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慧可
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{{Infobox Buddhist |名前=慧可 |生没年=[[487年]] - [[593年]] |諡号=正宗普覚大師 |尊称=二祖 |生地=[[洛陽]] |没地= |画像=[[File:Huike thinking.jpg|250px]] |説明文= |宗派=[[禅宗]] |寺院= |師=[[達磨]] |弟子=鑑智[[僧璨]] |著作= }} '''慧可'''(えか、[[太和 (北魏)|太和]]11年([[487年]]) - [[開皇]]13年[[3月16日 (旧暦)|3月16日]]([[593年]][[4月22日]]))は、俗姓は[[姫 (姓)|姫氏]](きし)。幼名は神光。[[中国]][[禅宗]]の二祖。正宗普覚大師。 == 略歴 == [[洛陽]]武牢([[河南省]][[滎陽市]])生れ。はじめは[[儒教]]や[[老荘思想]]を学んだが得心せず、[[香山]]の[[永穆寺]]で得度した。出家後は問法のため各地を放浪し、さらに香山に戻り8年間修行を続けた。しかし、ついに疑念を解明することが出来ず、[[嵩山]]の[[嵩山少林寺|少林寺]]で面壁していた[[達磨]]に面会し弟子入りを請うた。達磨は断ったが慧可はあきらめず、自らの腕を切り落として弟子入りの願いが俗情や世知によるものではない事を示し、入門を許されたと伝えられている('''[[雪中断臂]]''')。実際は元から臂がなかったため、後からこの伝説が作られたともいわれている。達磨の[[法統]]を継ぎ、[[禅宗]]第2祖となったとされる。 弟子の[[僧璨|鑑智僧璨]]を育て法統を伝えたが、布教には困難が多く常に迫害や妨害にさらされていた。[[武帝 (北周)|周武]][[三武一宗の法難|廃仏]]では都を出て[[安徽省]]の[[皖公山]]に避難を余儀無くされた。[[城安県]]での布教中、慧可の説法に聴衆を奪われた[[匡救寺]]の僧[[弁和]]が慧可を憎み、「講席を打破した邪見の道人」であると讒訴した。弁和の訴えを聞いた[[県令]]は慧可を捕らえ、取調べなしに処刑した。 == その他 == 最近の研究で[[涅槃論]]の[[恵可]]と同一人物ではないかとする説がある。 == 関連項目 == *[[雪舟]] ---- <center> <table border = 1> <tr> <td width = 30% align = center>師:[[菩提達磨]]<td width = 40% align = center>[[禅宗]] <td width = 30% align = center>弟子:[[僧璨]] </table> </center> {{DEFAULTSORT:えか}} [[Category:禅僧]] [[Category:中国の僧]] [[Category:隋代の人物]] [[Category:隻腕の人物]] [[Category:鄭州出身の人物]] [[Category:487年生]] [[Category:593年没]] {{Buddhism-stub}} {{People-stub}}
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