コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
挙母藩のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
挙母藩
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
[[画像:Toyota museum 101.JPG|thumb|right|200px|[[七州城]]復興隅櫓]] '''挙母藩'''(ころもはん)は、[[三河国]]の北西部、現在の[[愛知県]][[豊田市]]中心部を治めた2万石の譜代大名の小藩。藩庁は[[挙母城]](別名七州城)。挙母藩の歴史は領主により大きく四つに分かれる。 == 藩史 == === 三宅家時代(1604年 - 1619年、1636年 - 1664年) === [[慶長]]9年([[1604年]])、[[武蔵国]]から[[三宅康貞]]が祖先ゆかりの地である三河国加茂郡衣に入封し、衣藩1万石がはじまった。[[三宅氏]]はこれまでの衣城を廃し、現在の豊田市元城町付近に陣屋を構える。これは[[矢作川]]の水運と[[岡崎藩]]、[[尾張国]]、[[信濃国]]への交通の要所をおさえる意味もあり、陣屋を中心に7ヶ町を形成した。 [[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])、第2代[[藩主]]・[[三宅康信|康信]]は2000石を加増の上、[[伊勢国]][[伊勢亀山藩|亀山藩]]に領地替えされる。[[寛永]]13年([[1636年]])、第3代[[藩]]主・[[三宅康盛|康盛]]が再び1万2000石で衣城主となる。さらに[[寛文]]4年([[1664年]])、第4代藩主・[[三宅康勝|康勝]]の時代に三河国[[田原藩]]へ再び領地替えになり、以後、衣の地を治めることはなかった。 === 幕府領時代(1664年 - 1681年) === 寛文4年(1664年)、三宅氏[[転封]]後、衣の地は幕府領となり、三河[[代官]]・[[鳥山氏]]の支配下に入る。鳥山氏は三宅氏の築いた陣屋を廃し、そこの町の郷倉を建て、さらに堀を埋め立てそこを田地とした。他に道路の拡張や養蚕の奨励、灌漑などの事業を行った。 === 本多家時代(1681年 - 1749年) === [[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]])、[[陸奥国]][[石川藩]]より[[本多忠利]]が衣に1万石で再び立藩した。本多忠利は[[徳川家康]]の[[家臣]]・[[本多忠勝]]のひ孫にあたり、幕府でも[[寺社奉行]]を勤めている。また近隣の[[伊保藩]]、[[足助藩]]の藩主も忠利の兄弟が治めており、西三河における[[本多氏]]一族の一体的支配の動きの中の立藩とも言える。本多氏は「衣」を「挙母」と表記することを定め城下町の整備に努める。本多氏は忠利、[[本多忠次|忠次]]、[[本多忠央|忠央]]の3代にわたり支配する。 === 内藤家時代(1749年 - 1871年) === [[寛延]]2年([[1749年]])、[[上野国]][[安中藩]]より[[内藤政苗]]が挙母へ領地替えとなる。以後、明治維新までの約120年間に渡り挙母の地を支配することになる。[[内藤氏]]は本多氏から受け継いだ挙母1万石の他、[[遠江国]]と[[美作国]]に1万石あり、合わせて2万石の大名であった。[[入封]]後、[[幕府]]より4000両与えられ、それまでの[[陣屋]]から[[挙母城]]築城の計画が進められた。しかし築城の計画は一揆や洪水、政争などの要因で遅々と進まなかった。この移転前の城は現在[[桜城]]と呼ばれている。 結局、第2代藩主の[[内藤学文|学文]]は[[安永]]8年([[1779年]])に挙母城の移転を決意する。挙母城より西方の樹木台に新しい城の築城を進めることになる。そして[[天明]]5年([[1785年]])に築城工事を終え、江戸から戻った学文は新城の見分をしている。それが現在、七州城と呼ばれる城にあたる。また学文によって[[藩校]]崇化館も創立される。以後、挙母の[[城下町]]は旧城を中心とした下町と新城を中心とした樹木の2つの地域で発展し、明治維新を迎える。 === 幕末の挙母藩 === [[天保]]7年([[1836年]])9月、現在の松平地区で加茂一揆が発生。飢饉に苦しむ農民が年貢の減免や市場価格の抑制を求めて起こした一大農民一揆で、1万人以上の農民が参加する大騒動に発展した。第5代藩主・[[内藤政優|政優]]は鉄砲隊を組織して矢作川の堤防で農民を撃退し、一揆を鎮圧した。なおこの一揆は東海地方有数の規模となり、天保8年([[1837年]])の[[大塩平八郎の乱]]にも影響を与えることとなった。またこの加茂一揆には「鴨の騒立(かものさわだち)」という別名がある。 [[嘉永]]4年([[1851年]])、第5代藩主・内藤政優が死去する。このため、井伊一族の[[内藤政文|政文]]が養子として第6代藩主となる。[[安政]]元年([[1854年]])、挙母地方大地震が起こる。