コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
抜刀隊のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
抜刀隊
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{Otheruses|[[西南戦争]]における抜刀隊}} [[ファイル:Tabarazuka battle.jpg|thumb|300px|抜刀隊を描いた[[浮世絵]]]] [[ファイル:Satsuma rebellion.JPG|thumb|300px]] '''{{PAGENAME}}'''(ばっとうたい)は、[[1877年]]([[明治]]10年)に起きた[[西南戦争]]の[[田原坂]]の戦いの際に、[[警視隊]]の中から選抜して臨時に[[編成]]された[[白兵戦]][[部隊]]。 == 編成 == 田原坂の戦いにおいて、[[西郷隆盛|西郷]]軍による斬り込み攻撃により、[[大日本帝国陸軍|政府軍(陸軍)]]では死傷者が続出した。数に勝る政府軍において人員の大多数を占める[[鎮台]]の[[兵 (日本軍)|兵]]は、主に[[徴兵令]]によって徴兵された[[平民]]で構成されており{{refnest|group=注釈|[[将校]]や[[下士官]]は[[士族]]が多数を占めるが、あくまで兵を統率する[[指揮官]]であり、人員数も少ない。}}、[[士族]]中心だった西郷軍との白兵戦に対応しにくかったとされる。 こうした状況下による事態を打開すべく、士族で構成され、主に陸軍の[[後方支援]]をしていた[[警視隊]]の[[川畑種長]]大警部、[[上田良貞]]大警部、[[園田安賢]]中警部、[[永谷常修]]中警部らが、征討参軍(実質的総司令官)[[山縣有朋]][[中将|陸軍中将]]に対し、警視隊から[[剣術]]に秀でた者を選抜して投入することを上申した。徴兵令の主唱者である山縣にとって、士族の力を借りることは不本意であったが、山縣はこれを許し、警視隊から百余名をもって抜刀隊が編成された。 後述する[[犬養毅]]による報道が有名なこともあり、抜刀隊には[[戊辰戦争]]で[[賊軍]]とされた旧[[会津藩]]士など旧[[江戸幕府|幕府]]出身者が多く志願したといわれることが多い{{refnest|group=注釈|[[日本放送協会|NHK]]の歴史番組『[[堂々日本史]]』、『[[その時歴史が動いた]]』においても、抜刀隊には会津士族が戊辰戦争の恨みを晴らすために大勢参加したと解説された<ref>NHK取材班編『堂々日本史 第15巻』、[[KTC中央出版]] P.178</ref>。}}。一方、実際には[[薩摩藩]][[郷士]](外城士)出身者が主力を形成していたとする文献もある<ref>{{Template:Cite book ja-jp|author=[[小川原正道]]|authorlink=小川原正道|year=2007|month=12|title=西南戦争 西郷隆盛と日本最後の内戦|series=中公新書|publisher=中央公論新社|isbn=978-4-12-101927-1|asin=412101927X|pages=P.119|ref=小川原2007}}</ref>。抜刀隊と警視隊が混同あるいは同一視されていることが一因であると考えられ、例えば元会津藩[[家老]]の[[佐川官兵衛]]大警部は抜刀隊に所属していたとよく誤解されているが、佐川は[[豊後]]口第二号警視隊に所属しており、抜刀隊編成以前に[[戦死]]している。 なお、佐川と同じ会津藩家老であった[[山川浩]][[中佐|陸軍中佐]](32歳)は、西南戦争に出征する際、「薩摩人 みよや東の丈夫が 提げ佩く太刀の利きか鈍きか」と歌っている。また、会津藩出身で当時[[陸軍幼年学校]]生徒であった[[柴五郎]](17歳)は、西郷軍征討の[[詔]]が発せられたことを知ると、「[[芋]]征伐仰せ出されたりと聞く、めでたし、めでたし」と日記に書き、さらに西南戦争での[[西郷隆盛]]の自決と、その翌年の[[紀尾井坂の変]]による[[大久保利通]]の暗殺を合わせ、「両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり」と記している。 == 戦果 == 3月13日早朝に突如襲撃を加えた抜刀隊は大きな戦果を挙げ、田原坂攻略の要となった。しかしながら勢いに乗って深入りしすぎたため、抜刀隊側も相当の損害を出している。[[全滅]]した隊も少なくなかった。 旧[[会津藩]]士の隊員が、[[戊辰戦争]]で[[賊軍]]の汚名を着せられた雪辱を果たすべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫びながら斬り込んでいったといわれている。これは、当時[[報知新聞|郵便報知新聞]][[記者]]であった[[犬養毅]]によって報道された。 『戦地直報』第二回 {{quote| 十四日、田原坂の役、我進んで賊の堡(とりで)に迫り、殆ど之を抜かんとするに当り、残兵十三人固守して退かず、其時故(もと)会津藩某(巡査隊の中)身を挺して奮闘し、直に賊十三人を斬る。其闘ふ時大声呼(よばわ)って曰く、戊辰の復讐、戊辰の復讐と。是は少々小説家言の様なれども、決して虚説に非ず。此会人は少々手負いしと言う{{refnest|group=注釈|{{Template:Cite book ja-jp|author=橋本昌樹|authorlink=橋本昌樹|year= 1972|title=田原坂 西南役連作|publisher=中央公論新社|asin =B000J9AAPC}}の中で、犬養の記事を「『戊辰の復讐』の声がはっきりと記録されたのは、これが最初であろう。以後、その声は各所にあがり、各地で記録されている。後に[[新撰旅団]]を編成するため巡査を召募した時に至っては、その応募者の大多数が、戊辰の復讐のためというのが動機であったという」と評している。}}。 }} ただしこの内容は公式記録には無く、また記者であった犬養自身も直接現場を見てはおらず伝聞情報に基づいて報道したのである。この声の主については戦闘当時抜刀隊小隊長として奮戦した元会津藩士・[[丹羽五郎 (開拓者)|田村五郎]]二等少警部ではないか、とする説もある<ref>勇知之著『新説 西南戦争』、七草社 P.89-90</ref>。 == その後 == === 剣術の復興・警察剣道 === 抜刀隊の活躍によって、[[明治維新]]後廃れていた[[剣術]]や[[日本刀]]の価値が見直された。[[川路利良]][[警視総監|大警視]]は『撃剣再興論』を著し、警察において剣術を奨励する意向を明らかにした。[[1879年]](明治12年)、[[警視庁 (内務省)|警視庁]]に[[警視庁武術世話掛|撃剣世話掛]]が設けられ、[[梶川義正]]、[[上田馬之助]]、[[逸見宗助]]が最初に採用された<ref>{{Cite web|url=http://www.mugairyu-hyohotan.com/shidan01u.html|title=赳太郎と善三郎|publisher=無外流兵法譚|accessdate=2011-11-11}}</ref>。その後も[[真貝忠篤]]、[[下江秀太郎]]、[[得能関四郎]]、[[三橋鑑一郎]]、[[坂部大作]]、[[柴田衛守]]など剣客が続々と採用され、これらの剣客によって[[警視流]]剣術の形が制定された。また、[[弥生慰霊堂|弥生神社]]で大規模な撃剣大会([[弥生慰霊祭記念柔道剣道試合|警視庁武術大会]])が開かれるようになり、警視庁は当時の剣客たちの最大の拠点となった{{refnest|group=注釈|第4代[[全日本剣道連盟]]会長の[[庄子宗光]]は『剣道百年』(時事通信社)の中で、「当時、全国剣道界の大殿堂のような観を呈し、いやしくも剣道家になろうと志す者は、必ず警視庁に来て修行を積む有様であった。後年、剣道家として名を成した[[高野佐三郎]]、[[内藤高治]]、[[川崎善三郎]]、[[高橋赳太郎]]、[[門奈正]]らの名剣客は、いずれも青年時代を警視庁で送り、[[幕末]]の名剣客の指導を受けてその基礎を築き上げたのであった」と評している。}}。 現在も警察剣道は日本剣道界の最大勢力であり、[[術科特別訓練|剣道特別訓練員]]に指定された警察官が[[全日本剣道選手権大会]]や[[世界剣道選手権大会]]で活躍している。 === 軍歌・行進曲の制定 === [[1882年]](明治15年)、[[東京大学 (1877-1886)|東京大学]][[教授]][[外山正一]]が[[詩|詩集]]『新体詩抄』に抜刀隊の奮戦を題材とした『抜刀隊の詩』を発表し、その詩に[[フランス]][[軍楽隊]]からの[[お雇い外国人]][[シャルル・ルルー]]が[[作曲|曲]]を付け、[[1885年]](明治18年)に[[軍歌]]『[[抜刀隊 (軍歌)|抜刀隊]]』が発表された。