ヨーロッパの支石墓は消滅したとされる。 支石墓は、元来、土や小石などにより覆われていたが、現在ではその多くが風雨により流され、巨石が露出してしまっている。 西ヨーロッパに見られる支石墓は、[[ブルトン語]]で'''dolmen'''(ドルメン)という。フランス・[[ブルターニュ]]地方に多く見られたことから、当地の[[ブルトン語]]で「石の机」を意味する''dol men''を語源としている。また、[[ウェールズ語]]に由来する'''cromlech'''と呼ばれることもある。[[ドイツ語]]では'''Hünengräber'''、[[オランダ語]]では'''Hunebed'''といい、いずれも巨人による築造を暗示する語である。 Hunebedは、ドルメンによく似た形式の石室墓で、新石器時代中期(Funnelbeaker文化)の頃に始まっている。Hunebedは、まず長方形の石室があり、その長辺の片側に[[羨道]]が設けられ、そして石室は楕円形の墳丘に覆われるとともに、その周囲に縁石が置かれた。より複雑な構造を持つものもある。 ドイツの[[メクレンブルク=フォアポンメルン州|メクレンブルク]]や[[ポモージェ]]では、都市や町の建設の際に、建築や道路の材料として墓の巨石が使われ、多くのドルメンが失われた。それでもヨーロッパには数千基のドルメンが現存しており、フランスに4000基、イギリスに2000基、ドイツのリューゲン島だけで1000基以上が残されている。 == 東アジア == 当初は、地上に支石を箱形に並べ、その上に天井石が載るというテーブル状形態を示しており、天井石の下部では葬祀が行なえるようになっていた。中国東北部・[[遼東半島]]・朝鮮半島西北部に分布する。紀元前400年頃から次第に支石が低くなっていき碁盤式といわれ、朝鮮半島西側の中南部と北部九州に見られる。また、[[青銅器]]([[銅剣]]など)の副葬も見られ始めた。(要出典) 紀元前500年頃、支石墓は[[朝鮮半島]]([[無文土器時代]])へ伝播した。遺構は半島のほぼ全域で見られ(約4-6万基とされる)、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれている。南へ伝播するに従い、支石は地下へ埋設されるようになり、天井石が地表近くまで下りている。[[大韓民国]]では、高くそびえるもの(テーブル式)を「北方式」、低いもの(碁盤式)を「南方式」と分類しており、両形式のおおよその境界は[[全羅北道]]付近とされる。また、天井石が碁盤状を呈するなど多様な類型を示していることも、朝鮮半島の支石墓の特徴である。紀元前後になると、銅剣(細型銅剣)が副葬されるようになった。(要出典) 朝鮮半島において、分布が特に顕著なのは半島南西地域(現在の[[全羅南道]])である。同地域ではもっとも多い場所で500-600基の支石墓が群集している。支石墓は朝鮮半島の先史時代を大きく特徴づけており、[[2000年]]には[[高敞、和順、江華の支石墓群]]が[[世界遺産]]に登録された。朝鮮半島の南部には、支石の低いごばん状支石墓(南方式支石墓)があり、北部には支石が高い卓上支石墓(北方式支石墓)が分布している。 日本では、中国の[[浙江省]]の石棚墓群によく似た支石墓が、[[縄文時代]]晩期の長崎県に出現している([[原山支石墓群]]や[[大野台支石墓群]]など)。また、屈葬の採用や[[甕棺墓|甕棺]]を伴うことなど、一定の独自性も認められる。日本の支石墓は、弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉を迎えている。 * ''詳細は[[弥生時代の墓制]]の項を参照。'' == その他の地域 == === 中東 === 中東では、[[イラン高原]]や[[ゴラン高原]](現[[イスラエル]])で支石墓が営まれたとされる。 === インド === [[インド]]には古代の巨石遺跡が約4000箇所ほどあるが、明確に支石墓と見られるものは、紀元前1000年頃の南インドに出現した。 === その他 === その他、[[インドネシア]]・[[南アメリカ]]・北部アフリカに見られる。 [[Category:考古遺跡|しせきほ]] [[Category:考古遺跡に見る葬制|しせきほ]]
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