安政5年([[1858年]])、政文が死去し、嫡男の[[内藤文成|文成]]がわずか4歳で第7代藩主となる。内藤氏歴代の中で父から息子に家督が相続された最初で最後の例である。安政6年([[1859年]])、英式銃陣法が取り入れられ、習練が行われる。[[慶応]]3年([[1867年]])、挙母地方でも[[ええじゃないか|ええじゃないか運動]]が起きる。 慶応4年([[1868年]])2月、藩主不在のままに西軍に対して恭順。3月には藩主・内藤文成が帰藩し、4月に東海道軍人馬兵食賄方として、[[駿府]]警衛のため一小隊を派遣する。6月に再度警衛に当った。 同年7月、藩主・文成は、京都御所へ参内し、勤王の意を表する。明治2年([[1869年]])、文成は挙母[[藩知事]]に就任する。明治3年([[1870年]])、挙母藩が廃止され[[挙母県]]になった。幕末時士族は100戸。卒族は200戸を数えた。挙母藩最後の藩主・内藤文成は、維新後[[子爵]]となり、明治34年([[1901年]])まで生きた。幕末期の4代藩主の政成、5代藩主の政優は養子で、[[彦根藩]]主・[[井伊直中]]の5男、8男にあたり、[[大老]]の[[井伊直弼]]は14男で、彼らの弟にあたる。 == 歴代藩主 == === 三宅家 === 譜代 1万石 # [[三宅康貞|康貞]](やすさだ) # [[三宅康信|康信]](やすのぶ)[[従五位下]]・越後守 伊勢亀山へ転封 :この間1619年から1636年の間は伊勢亀山に転封 #<li value = 3> [[三宅康盛|康盛]](やすもり)従五位下・[[大膳亮]] [[伺候席|帝鑑間]] 伊勢亀山より入封 # [[三宅康勝|康勝]](やすかつ)従五位下・能登守/土佐守 三河田原へ転封 === 幕府領 === 鳥山氏 三河代官 # [[鳥山精俊|精俊]] # [[鳥山精明|精明]] # [[鳥山精元|精元]] # [[鳥山精永|精永]] === 本多家 === 譜代 1万石 # [[本多忠利|忠利]](ただとし)従五位下・長門守 陸奥石川より入封 # [[本多忠次|忠次]](ただつぐ)従五位下・山城守 # [[本多忠央|忠央]](ただなか)従五位下・長門守 遠江[[相良藩|相良]]へ転封 === 内藤家 === 譜代 2万石 # [[内藤政苗|政苗]](まさみつ)従五位下・丹波守・[[伺候席|帝鑑間]] 上野安中より入封 # [[内藤学文|学文]](さとぶみ)従五位下・山城守・帝鑑間 # [[内藤政峻|政峻]](まさみち)従五位下・山城守・帝鑑間 # [[内藤政成|政成]](まさなり)従五位下・山城守・帝鑑間 # [[内藤政優|政優]](まさひろ)従五位下・丹波守・帝鑑間 # [[内藤政文|政文]](まさぶみ)従五位下・山城守・帝鑑間 # [[内藤文成|文成]](ふみしげ)従五位下・丹波守・帝鑑間 == 幕末の領地 == * [[三河国]] ** [[加茂郡 (三河国)|加茂郡]]のうち - 25村 ** [[設楽郡]]のうち - 6村 * [[遠江国]] ** [[榛原郡]]のうち - 7村([[駿府藩|静岡藩]]に編入) ** [[周智郡]]のうち - 8村(同上) * [[美作国]] ** [[久米北条郡]]のうち - 12村 [[明治維新]]後に、美作国[[勝北郡]]21村(旧[[天領|幕府領]]、内訳は[[生野奉行|生野奉行所]]管轄19村、[[倉敷代官所]]管轄2村)が加わった。 {{s-start}} {{s-bef|before=([[三河国]])|表記=前}} {{s-ttl|title=行政区の変遷 |years=[[1636年]] - [[1871年]]<br>|years2=挙母藩→挙母県}} {{s-aft|after=[[額田県]]|表記=次}} {{end}} {{江戸時代の藩}} {{DEFAULTSORT:ころもはん}} [[Category:藩]] [[Category:三河国]] [[Category:三宅氏|藩]] [[Category:本多氏|藩]] [[Category:内藤氏|藩]] [[Category:愛知県の歴史]] [[Category:豊田市の歴史]] [[Category:挙母藩主|!]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:End
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:S-aft
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:S-bef
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:S-start
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:S-ttl
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:江戸時代の藩
(
ソースを閲覧
)
挙母藩
に戻る。
検索
検索
挙母藩のソースを表示
話題を追加