さらにこの『抜刀隊』をベースとして、軍歌『[[扶桑歌]]』の旋律を組み合わせて、[[1886年]](明治19年)に『[[陸軍分列行進曲]]』が作曲され、[[大日本帝国陸軍]]の公式[[行進曲]]として採用された。 現在も[[陸上自衛隊]]と[[警視庁]][[機動隊]]の公式行進曲として受け継がれており、陸上自衛隊は[[観閲式]]などで[[音楽隊 (陸上自衛隊)|陸上自衛隊の音楽隊]]により演奏され、警視庁は[[視閲式]]などで[[警察音楽隊|警視庁音楽隊]]によって演奏されている。 === 日清戦争時の逸話 === [[1894年]](明治27年)に開戦した[[日清戦争]]は日本が初めて経験した本格的な対外戦争であり、日本国民から[[義勇兵]]の志願が相次いだ。警視庁においても戦争に貢献したいという意見が全庁員の間にみなぎり<ref name="keishichoshi">『警視庁史 明治編』、警視庁史編さん委員会 P.304-305</ref>、当時[[警視総監]]になっていた[[園田安賢]]は、西南戦争のとき抜刀隊が編成された例に倣って、抜刀隊を編成して戦地へ派遣したい旨の建言書を、第二部長(保安部)[[森田茂吉]]を[[使者]]として[[内閣総理大臣]][[伊藤博文]]に提出した<ref name="keishichoshi"/>。伊藤は自分にはよく判らないとして、陸軍[[参謀本部 (日本)|参謀次長]][[川上操六]]に提出するよう指示した。 森田から建言書を渡された川上は、「警視庁の奴らは、今ごろこんな事を考えているのか。馬鹿な奴らだ、日本に軍制が布かれてから、もう20年以上も経っているではないか。日本の軍隊は、そんな幼稚なもんじゃない。抜刀隊なんていりやせん。帰って園田にそう言え」と激しい剣幕で突き返した<ref name="keishichoshi"/>。 == 抜刀隊が登場する作品 == ;小説 *[[浅田次郎]]『[[一刀斎夢録]]』、[[文藝春秋]] 2011年 ;テレビドラマ *『[[田原坂 (テレビドラマ)|田原坂]]』、[[日本テレビ]][[年末時代劇スペシャル]] 1987年 == 脚注 == === 注釈 === {{reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == *『警視庁史 明治編』、警視庁史編さん委員会 *『警視庁武道九十年史』、警視庁[[警務部]]教養課 *[[戸部新十郎]]『明治剣客伝 日本剣豪譚』、[[光文社文庫|光文社]] *[[歴史群像]]シリーズ『図説・幕末戊辰西南戦争』、[[学研ホールディングス|学研]] == 関連項目 == *[[靖国神社]] {{戦前の日本警察}} {{DEFAULTSORT:はつとうたい}} [[Category:西南戦争]] [[Category:熊本県の歴史]] [[Category:戦前の日本警察]] [[Category:警視庁]] [[Category:剣術]] [[Category:剣道]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:Cite book ja-jp
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Cite web
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Otheruses
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Quote
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Reflist
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Refnest
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:戦前の日本警察
(
ソースを閲覧
)
抜刀隊
に戻る。
検索
検索
抜刀隊のソースを表示
話題を追加